桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

麟祥院

2010年04月22日 18時04分21秒 | 歴史

 今日はまた冬のような雨。
 肩口が妙に嘘寒いと思って目覚めたら、一瞬右眼が開かない。
 物貰いです。
 二か月ほど前、上瞼の真ん中にできたヤツが治ったと思ったら、今度は目尻のほうに場所を移して噴火。アイスランドのお流れを頂戴したのでしょうか。
 風邪もひき始めからもう二週間と長引いています。泣きっ面に蜂、踏んだり蹴ったり、というのはこういうことです。

 二週間に一度、東京・湯島まで通院することになりました。
 胃潰瘍は完治して、もう出血はないはずですが、鉄分欠乏性貧血が治りません。別の原因があるかもしれないというので、より高度な検査機器のある循環器専門の病院へ行くこととなったのです。
 風邪は前ほどはひどくないのですが、依然として咳が止まらない。そのせいで腹筋は痛いし、歩くと頭がどんよりして、脚も重く感じられます。
 そのたびに、胃潰瘍が原因
の出血で酸欠状態になっていて、数分歩くと腰を下ろさざるを得なかった入院当日のことを思い出します。
 脚が重いとはいっても、そのときと較べれば、疲れの度合いが格段に違う-つまり、今回の不調は、確かに不調ではあるけれども、たいしたことはないと、つい沈みがちになる自分自身を励ましているのですが……。

 通院の往き帰りは湯島の切通坂(春日通り)を通ります。
 江戸時代、湯島~本郷を一本で通り抜ける道はこの坂しかありませんでした。いろいろな本にそのことが出てくるので、私は機会あるごとに「江戸切絵図」(人文社刊)を眺めては、なるほど、なるほど、ほかに真っ直ぐな通り道はないのだ、と得心したりしていました。

 地下鉄の湯島駅を出て坂を上って行くと、左側に湯島天神の夫婦坂があります。前回、十数日後にまたくることになろうとは思わなかったので、参詣しました。
 ここは学業成就祈願で有名ですが、家内安全、交通安全の他、病気平癒祈願にも御利益ありと知りました。
 しかし、私は自分のことで神仏を恃(たの)む気持ちは持ち合わせていないので、この日は参詣せず、素通りです。
 完治とまでは到らずとも、その方向が見えるときがあるとすれば、恐らくこの坂を下って帰ることになるでしょうから、そのときはお礼参り(祈願はしていませんが)に参詣するつもりです。

 交通量の多い道です。いつも(といっても、まだ二回目ですが)は湯島天神側の歩道を歩いて、反対側を通ることはありません。
 この日の帰り、切通坂を下り始めるところで信号待ちをしていました。何気なく周りを見ていたら、道路の反対側-少し奥まったところに小さな木叢が見えました。帰りを急ぐわけでもなし、公園があるのかなと思って、青信号が変わりかけだったのを幸いに反対側に渡りました。



 その木叢の真正面に出ると、公園ではなく、茶室があるのかと思わせるような門が見えました。
 近づいて行くのにつれて、茶室ではなく、お寺だとわかりました。
 お寺の名が読めるところまできて、意表を突かれたような気になりました。「麟祥院」-あの春日局の菩提寺だったのです。



「江戸切絵図」で湯島本郷あたりは何度眺めたかしれません。麟祥院がそこにあるということは充分に知悉していながら、いざ現代の道を歩いていると、まったく忘れていたのでした。

 


 無人の境内には一人だけ先客がいました。五十代と見られるご婦人でした。
 品のよい小豆色のベルベットのジャケットにスラックス姿で、右手にコンパクトデジカメを提げていました。歩き方を見ていると、どうやら私と同じで、ひょっこり舞い込んだ人のようです。

 山門の小ささに反して、境内は結構奥行きがあります。
 このお寺の前身は春日局が寛永元年(1624年)、大奥を下がったあと、余生を送るつもりで建てた天沢寺です。亡くなったあと、お墓が建てられたので、三代将軍・家光が局の菩提寺とすることに決め、名をいまの麟祥院と改めました。

 先客は私の前10メートルほどのところで突然かがみ込んで、敷石の傍らに植えてある菫(スミレ)の花を撮し出しました。私は無言で脇を通り抜けました。
 通り過ぎてしまってから、「こんにちは」と声ぐらいかければよかったと思いました。

 春日局こと斎藤福は明智光秀公の重臣・斎藤利三の娘です。家光の乳母として徳川家に入ることになったときは、利三の娘ではなく、公卿・三条西公国(きんくに)の娘(養女)として入っていますが、徳川家康やその重臣たちが氏素性を知らなかったはずはありません。
 明智光秀公=天海僧正説とも関連して、私は長いこと、この不思議について考察していますが、それをここで開陳し始めると、まるで小説を書くようなことになってしまうので、いずれまた別の機会に。



 境内奥まったところにある春日局のお墓です。周囲から一段高い石組みの上にありました。
 無縫塔という珍しい形をしています。別名卵塔(らんとう)と呼ばれるように、塔身が卵の形をしている上に、塔身には十文字型に空洞がつくられています。
 これは「死んだあとも天下の政道を見守れるように」という局の遺言に基づいて空けられたものだということです。
 墓は鉄門で閉ざされていました。門には左に「葵の紋」、右に「折敷に三文字紋」。この紋は乳母となるまで夫婦であった稲葉家(正成)の家紋です。



 塔身を左下から見上げたところ。こちらも穴が貫通しています。

 交通量の多い春日通りから一歩入っただけなのに、境内は嘘のような静けさでした。耳を澄ましても物音一つしません。
 私は先ほどのご婦人が背後から歩いてくるものと思っていましたが、いつの間にか姿が見えなくなっていました。

 春日局が目当てで入ってきたのではなかったようです。麟祥院を麟祥院とも知らず、小ぎれいな庭のあるお寺だと感じて入っただけだったのでしょう。
 ただ、私は一声挨拶しなかったのを返す返すも残念と思っていました。怪しい魂胆を懐いたのではありません。妙に人恋しい思いだったのです。
 この二週間、通院先での短い会話を除いて、私は誰とも言葉を交わしていないのです。このままでは失語症になってしまうかもしれない。……と、心配しきりです。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 朽木村史(1) | トップ | 久しぶりの散策 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史」カテゴリの最新記事