桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

紅花と西陣

2010年05月31日 16時42分33秒 | つぶやき

 曇のち雨、という天気予報が外れて、気温は低いけれども、朝から陽射しが出ました。
 朝日を浴びながらベランダに置いた植木類に水遣りをしました。
 ダイエーで買った鉢植えの桔梗二鉢のうちの一鉢に、一つだけですが、第二陣の蕾が出たのを見て、ちょっとうれしくなりました。

 鉢植えで売られている花はおおむね早生につくられているので、自然の気候に慣れるのに時間がかかったり、結局慣れることがなかったりします。



 桔梗の蕾に気をとられていたので、昼を過ぎるまでまったく気づかなかったのですが、紅花がいまにも花を開こうとしていました。
 種を播いたのは去年十一月八日。芽を出したのは前のブログにも書いたように、私が入院することになった二十日の朝です。
 それから一週間後に短時間の小外出が許されて庵に帰るまで、水遣りができなかったのにもかかわらず、健気にもほとんどない水分を幾本かの芽で分け合いつつ育ってくれました。
 種を播いて半年でようやく花を咲かせようとしています。



 もう一つうれしいこと。
 正月明けに斑(ふ)入りと一緒に送ってもらった斑なしのツワブキ(石蕗)がちゃんと根づいていてくれたのです。枯れたと諦めて顧みなかった間に、いつの間にか小さな葉が六つも顔を覗かせていました。
 送られてきたとき、斑入りのほうの根には土がついていましたが、この斑なしのほうは送ってくれた友が力任せに引っこ抜いたようで、根が剥き出しになっていたのです。
 すぐ鉢に植え替えましたが、三本あった茎のうち、二本はやがて枯れ、辛うじて緑色を残していた一本もずっと項垂れたままの状態だったので、私には縁がなかったのだと諦めていたのでした。それでも抜いて棄ててしまわなかったのはいまとなっては賢明でした。物臭のお陰です。



 これは斑の入ったほう。
 葉がデカイだけに水分摂取も貪欲なようで、たっぷりと水を与えても、小さなプランターでは土は一日で乾いてしまいます。

 いつごろからか、私が死んだらベランダの鉢植えはどうなるのだろうと考えるようになりました。考えても致し方のないことなのですが……。
 そのときのために、近辺の公園か江戸川の堤に持って行って、こっそりと植えて逃げてこようかとも思っているのですが、なかなか実行に移せず、一方では紅花やムクロジ(無患子)の種を播いたり、鉢植えの桔梗を買ったりと、減らすどころか増やすばかりの有様です。

 今後に備えて不要不急なものは順次棄てて行こう、と少しずつ荷物の整理を始めました。
 半透明の衣装ケースに入れたまま、もう何年も使ったことのない毛布やタオルケットがありました。
 物持ちがよいのではないのです。
 浅草から市川へ引っ越すときは時間がなかったので、処分するものとそうでないものを仕分ける余裕がありませんでした。引っ越した先は一間きりのアパートだったので、当時は三千冊ほどもあった蔵書を含めてとても納まる道理がなく、トランクルームを借りたのを幸いに、要不要の区別をつけず、すべてそこへ突っ込んだままにしてありました。
 新松戸へきてから蔵書のほとんどは処分しましたが、衣装ケースは押入に突っ込んで、上に荷物を載せたので、手つかずで放っておかれたのです。

 押し込まれたままの毛布やタオルケットは、もう使うこともないと思われるので、今度の資源ごみの日に処分しようとしたら、昔使っていた薄い座布団などがその下に隠れていて、衣装ケースが丸々二つ空になりました。
 衣装ケースは資源ごみとして出せるのか、粗大ごみになるのかと考えているうち、片づけ作業は途中放棄という形になりました。
 文庫本の短編集を見つけて、オヤ、懐かしや、と読み始めてしまったからです。



 水上勉さんの「醍醐の櫻」という短編集です。
 小説や雑誌のたぐいは全部処分したつもりだったのに、雑然と置いたままになっていたいろいろなものの下に紛れて残っていたのでした。

 表題作の「醍醐の櫻」には豊臣秀吉が最晩年に催した醍醐の花見のことが出てきます。
 北の政所(ねね)を先頭に、女たちが六丁の輿を連ねて醍醐寺に向かうくだりには、三番目の輿に松之丸殿が乗り、その輿の警備を担当したのが朽木元綱、とあったので、今度は「太閤記」を捜して……。

