赤峰和彦の 『 日本と国際社会の真相 』

すでに生起して戻ることのできない変化、重大な影響力をもつ変化でありながら一般には認識されていない変化について分析します。

過去にこだわってばかりでは明日の日本は築けない コラム(453)

2022-08-19 11:44:11 | 政治見解



コラム(453):
過去にこだわってばかりでは明日の日本は築けない


過去にこだわる右側の人びと

歴史の一側面を知りたくて、書籍をある出版社から取り寄せましたが、そこは書籍購入を通して動画配信を執拗なほど宣伝する会社であることがわかりました。宣伝自体は悪いことではありませんし、私が親しくしている評論家も動画の講座を持っているようですが、疑問に思うのは、過去のことにあまりにもこだわり過ぎて、悲憤慷慨だけで学習が終わってしまい、怨念を生むだけのなにも生産性がないものに思えることです。

たとえば、戦後、GHQは何をしたかということを多方面から切り込んでいる点は評価しますが、それを詳しく知ったところで過去に埋没するだけでは意味がありません。「それがどうした」と居直られればそれで終わりです。せめて、これからどうすべきなのか、具体的に憲法改正だけでいいのか、押し付けられた歴史観から国民を開放するにはどうすればよいのかなどの未来展望を、総論だけでもいいからいれないと、単にアメリカが悪いと叫び続ける人間ばかりを生み出すようにおもえてなりません。

これはまるで日本への怨念でいっぱい韓国と同じ精神構造になってしまいます。結果的に、その出版社が反米ナショナリズムを煽っていることになりますが、その姿勢は現在の国際情勢から考えるとこれは問題になります。なぜなら、反米ナショナリズムを煽って日米間を離反させる行為は、中国を喜ばせるだけだからです。

長らく右側に属する人びとを身近に見てきましたが、明日の日本建設のために過去のことを学ぶという人は少数で、大半は過去の日本に拘って無理やりすべてを肯定して、現状批判はするけれど未来展望はない人が多い。これは、左側に属する人間が「日本なるもの」を全面的に否定することに反発して、アンチとして「日本なるもの」を全面肯定するだけ、思慮深さが足りない人間が多いのです。

その特徴は、過去の日本を無条件に絶賛し、現状に悲憤慷慨するだけですから、すぐに見分けがつきます。これが右側の限界で、一般国民の共感を得られず、長い間、左側の人間の跳梁跋扈を許していた原因です。

この流れを変えたのは、激動する国際情勢の中で、安倍元総理の「日本を守る」という信念でした。この信念は国家的危機を打開し、明日の日本を切り開く未来展望が込められていましたから大多数の国民が共感しました。過去にこだわるよりも、未来をいかに築いていくか、ということの方がいかに重要かを示した好例だと思います。


反省を強要してマウントをとる左側の生き方

一方、左側に属する人びとも同様に、過去にこだわって過去のことを批判することでメシの種にしています。

左側に属する人の典型的な特徴は、「日本なるもの」を激しく否定することにあります。とりわけ、右側の人の真逆で、戦前の日本の在り方を全面否定すること、すなわち、戦争を起こしたのは政府と軍部のせいだとして、自らの正義論をぶちます。しかし、それを主張するほとんどは、朝日新聞のように積極的に戦争を翼賛したいわば加害者かその子孫で、自らの犯罪性を隠蔽しようとする悪辣な意思が透けて見えます。まるで、ナチスドイツの残虐行為をすべてヒトラーに負わせる現代ドイツ人と同じ心理に見えて仕方がありません。

しかも、自らの正義感の正当性を主張するために、一般国民に対して「戦争への反省」を要求します。これを善良で素直な日本人は自分も悪いことをしたかのように思い反省し、今日にいたっているわけですが、これらの人びとは、善良な人であればあるほど、過去の日本が悪かったことばかり思って、「過ちは繰返しませぬから」思うようになってしまいます。つまり、反省の強要は輝かしい未来をも奪ってしまうのです。

