戦争のことは何一つ語ることなく逝ってしまった父。
晩年、病をおしてまで何度も出かけた戦友会は、父にとって何だったのだろう!? 終戦の日にあたり父の資料を紐解いてみた。
軍歴
農家の長男として育った父秀雄の許へ昭和14年5月1日赤紙が届き充員召集された。(25歳)
(出征記念)
歩兵第27連隊に入隊後、第2野戦建築輸卒隊幹部要員として砲兵第7連隊に転属。
昭和14年8月15日に南京に上陸して第2野戦建築輸卒隊本部に入隊。主に兵舎や野戦病院用の建築資材の調達や輸送に携わり、南京を拠点に揚州への分派や上海への駐屯を繰り返していた模様。
(当時はまだ陸軍伍長か?)
一家の働き頭を戦場へ送った祖母コトは秀雄の弟妹と田畑を守り、昭和16年の農地解放により3町歩ほどの耕地を手に入れ自作農になった。
しかし、戦時体制の強化とともに食糧増産を強いられ、せっかく収穫した農作物は強制的に供出させられ、暮らし向きは一向に楽にはならなかったようである。
(農地解放記念)
丸3年間に及ぶ兵役を無事勤め上げ、昭和17年4月23日に召集解除され復員。しかし、その年にいわゆる「食管法」が公布され、米の自由な売買が統制されたため農家の必需品購入も困難な時代になって行った。
そんな中、昭和18年2月20日に父秀雄と母ミサオは温根湯で結婚式を挙げた。
(秀雄 29 歳)
復員から僅か1年後の昭和18年5月21日、新婚3か月で再び召集された。母のお腹には長男洋史が宿っていたことになる。
再召集された秀雄は第7師団歩兵第27連隊に再入隊し、千島防備強化、道南沿岸警備、九州南岸警備へと目まぐるしく命が変わり北から南へ駆け回っており、戦況悪化に伴う当時の軍の混乱ぶりが伺える。そんな中、昭和19年1月10日に長男洋史が誕生するが、当時の戦況からして手紙で写真などを送ることが出来たのだろうか?
(長男洋史出生記念)
再召集後、最初に向かった地は千島列島の最北端の占守島で、カムチャツカ半島と国境を接する対ソ連の要衝地であった。(昭和18年7月15日上陸)
しかし戦況悪化のため次々と命が変わり、昭和18年10月31日砲兵第27連隊留守部隊に帰属、昭和18年11月21日稚内特警教育のため北部第9503部隊に配属、昭和19年3月3日旭川に帰着、昭和19年6月16日道南沿岸警備のため浦河着、そして最後の命は昭和20年5月23日九州南岸警備のため鹿児島へ。
3か月後の昭和20年8月15日終戦を迎え無事帰還を果たす。その翌年8月3日この世に生を受けました。
(生家の前で父と兄と一緒に)
『
生死を分けた運命』
ポツダム宣言受諾により太平洋戦争が停戦した後の8月18日、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍が占守島に突如侵攻、武装解除中であった日本軍守備隊と戦闘となった。3日間に及ぶ戦闘で日本軍600名以上の戦死者、ソ連軍3,000名以上の死傷者を出し、日本軍優勢に推移するものの軍命により21日に日本軍が降伏し停戦が成立、23日に日本軍は武装解除された。
捕虜となった日本兵はその後大勢がシベリアへ抑留された。
もしも父が占守島に留まっていたら、その後の運命は如何に?
戦況悪化により父の任務が次々と変わり、占守島を離れたことが結果として無事の帰還に繋がり、今の私が存在する訳で、ただただ感謝するばかりである。
ただ、なぜ父が戦争を背負ったまま逝ってしまったのか、何一つ読み解くことはできなかった。