 もどかしい思いで、読みにくい文字を拾って行くと、「御こしぞひがしら」として石田木工頭(正澄=三成の兄)とともに確かに朽木河内守の名がありました。
 この人は私が手に入れた「朽木村史」の近江朽木谷二万石の領主です。当時、ちょうど五十歳。

 元綱が警備に当たった松之丸殿の本名は京極龍子。京極高次(大津六万石)の妹で、母は淀殿らの父・浅井長政の姉(京極マリア)ですから、淀殿とは従姉妹になります。

 水上さんは触れていませんが、この花見の宴では秀吉から盃を受ける順番を巡って、女たちの間にひと悶着あったようです。

 最初に盃を受けたのは北の政所。これは誰にも異論はないでしょう。
 問題は二番目です。
 輿の順番からいえば、淀殿ですが、龍子の家・京極家はかつては浅井家の主筋に当たる名門ですから、龍
子には淀殿などより自分のほうが貴種であるというプライドがあったようです。
 ところが、すでに誕生していた淀殿の子・秀頼はこのとき七歳。豊臣家を継ぐのは間違いなかったので、そういうことへの嫉妬もあったかもしれません。
 どちらが先に盃を受けるか。二人の間でいがみあいが起きました。これを取りなしたのが前田利家夫人のまつだった、
といわれています。ただ、結局はどちらが先に盃を受けることになったのか、私にはわかりません。

 トランクルームに搬入したとき、数本あった本箱は処分してしまっていたので、残された本は部屋の隅三方に積み上げてあります。ヨッコラショと坐り込めば、主題であった荷物の片づけは完全に忘れ去られています。

   

「太閤記」を確認したあとは岩満重孝著「百魚歳時記」三冊と続編の全四冊をパラパラ。
 水上さんにも醍醐の花見にも関係のない本です。坐り込んだところから手の届くところにあった、というだけの話。この本も文庫本ですが、これはずっと手許に置いておこうと思った本です。

 いつの間にか畳の上に寝っ転がっています。取っ替え引っ替えしながら読んでいるうち、取り留めもないことを考えたり、ポツポツと昔のことを思い出したりしました。

 ふと西陣での生活を思い出しました。
 水上さんが京都とは縁の深い人だったからか、紅花が最上川を下って京へ運ばれ、西陣で友禅染めに使われたからか。

 わずか三か月ですから、生活した、といえるかどうかわかりませんが、まだ若きころ、真夏の京都に滞在して仕事をしたことがあります。

 仕事場は西陣。
 四条西洞院にあったビジネスホテルに泊まり、仕事場に近い今出川浄福寺までバスで通っていました。
 京都市から依頼された仕事だったので、市関係の施設を提供されたはずですが、部屋は一人には広過ぎる、確か二階の会議室だったというだけで、施設の名前も記憶には残っていません。

 憶えているのは、毎朝仕事に入る前、今出川通りに面した喫茶店に寄って朝食を取ったこと。そこで供される水の強烈な味と臭いでした。
 夏の京都の水は琵琶湖の藻の味と臭いが際立つのです。浄水器も、お金を出して水を買うという考えも普及していなかった時代でした。
 京都に初めて地下鉄が開通した年で、そのことに多少なりとも関連のある仕事でしたから、昭和五十六年のことです。

 西陣といえば、それより十年ほど前、週刊誌の記者になったばかりのころ、永山則夫に殺された被害者の遺族を訪ねて歩いたところでもあります。ひと口に西陣といっても広いので、どのあたりであったか、もう記憶にはありませんが、結局遺族を訪ねることはできず、忸怩たる思いで帰京しました。
 私の勤めの順序からいえば、こちらのほうが確かに先、それも遥か十年という隔たりがあるのに、いまの私の中ではどちらも遠く霞んで、どちらが先だったか、前後がわからなくなっています。

 相変わらず食欲は乏しいままです。
 それでも、先週テレビの料理番組で視ていた空豆のかきあげをつくってみようと小買い物に出ました。



 我ながら味は美味く仕上がりました。しかし、見てくれがドテッとしてみっともなかったので、画像はkusudamaというレシピサイトから拝借しました。
 料理番組では先生が「五~六粒を目安にスプーンですくって、油に静かに入れる」といっていましたが、欲張りな私はガバッとすくって、大きく見てくれの悪いかきあげをつくってしまうのです。
 このレシピには二人分で調理時間三十分とありましたが、莢の中のさらに内側の皮を剥くのにことのほか手間取り、一・五人前分をつくるのに五十分もかかりました。


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