あなたが最初に治療を始めた病院が「愛知病院」。
更生病院で「骨肉腫」の診断を受け、「愛知がんセンター愛知病院」に向かう車の中。
国道1号線の道沿いに「愛知がんセンター」の大きな看板が立っていた。
あなたは、その看板を見てから、こちらを振り返り
「うち、ガンなの?」と聞いた。
仕事で、その道を通るたび、その声が聞こえてくる。
最近、その看板が無くなった。
愛知病院は「がんセンター」の役目を終え、終末緩和ケアに変わったみたい。
もう、あの看板は見なくて済むわ。
あなたが最初に治療を始めた病院が「愛知病院」。
更生病院で「骨肉腫」の診断を受け、「愛知がんセンター愛知病院」に向かう車の中。
国道1号線の道沿いに「愛知がんセンター」の大きな看板が立っていた。
あなたは、その看板を見てから、こちらを振り返り
「うち、ガンなの?」と聞いた。
仕事で、その道を通るたび、その声が聞こえてくる。
最近、その看板が無くなった。
愛知病院は「がんセンター」の役目を終え、終末緩和ケアに変わったみたい。
もう、あの看板は見なくて済むわ。
去年、石垣島から「幻の島」が見えることがわかったの。
ずっと、その姿を見たいと思っていた。
今回、機会に恵まれて、いつもと違った姿の島を見ることができた。
やったー!
「今回の旅の目的は果たせたな。」と母さんは喜んでいた。
ところが、その翌日訪れた竹富島からも、同じ光景が...
真ん中に見える小さな岩のそば。きっと、この映像だけでは母さんは、「幻の島」だと気付かなかったと思う。
昨日、石垣島からの景色を見ていたからこそ気付けた。逆の行程だったら、知らずに過ごしていたね。
今回の旅は、素敵な人生の先輩たちとの珍道中。
「Nさんの旦那さんに会いに行こう。」と冗談のような一言から始まったこの旅。
3日間、ずっと、いいお天気で、八重山の海は、最高の姿を見せてくれた。
父さんに感謝しないとね。
笑顔のおまじないは、あなたに届いたかな?
最近、知り合った友人の職業は医師。
それも、女性の少ない整形外科医。
美人で優秀な女医さんです。
先日、彼女が務める医院の名前を聞いて驚きました。
あなたがお世話になっていたのは大きな大学病院。だけど、その大学病院にない、精度の高いMRIが小さな個人病院にあったのです。
手術が近くなると、手術の精度を上げるためMRIの画像が必要になります。
担当の医師たちの車で、その医院に連れて行ってもらって、画像を撮ってきます。あなたは、その帰りにランチを食べに連れて行ってもらったことを楽しそうに話していました。
でも、その画像には、手術予定の病巣のほかに、必ず、新しい病巣が写っていました。
3度目の手術の前に撮った画像にも新しい病巣が写っていたときは、先生たちは、手術を断念しようとされたけど、やはり、手術に踏み切られました。
(2007年10月11日のブログにも書いてました)
その個人病院の名前を聞いただけで、そのころの記憶が頭の中を走り回ります。
「まだ、そんな小さなことまで思い出すんだ。」と自分でも驚きました。
最近、入院のせいもあって物忘れがひどいのですが、こういうことって忘れないんだね。
今年の小浜島ツアーには新メンバーが加わりました。
あなたが亡くなってから、12年経って生まれた命、あなたの甥っこ。
お姉ちゃんも、この子を連れて、そこに行くことを楽しみにしていたと思います。
天気予報は最悪だったのに、連日の好天。
甥っこがお天気男なのか、それとも、あなたが歓迎してくれたのか、
こんなに天気が良かったのは、あなたが滞在した時以来です。
あっという間に3日間が過ぎてしまいました。
「また、来るからね。」と幻の島に約束して、帰路に着きました。
母さんが骨折してから、今日で5か月と22日になる。
筋力が不足していて、まだ松葉杖が外せない。
先生は、「動けない期間が長かったから、仕方ないね。焦らずに。」と言われるけど
リハビリの先生の予定では、10月中に松葉杖が外れる予定だった。
筋肉がつくスピードより落ちるスピードのほうが速いんだろうね。
折れた足の筋力はもちろん、もう片方の足も、全身の筋力も落ちているので、思い切ってスポーツジムに通おうと思いたった。
もちろん、健全な体ではないので、医学的な知識を持ったスタッフがいるところでないと心配なので、あなたがお世話になったW先生の病院が併設しているジムに決めました。
入会の前に血液検査があって、診察室の横の処置室に入って待っていると、先生の優しい声が聞こえてきた。
一瞬、先生の横顔が見えたけど、声をかけなかった。
7年くらい前、あなたの弟が「膝が痛い」と言って、慌ててW先生のところに来た時、診察室の壁にあなたの写真を見つけた。
先生は、「その写真を見ては励まされている」とおっしゃっていたわ。
確か、先生は持病を抱えながら診察の合間をぬって、往診されている。
きっと、母さんの顔を見て、あなたのことを思い出し、さらに頑張ろうと思われるよね。
母さんは、そうやって先生にプレッシャーをかけたくないので、処置室でも、小さくなって見つからないようにしていたの。
先生には、「頑張りすぎないで」と、こっそり声をかけて帰ってきた。
はやく松葉杖がとれるように、がんばるわ!
