ようやく涼しくなってきたので、免許証の更新手続きに行ってきました。
先日の高齢者講習と認知機能検査を受講した自動車学校で聞いた耳寄り情報をもとに、混まない時間帯を狙って行ったところ本当にガラガラでした。
視力検査も写真撮影も待つことなく、30分ほどで新しい免許証が交付されました。
80歳を節目に自主返納することを決めており、今回が最後の更新になることから、向後3年間は絶対無事故でゴールを迎えられるよう、さらなる安全運転に徹する覚悟です。
ようやく涼しくなってきたので、免許証の更新手続きに行ってきました。
先日の高齢者講習と認知機能検査を受講した自動車学校で聞いた耳寄り情報をもとに、混まない時間帯を狙って行ったところ本当にガラガラでした。
視力検査も写真撮影も待つことなく、30分ほどで新しい免許証が交付されました。
80歳を節目に自主返納することを決めており、今回が最後の更新になることから、向後3年間は絶対無事故でゴールを迎えられるよう、さらなる安全運転に徹する覚悟です。
東京の友人から “LINE” で旅の便りが届きました。
会社の後輩と二人きりの伊豆大島への旅だそうです。
都会の喧騒と猛暑から逃れて、思いっきり弾けている様子が伝わってきます。
大島はフランチャイズといっていいほど何度も訪れており、島を熟知していればこその案内ができたようで、後輩との良好な関係が更に進展したことでしょう。
島には知人・友人も多いそうで、「退職後は月の半分くらいは島での生活を楽しみたい」と明かしてくれました。
何とも羨ましい限りです。
東京の友人から素敵な “写メ” が届きました。
お庭に現れた「真夏の使者」とも言うべきイトトンボ。
猛暑日の記録を更新中の東京都心に、まさに一服の清涼剤!
その涼し気な姿に、一瞬暑さを忘れさせてくれました。
道の発表によると、エゾシカの捕獲にあたっていたハンターが放牧地でヒグマを発見。人を見ても逃げなかったことから有害個体と判断し、ライフルを3発発射して駆除したとのことです。
ハンターはそれが「OSO18」とは知らなかったそうですが、道が体毛をDNA鑑定したところ「OSO18」であることが特定されたそうです。
標茶町や厚岸町などでは2019年から牛66頭が襲われており、「OSO18」の名は、最初の被害が確認された地名と足跡の幅が18cmだったことにちなみますが、捕獲後に測ると20cmあったそうで、足が大きくなるほど牛を食っていたということか!?
牛60頭以上が犠牲になった後であり、遅かった感は否めませんが、漸く駆除されて地元の人は安心して営農に就けることでしょう。
今日は “二十四節気” の一つ「処暑」ですが、今日と明日はこの夏初めての猛暑日(35℃)の予報が出ています。
例年ならお盆過ぎには秋風が吹くのですが、今年はこの時期になっても真夏日が続いています。
いい歳こいて衝動買いした「かき氷機」が、とても重宝しています。(笑)
道内ではこれまであまり例のない豪雨災害が発生するなど明らかに気象が異常です。故郷の北見では名産の玉葱に大きな被害が出ています。
8/16にM19が初点灯した阪神は、8/20時点で3つ減ってM16としたが、果たしてこれを順調と見るか否か?
なにせ小学生の時からの阪神ファンなのに、この歳までに5回しか優勝していないのだから気が気でないのです。
しかも、過去にはMを点灯しておきながら優勝を逃したシーズンが二度もあったのですから尚更のことです。
さらに運の悪いことに先日のヤクルト戦で、守りの要の梅野捕手が死球を受けて骨折して今季絶望となってしまい、優勝へのカウントダウンに赤信号が灯らなければよいのですが……
思い起こせば、確か小学3~4年の頃には阪神ファンになっていて、当時のスター選手の名前やポジショをはっきり覚えています。
関西に縁もゆかりもない自分が、何で阪神ファンになったのか、未だによく解らないのですが、強いて挙げれば父が朝日新聞をとっていたことから、長い間に自然と感化されていったのかも知れません。
当時、北海道は巨人ファンだらけだったので、勇気がなくてずーっと隠れ阪神ファンを貫いていたものです。
カラオケで「六甲おろし」を唄えるようになったのは40過ぎてからのことでした。(笑)
セパ交流戦では札幌ドームのビジター席に陣取って、虎キチと一緒に阪神を応援するのが年に一度の楽しみでしたが、ここ3年ばかりはコロナの影響で行けてません。
せめて秋にはカラオケで「六甲おろし」を思いっきり唄ってみたいものです。
終戦記念日の8月15日、全国各地で「戦没者追悼・平和祈念の催し」が行われ、日本武道館では政府主催の「全国戦没者追悼式」が執り行われました。
戦争について何一つ語ることなく逝ってしまった父。晩年、病を抱えてまで何度も出かけた戦友会は父にとって何だったのだろうか!?