過去に拘り、過去の行為を激しく非難し、反省を強要する、この後ろ向きな精神性が、現在、メディアに顕著に見られます。安倍政権時代を振り返ってみると、安保法制を成立させてしまった後ろめたさから、モリ・カケ・サクラで安倍元総理に反省を強要していました。そして、凶弾に倒れたいまも、統一教会問題で安倍元総理を非難しています。この構図は、まるで「死せる孔明生ける仲達を走らす」にそっくりです。

彼らはこんなことを繰り返してばかりいてむなしいと思わないのでしょうか。彼らは人に反省を強要しても、自分は反省しませんのでを鈍感であることだけは確かです。しかし、そんな過去に拘ってばかりいては、激動する時代の変化についていけなくなり、取り残されてしまう哀れな存在となってしまいます。

実際、すべてのニュース番組とテレ東のWBSを比較してみるとこの意味がわかると思います。どの局のニュースを見ても学ぶべきことはなにもありません。しかし、WBSを見ていると経済動向を通して世の中の動きがわかります。過去の出来事しか言わないニュースを見ても明日の展望は開けることはありません。それだけに、日本の未来も暗く感ずるだけでなく、メディア自身のの未来も暗いものとしての印象を受けます。結局、メディアは時代の波に淘汰されるべき存在なのかもしれません。


過去に拘り反省しても明日は見えない

ここまででお気づきになったように、過去にこだわってばかりいて、反省ばかりしていては、明るい未来展望は開けないということです。

私たちは、日教組教育で「過去を振り返り、反省する」ことが美徳のように教えられてきたと思います。実際、小学校ではホームルームの時間に反省会なるものがありましたが、反省とは名ばかりの相互批判が目的になっており、私を含めて批判精神旺盛な人間ばかりを生み出してきました。

また、「反省」という行為は悔い改めることに主眼があるのですが、教育の現場での反省は、自己嫌悪といじけさせることに主眼があり、祖国に対する愛の気持ちを失わせるだけでなく、反省を強要する勢力に絶対的服従を誓わせる行為にすぎませんでした。これは今日の政治状況にもよく見られます。反省を強要する側が明らかにマウントを取りにいっているのがわかるからです。

もう一つ事例を挙げると、宗教でも「反省」を強く説くところは邪教です。反省させることで、その宗教に絶対服従させて、よく言えばお布施を、悪く言えば金の簒奪を目論んでいます。問題の統一教会も、「迷っている先祖に取り憑かれている(お前が悪い)から取り除いてやる」という反省の論理の展開です。創価学会のいう「地獄に落ちるぞ」という脅し文句も創価学会に対する反省を求める行為が、前提となっています。

こうやってみると、過去に拘らせ、反省させるという行為は、精神的にマウントをとるか、金銭的な収益のため巧妙に利用されている便利なツールであるということがわかります。


朝日新聞を反面教師にすれば明日が切り開ける

結局、私たちには、過去にこだわること、そして、反省することは、善人にはなれるかもしれないが、明日に向かって生きるためにはほとんど意味がないということを理解しなければならないと思います。とりわけ、やりっぱなしで周りに迷惑ばかりかける人には反省がそれなりに不可欠かもしれませんが、素直で善良な人には反省は邪魔だということです。

明日の輝かしい日本をつくるためには素直で善良な人の総和の思いと行動が必要ですが、その人たちがいつまでも過去にこだわって反省ばかりしていては先に進むことはできません。

今日の日本が停滞しているのは、右も左も過去ばかりにこだわって前を見ていないからです。高齢化社会であろうがなかろうが、前を向いて、明日の日本の建設のために知恵を出し合えば、互いに明るい未来を描き切れば、明るい未来がくるのは明らかです。

そのためには、いい方法があります。朝日新聞の言うことと逆をやることです。朝日新聞が煽ったことで日本は戦争の道にはいりました。戦後は朝日新聞の論調によって、かつてのソ連や現中国の侵略あるいはサイレント・インベージョン の危機に至りました。したがって、朝日新聞の論調の逆が正解であるということです。

逆説的に言えば、朝日新聞にも少しは役立つところがあるようです。



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