2010年、ルイージがPMFの5代目の芸術監督に就任し、札幌コンサートホールKitaraの演奏会にフランスの人気若手ピアニスト“リーズド・ラ・サール”をソリストに迎えて、ショパンの「ピアノ協奏曲第2番」を演奏してくれました。
(2010/7/31 札幌コンサートホールKitara)
以来、私はルイージの虜になってしまいました。
2010年、ルイージがPMFの5代目の芸術監督に就任し、札幌コンサートホールKitaraの演奏会にフランスの人気若手ピアニスト“リーズド・ラ・サール”をソリストに迎えて、ショパンの「ピアノ協奏曲第2番」を演奏してくれました。
以来、私はルイージの虜になってしまいました。
退院して快方へ向かっていたのですが、深夜トイレに起きて鏡を見たら顔がパンパンに!
顔面が腫れ上がり瞼も塞がっていて、「これはマズイ!」と判断してタクシーを呼び、夜間救急に駆け込みました。
当番医が丁寧に診てくれた後、偉そうな先生が来て「これは入院だわ!」と宣告され、深夜の3時に入院しました。
循環器内科の主任医長が主治医となり、病名は「薬疹」「眼瞼浮腫」「膨隆疹」と診断され、薬剤の中止とアレルギーの治療が始まりました。
午後、皮膚科の先生がベッドサイドに来て、躰全体を丁寧に診てくれた結果、「顔面以外には出ていない」とのことで、ステロイド外用薬が処方されました。
一方、ホルター心電図の遠隔監視で異常が認められたのか?看護師が「胸苦しくないか?」と飛んできた。
担当医から「ステント留置箇所が詰まったのかも知れない」と、再度のカテ一テル検査を求められ同意。
今度は左手首からカテーテルを入れて検査、結果「異状なし」とのことで安堵。
入院中に考えさせられることが多々ありました。
一般病棟へ移った直後は、看護師・臨床工学士・理学療法士・栄養士、薬剤師などが次々とベッドサイドに現れ、なかなか寝かせて貰えませんでした。www
翌日以降も看護師による朝・昼・夜のバイタルチェックや、理学療法士による心臓リハビリ、退院に向けた歩行訓練と慌ただしく、寝不足解消のための昼寝の時間はありませんでした。
そんなタイミングで東京の友人からLINEで旅の便りが届き、思わぬ入院見舞いとなりました。
手術は4月1日に行われ、救命のため右冠動脈の狭窄箇所にステントを入れるものでした。
術前の検査・措置等に時間を要したようですが、その間、胸痛で悶絶していたので酸素や様々な管や線に繋がれた状態で手術台の上で何をされたのかあまり覚えておりませんが、医師や看護師が盛んに声を掛けてくれたことは記憶にあります。
救急病棟へ移ってから胸痛が消えていることに気が付き「助かった!」と思いました。
もともとは大野病院でバイパス手術を、渓仁会病院に転院してからはカテーテル治療を勧められていたのですが、合併症や偶発的な血管穿刺、血栓の遊離による脳梗塞のリスクなどが怖くて同意することが出来ず、薬物療法に頼ってきた結果の緊急事態でした。
今回は救命措置として最悪の部位だけの治療でしたが、冠動脈の他の部位にも狭窄があり放置できないとのことで、日を改めて手術することで4月6日に一旦退院しました。
持病の狭心症が悪化して心不全症状に陥り救急搬送されました。
即、緊急手術が行われ“命拾い“しました。
前日まで普通に散歩していたのですが、3/31の夜、突然胸が締め付けられるような激痛に襲われ、ニトロのスプレーを舌下に噴射すると一時的には収まるものの何度も発作に襲われました。
幾度も救急車を呼ぼうか考えましたが、深夜だったこともあり「そのうち収まるだろう」「今度こそ……」と、10回ほどニトロを舌下に噴射して夜をやり過ごました。
朝になって今まで経験したことのない激痛に襲われ、「死ぬかもしれない!」と必死で病院に電話しました。
病院の指示は「すぐ救急車を呼びなさい!」でした。
写真はイメージです