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ちくわの夜明け

北朝鮮 よど号グループ取材記・9 『北朝鮮という国』

2013-04-12 18:24:07 | 映画制作
訪朝4日目続き。



北朝鮮の記事とか非常にタイムリーだなぁ、と思うのですが、一方でわたしはいわゆる『表現者』といわれる方たちほど自分が強くもシッカリしているわけでもなく、いつもいつも迷いながらブラブラしている人間なので、正直に申し上げますと一連のこういった記事を書くのはちょっと怖い、というか、自分の「一市民」という匿名性を捨てているようで、おびえを感じながら書いています。
良くも悪くも、いや悪いんですが「俺はこういう立ち位置だ!」と叫ぶことに非常に恐怖を感じるんです。誰だってそうだと思いますが、これは何かを表現しようとしている自分にとって圧倒的な弱点だと常々思っています。
つうか確かに一般市民であり、実績も何も無い人間なんですが…


北朝鮮に対する見方が変わったのは完全に「訪朝してから」であり、はたから見ると平壌でいいもてなしを受けて思想的に懐柔された!と思われるかもしれません。
確かにそんな側面もあると言えばあります。ただそれは自分の中でよりどころにしている「見たもの、感じたものしか分からない」という考えと、「義理」という考えもあります。
この「義理」はレバノンに行き、パレスチナ人キャンプを見せてもらった時にも発生しており、わたしは以後少なくともこのパレスチナ問題に対し「義理を感じながらこの問題を考えよう」としています。
なんで義理かって言うと、世界のあらゆる出来事は情報や知識だけで処理できるものではない、と思うからです。ノンポリもいいとこな自分が拠るべきものとしてこの「義理」は数少ない根拠なのです。
正しい、正しくないという判断は自分には下せず、だからといって何も発しないわけにはいかない、そういうジレンマがあって、いつしかこう考えるようになりました。



つうわけで、4日目の夜です。
この日はムルコギ食堂というところへ。

調べてみると「ムルコギ」っていうのは「魚」という意味らしいので、正式な店名は今となっては分かりません。写真に書いてるのでハングル分かる方だけ了解していただければ。

店の周りは川のほとりの公園になっており、平壌市民がくつろいでおりました。


釣りをしながらタバコを分けるオッサン二人。

本を片手に川のほとりを歩く青年。

川の向こうには解体中のビル。


お店の前をキョロキョロとしてから中へ。
ムルコギと紹介された通り、お魚系のメニューが中心のお店です。
今日も大同江ビールがうまい!!!

一通り飲み物と料理がそろったら、ウェイトレスのお姉さんがカラオケを歌ってくれます。

お姉さん歌うまい。

向こうの人は歌も、踊りもうまい。赤木さん曰く「朝鮮は歌と踊りがやれないとやっていけない。だからレベルが高い」とのこと。
北朝鮮の「娯楽」ということなんでしょうね。

そしてこちらからも、植垣さん、よど号グループの皆さんらが肩を組んで『ワルシャワ労働歌』の合唱。


♪暴虐の雲 光をおおい
 敵の嵐は荒れくるう
 ひるまず進め
 われらが友よ
 敵の鉄鎖をうちくだけ…


『インターナショナル』もかっこいいけど、『ワルシャワ労働歌』もかっこよくて血が滾ります。



赤木さんとウェイトレスのお姉さんのデュエット。

次いで、安部さんも歌い「今日は赤軍兵士(植垣康博さん)がいるから特別だ」と、よど号グループ4人が肩を組み、今まで他人の前では歌ったことはないという歌をご披露してくれました。
革命歌なのか、朝鮮の歌なので内容は分かりませんが『ワルシャワ労働歌』などと同様、勇猛果敢なフンイキのメロディでした。