父の「軍人恩給申請書類」から軍歴を紐解いて、当時の足跡を辿ってみたいと思います。
農家の長男だった秀雄の許へ赤紙が届いたのは昭和14年5月1日(25歳)、母ミサオと結婚する4年前のことで、私など影も形もない頃のことでした。
歩兵第27連隊に入隊後、第2野戦建築輸卒隊幹部要員として砲兵第7連隊に転属。
昭和14年8月15日に南京に上陸し、第2野戦建築輸卒隊本部に入隊。主に兵舎や野戦病院用の建築資材の調達や輸送に携わり、南京を拠点に揚州への分派や上海への駐屯を繰り返していた模様。
一家の働き頭を戦場へ送った祖母コトは秀雄の弟妹と田畑を守り、昭和16年の農地解放により3町歩ほどの耕地を手に入れ自作農になった模様。
しかし、戦時体制の強化とともに食糧増産を強いられ、せっかく収穫した農作物は強制的に供出させられ、暮らし向きは一向に楽にはならなかったようである。
丸3年間に及ぶ兵役を無事勤め上げ、昭和17年4月23日に召集解除され復員。しかし、その年にいわゆる「食管法」が公布され、米の自由な売買が統制されたため農家の必需品購入も困難な時代になって行った。
そんな中、昭和18年2月20日に父秀雄と母ミサオは温根湯で結婚式を挙げました。
復員から僅か1年後の昭和18年5月21日、新婚3か月で再び召集された。母のお腹には長男洋史が宿っていたことになります。
再召集された秀雄は第7師団歩兵第27連隊に再入隊し、千島防備強化、道南沿岸警備、九州南岸警備へと目まぐるしく命が変わり北から南へ駆け回っており、戦況悪化に伴う当時の軍の混乱ぶりが伺える。そんな中、昭和19年1月10日に長男洋史が誕生するが、当時の戦況からして手紙で写真などを送ることが出来たのだろうか?
再召集後、最初に向かった地は千島列島の最北端の占守島で、カムチャツカ半島と国境を接する対ソ連の要衝地であった。(昭和18年7月15日上陸)
しかし戦況悪化のため次々と命令が変わり、昭和18年10月31日砲兵第27連隊留守部隊に帰属、昭和18年11月21日稚内特警教育のため北部第9503部隊に配属、昭和19年3月3日旭川に帰着、昭和19年6月16日道南沿岸警備のため浦河着、そして最後の命は昭和20年5月23日九州南岸警備のため鹿児島へ。
その3ヵ月後の8月15日に終戦を迎え無事帰還し、翌年8月3日この世に生を受けました。
ポツダム宣言受諾後の8月18日、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍が占守島に侵攻、武装解除中であった日本軍守備隊と戦闘となった。
3日間に及ぶ戦闘で日本軍600名以上の戦死者、ソ連軍3,000名以上の死傷者を出し、日本軍優勢に推移するも軍命により21日に日本軍が降伏し停戦が成立、23日に日本軍は武装解除され、捕虜となった日本兵は大半がシベリアへ抑留されたのです。
幸いだったのは戦況悪化により父の任務が次々と変わり、占守島から転属を命ぜられたことでした。もし父が占守島に留まっていたらどうなっていたか分かりません。軍命により短期間で占守島を離れたことが結果として無事の帰還に繋がり今の私が存在するのです。
77年の人生にただただ感謝するばかりです。
「なでしこジャパン」が準々決勝で敗退、15年カナダ大会以来2大会ぶりとなる準決勝進出は果たせませんでした。
サッカーの女子ワールドカップ準々決勝で「なでしこジャパン」はスウェーデンと対戦、決勝トーナメン1回戦で米国を倒した強豪スウェーデンに1―2で敗れ、快進撃を続けてきた大会5戦目の初黒星で無念の敗退となりました。
事実上の決勝戦と呼ばれた一戦も、開始から球際で勝てず後手に回り、ほぼ何もさせてもらえないままの2失点でしたが、後半は11本のシュートを浴びせ1点をもぎ取った戦いぶりはアッパレでした。
終了のホイッスルがピッチに響くと、なでしこイレブンはピッチに崩れ落ち涙を流しました。
試合後、スウェーデン代表DFが泣き崩れる浜野に声を掛け優しく抱擁、互いの健闘を称え合う姿に世界中から称賛の声が寄せられています。これだからスポーツはいいのです。