先日、NHKのドキュメンタリーで「安楽死」について放送されました。
難病を患っている日本人女性が、姉妹に見守られながら、安楽死を選択しました。
そして、カメラは彼女が亡くなる瞬間もまわっていました。
また、もう一人の女性は生きることを選択し、生命維持装置を付けました。
生きることを選んだ女性の介護をされているのは、お母様とお嬢様でした。
自分が死んだ後に残されるのが、姉妹か親・子か、という違いには触れていませんでしたが、私は大きな違いがあると思います。生きることを選んだ女性は、自分のためではなく、母のため娘のために生きることを選んだのではないかと思います。
母さんは、あなたが痛み・息ができない苦しさに耐えている姿を見ながらも、「安楽死」という言葉は全く出てきませんでした。
治る見込みもないし、死の瞬間に向かっているのはわかっていても、どこかに、明日も明後日も延々とこの状況が続いて行くと思っている自分がいるのです。
日本人の安楽死を受け入れてくれる団体はスイスにある2団体だけだそうです。費用は150~200万円。
亡くなる瞬間の映像をながし続けたことが「放送事故」だという人もいるけど、私はそうは思わない。
批判が出ることは想定されていたと思うけど、それでも放送に踏み切ったことに共感します。
3世代4世代の家族が一緒に住んでいたころは、おじいちゃんおばあちゃんが家の座敷で息を引き取るのが当たり前でした。小さいころから死は身近にありました。
死がタブー視される現代に、一石を投じる番組だったと思います。
あかね、お誕生日おめでとう。
27歳のあかねなんて、とても想像がつかない。
でも、写真を見ていると、あの頃のあかねは14歳には思えないね。
遺影の笑顔は、大人の女性だよ。
やはり、人生を駆け足で走りぬけたのかな。
生きていたら今頃どんな人生を送っていただろうね。
Yちゃんみたいに3人の男の子のお母ちゃんになっていたかな?
Nちゃんみたいにバリバリのキャリアウーマンになって海外を飛び回っていたかな?
夢に出てくるあかねは、14歳のまま。
最近は爺ちゃんとの共演もあるよ。
そういえば、母ちゃんは爺ちゃんの年齢を越してしまった。
あなたの弟も、あなたの年齢をとっくに追い越している。
いまの母さんの願いは、夢であなたに逢えること。
できれば27歳になったあなたに逢いたいな。
夢で逢えたら..
今日、久しぶりにRちゃんと、あなたのことを話したよ。
10年前のことなのに、昨日のことのように話したよ。
少し頼りなくなっている母さんの記憶と、Rちゃんの記憶をつなぎ合わせて
あなたが鮮明によみがえる。
いまでも、「あなたは生きているなぁ」と感じることができる。
その中で、ひとつ、わかったことがある。
最後の手術をやるかどうか、決めかねていた時、
あなたが言った一言。
「やらなくて、どうするの!」
これは、先生とRちゃんとあなた、3人での会話の中の一言。
周りは、手術をしても、どうせ、また腫瘍ができるなら...と尻込みしていたけど、
あなたは、「できた腫瘍はとる。とるしかない。」と決めていたんだね。
大変な手術をあなたに強いたと、母さんは思っていたけど、違ったんだね。
あなたは、果敢に腫瘍に立ち向かっていた。
それが、いまごろになってわかって、あらためて、あなたの強さを教えられた。
母さんは怪我をして入院しました。
3か月。とっても長かったけど、あなたに比べるとうんと短いね。
手術の後の動けない間、あなたの手術の後のことを思い出しました。
手術の後、動けなくて、じっと眠っているように見えたあなた。
でも、意識は、はっきりしていて、腰やら背中やらお尻、痛かったはずだよね。
あんなふうに褥瘡ができるまで、すごい痛みに耐えていたんだよね。
今になって、やっとあなたの痛みに気付くことができた。
ごめんね。何もしてあげれなくて。
夜中、眠れない時に、このブログを最初から読み直してみた。
忘れてしまっていることが、たくさんあった。
あなたが、どんな思いをして病室で過ごしていたのか...
記憶は薄らいでいくけど、記録は残る。
このブログにあなたの生きた証しを残せたと思う。