今週の「手稲一万歩会」は手稲山口のバッタ塚巡り。
手稲コミニュティーセンターを出て、手稲駅西側跨線橋を渡って、樽川通りをひたすら北上。
新川南通りを河口方向へ進み市営住宅山口団地を左手に見、オロロンラインとの交差点を過ぎると手稲水再生プラザに出る。
さらに直進して汚泥焼却場手前のバッタ塚橋(濁川)を渡り、焼却場の向かって右に伸びる砂利道に入ると案内板がある。
北海道開拓使時代にバッタが大発生し農作物を食べ荒らされる被害が出た。
明治16年、人手と器具で付近10km以内の土中から堀り集めたトノサマバッタの卵数億をうね状に集積し、鍬でその上に20cmほど砂をかけて翌春孵化するのを防ぐ、当時としては世界でも最新の方法が行なわれた。
現在残っているのは手稲山口バッタ塚のみで、日本の害虫対策史上きわめて貴重な遺跡の一角である。
紙芝居。
メンバーが当時の苦労の様子を紙芝居で披露、拍手喝采を浴びた。
手稲コミニュティーセンターを出て、手稲駅西側跨線橋を渡って、樽川通りをひたすら北上。
新川南通りを河口方向へ進み市営住宅山口団地を左手に見、オロロンラインとの交差点を過ぎると手稲水再生プラザに出る。
さらに直進して汚泥焼却場手前のバッタ塚橋(濁川)を渡り、焼却場の向かって右に伸びる砂利道に入ると案内板がある。
北海道開拓使時代にバッタが大発生し農作物を食べ荒らされる被害が出た。
明治16年、人手と器具で付近10km以内の土中から堀り集めたトノサマバッタの卵数億をうね状に集積し、鍬でその上に20cmほど砂をかけて翌春孵化するのを防ぐ、当時としては世界でも最新の方法が行なわれた。
現在残っているのは手稲山口バッタ塚のみで、日本の害虫対策史上きわめて貴重な遺跡の一角である。
紙芝居。
メンバーが当時の苦労の様子を紙芝居で披露、拍手喝采を浴びた。