スウェーデン紙も、浜野に声を掛けた場面について「彼女にはこれからも“大きな大会”がたくさん待っていると伝えました。彼女自身がこの場所に立てたことをプラスの経験にして前に進んでほしいと…」と話したと報道。2人の交流が反響を呼んでいると伝えたそうです。
快進撃を続けてきた大会5戦目の初黒星でベスト8での敗退となりましたが、胸を張って帰ってきて間もなく始まる来年のパリ五輪予選に向けて頑張って欲しいものです。
桜の木が伐採されたお向かいさんの庭では、その後ほかの樹木や草花など一切が抜去され、花壇もドリル破砕機であっけなく取り壊され、残土や瓦礫の山が綺麗に片づけられました。
窓の外の景色が変わると、まるで別の土地へ転居して来たかのような錯覚さえ感じるものです。
今度どんな方が入居されるのか楽しみです。
パワーショベルなどの重機をまるで自分の手足のように自在に操り、次から次と作業をこなしていく様はなんとも小気味よく、一日中眺めていても飽きることはありませんでした。
それにしても重機の威力は凄まじく、もしスコップなどの人力なら一体何日かかることでしょう?
重機などが無かった戦国時代、城の石垣などはどうやって築き上げたのか、改めて先人たちの知恵と労苦に敬服する次第です。
女子ゴルフ「北海道meiji cup」(札幌国際CC島松コース)
腰のヘルニア手術のため3ヵ月ぶりのツアー復帰となった原英莉花と、先月のミネベアミツミレディスで地元初優勝を飾り、地元2連覇を狙う小祝さくらが同組になったと聞き、居ても立っても居られず半ば衝動的に出かけてきました。
同組の二人を見るのは昨年のニトリレディース(小樽CC)以来1年ぶりですが、普段から仲の良い二人の相性の良さから相乗効果で、互いに好成績につながることが多いようです。
地元北広島市出身の小祝さくらは、中学時代から知り尽くしている島松コースで、8バーディー、ノーボギーの「64」 8アンダーで単独首位に。
病み上がりで3ヵ月ぶりの復帰戦となった原英梨花は、序盤でボギーが先行したものの、終盤に連続バーディーを奪うなど次第に勝負勘を取り戻したようで、トータル「71」とスコアをまとめ、表情にも明るさが戻っていた。
圧巻は17番のチップイン・バーディーでした。パー3のショートホールもワンオンならず、ラフからのアプローチは柔らかいスイングでカラーにワンクッション、ボールはそのままラインイに乗りカップイン。軽く拳を握ってガッツポーズ! あまり冴えなかった表情も一気に変わり、続く18番でも連続バーディーで何時もの笑顔に。
人気者同士の組ゆえに大ギャラリーを覚悟しての “追っかけ” でしたが、初日(金曜日)のためか意外と少な目で安心して観戦することができました。
久しぶりに、豪快なドライバーショットの醍醐味や、正確なセカンドショットの落としどころ、そしてピンポジに対応したグリーン攻略のマネジメントなど、改めてプロの技術の凄さを目の当たりにしながら、芝生の匂いや林間を吹き抜ける優しい風に癒されてきました。
77歳の誕生日を迎えました。
世間では「喜寿」って言いますが、本当に目出たいのかどうか?
厚労省発表による日本人男性の平均寿命は 81.05年で、あと4年あまり。
これを短いととるか? 長いととるか? 人それぞれであろう。
自分では既にやりたいことは全てやり切った感があり、もう何も思い浮かばない。
強いてあげれば世界一周くらいだが、訳ありでワクチン未接種の身には無理。
長男との誕生日が近いことから、せめて家族旅行でもと考えたが、コロナが下火になったとは言え、やはり自分には度胸がなく計画をキャンプに変更。
数十年ぶりのキャンプということで、かなり入れ込み気味で準備をしていたが、あいにく前線の接近により大雨注意報が出されて中止に。日を改めようにも予約でいっぱい、今さらゼロから企画する気力もなく止む無く断念。
すでに「エンディングノート」を書き終えた今、あとは何をして行けばいいんだ!?
夕食は息子たちを交えてお祝いの真似事をした。