植垣さんも酔っ払い「こりゃあいいや!こりゃあ気合入った!」とゴキゲンでありました。



そしてまた、ウェイトレスさんが歌ってくれました。
悲しげだけど、美しいメロディで。
よく見ると、彼女は目にいっぱいの涙を浮かべて泣いていました。

え…なんだなんだ。

どういうことかというと、どうも『苦難の行軍』を歌った曲のようです。
以下ウィキぺディアから。

【苦難の行軍】
苦難の行軍(くなんのこうぐん)は、朝鮮民主主義人民共和国で、1996年1月1日の朝鮮労働党機関紙『労働新聞』の新年共同社説で使われた、飢饉と経済的困難を乗り越えるためのスローガンである。1938年12月から1939年3月まで金日成ら抗日パルチサンが満洲で日本軍と闘いながら行軍したことに準えている。朝鮮民主主義人民共和国では、1990年代後半に、飢餓により22万人から350万人が死亡したといわれる。



これについてガイドのKさんが当時を回想してくれました。
「(当時は)ロシアの、中国の支援も無い、一番苦しい時でした。本当に苦労して…生きるかどうかの瀬戸際だったんですね。それ(苦難の行軍)は一言では、一言では言えない…しかしそれは皆が要求したから。それは我々の生き方ですので。望みでした。もちろん死んだ人はたくさんいます。たくさんいます…、この……ね……苦労、苦労した……」
語るうちに涙で言葉につまって、席を離れてしまいました。


これはわれわれ世代が経験したことの無い領域で、「思想に生きる」ということのジレンマなんじゃないか、と思います。
個人的には非常に悲しいことがあった。周りの親しい人々もたくさん死んだ。
しかし大義のために、これは乗り越えなくてはならなかった。

そういうことなんじゃないんでしょうか。


もちろん、わたし自身はそんなの絶対「要求」しないし、そういう生き方もしたくない。
しかしだからといって彼らの生き方を誰が馬鹿にできるんだろう。

一番胸に刺さったのは「我々の生き方」という言葉でした。

それに対してどこの誰が馬鹿にする権利なんかあるのだろう?と思ったのです。
知らず知らず、日本人は北朝鮮の人々を下に見ているように感じます。
ウェブ上の北朝鮮旅行記なんかでも、たいていなぜだか「面白おかしく」書こうとしています。
どうしてそこでウケを狙う必要があるのかな、と思います。

例え北朝鮮、もしくは平壌の一部の人々でも、それを信じて命がけで思想に生きている人々がいる。
わたしが思ったのは、多くの日本人が北朝鮮をちょっと「おかしい人達」みたいに捉えている限り、国交も成せなければ、両国のさまざまな問題も解決しないんじゃないかな、ということです。

生きている人達をきちんと理解する、ということから国交のようなものは始まるんじゃないかな、と。


いろんな矛盾があり、国のどこかで人々は飢えているのかもしれません。
でも、敵のように蔑むような見方をしたところでどうなるものでもない、と感じました。


実はこれ、この時自分に向かっても思ってたのです。
最初にも書いたとおり、わたしだって北朝鮮といえば闇に包まれた独裁国家で、何をやるか分からない人達、そして文化は時代遅れ、という印象でした。
だいたいの日本人が持つ北朝鮮観と、そうずれてなかったと思います。

しかし訪朝を経て、こういった話を聞いて、日本という国はそういうフィルターで北朝鮮を見ているし、マスコミの報道もまたそうなってしまうのだ、ということを知りました。


どんな国であれ、馬鹿にすることはできない。
人の生き方を笑ったり、おちゃらかしたり、そんなことは誰もしてはいけないことで、ただ単に失礼だ、と、そう思った夜でした。




続く

前回まではこちら
【北朝鮮 よど号グループ取材記・1 北京】
【北朝鮮 よど号グループ取材記・2 平壌へ よど号グループとの初対面】
【北朝鮮 よど号グループ取材記・3 よど号グループ帰国問題談話・平壌観光】
【北朝鮮 よど号グループ取材記・4 人民大学習堂/万寿台の丘】
【北朝鮮 よど号グループ取材記・5 主体思想塔と平壌の遊園地】
北朝鮮 よど号グループ取材記・番外編 北朝鮮のハンバーガー
【北朝鮮 よど号グループ取材記・6 祖国解放戦争勝利記念館】
【北朝鮮 よど号グループ取材記・7 大同江果樹農場】
【北朝鮮 よど号グループ取材記・8 『赤軍という現象の歴史的再定義』】
北朝鮮 よど号グループ取材記・番外編 「犬食った。」



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