まあ、大変な寒さ! あろうことか、今朝は雪でした。
今朝六時半過ぎに我がベランダから見下ろした光景です。カメラはとらえていませんが、まだ粉雪が舞っていました。
夕方には三日ぶりに陽射しが出ましたが、風が冷たく、気温が上がらないことに変わりはありません。
一進一退を繰り返していた私の風邪はまた勢いを盛り返しつつあります。起きていられないという状態ではないのですが、寒いものだから、遅く起きて早く寝る。寝る、といっても眠くはないので、久しぶりに読書三昧の日々を過ごしています。
三月初めに朽木(くつき)という村の歴史を綴った「朽木村史」が届いていました。落掌したら早速ブログで披露、と思っていたのですが、自分で頼んでおきながら、予想以上に大部の本だったので、その重さに恐れをなし、最近まで開くことがなかったのです。今回の風邪ひきがちょうどよい機会を与えてくれました。
朽木村とは、2004年の大晦日まで滋賀県高島郡にあった村で、滋賀県内では唯一の村でした。翌05年の元旦、同郡高島町、安曇川町、新旭町、今津町、マキノ町と合併、高島市が誕生して消滅。
地図で紹介すると、こんなところにあった村です。
この村と私との間にどのような関係があって村史を取り寄せたかというと……じつはまったくないのです。
遡れば、私が胃潰瘍で入院していた去年十一月後半のことでした。
見舞いにきてくれた友人が見舞いの品々と一緒に、このようなパンフレットを持ってきてくれたのです。
友人はときおり滋賀県にフィールドワークで出かけていると聞いていました。その場所は滋賀県といっても湖南。朽木村とは琵琶湖を挟んで正反対、といっていいところです。
あらかじめ朽木村の位置を知っていたら、関係がないことはわかったでしょうが、私は何かの関係があるから持ってきてくれたのだろうと思って、早速申し込みの葉書を書きました。
読みたいと思ったもう一つの理由は、木地師に関する記述があると知ったことでした。
なぜ私が木地師に興味を持っているか。
その理由は後日のブログに回すとして、木地師発祥の地といわれるのは、湖東の永源寺町(現・東近江市)です。
時代は古く、九世紀後半。
文徳天皇の第一皇子でありながら、皇位を継承できなかった惟喬親王(844年-97年)がこの地に隠棲し、村人たちに漆器のつくり方を教えたのが嚆矢といわれています。
地理的には琵琶湖を挟んだ反対側ですが、日本全国からみれば隣村のようなものです。近いゆえに、木地師の根源に関わるようなものを得ることができるかもしれぬ、という期待を懐かせました。
さらにもう一つ。活字中毒だった若きころに較べれば、中毒症状は脱した状態でしたが、入院中という情況はまた別物。手にできるのが三月になるとは知らず、申し込めば、ほどなく送られてきて、入院中の無聊をかこつことができる、と早とちりしてしまったのです。
こんな経緯が重なって、まったく縁のなかった村と私との間にほんの少しの縁が生まれました。
まったく知らなかった村です。地図にあるように、西から南にかけて京都府に接し、北にかけて福井県に接する山村です。
人口は合併時(2004年)でおよそ2500人。それから減っていることはあっても、増えていることはないでしょう。
村の面積は165・4平方キロといいますから、関東でいうと川崎市、関西でいうと堺市より広い。我が松戸市に柏市を合わせたほどに広いのです。ただし、その90%は山林です。
東部は比良山地、西部は丹波高地。間を縫って、琵琶湖に注ぐ安曇川(あどがわ)が流れ、峡谷に添って国道367号線が村を貫いています。
標高は、かつて村役場のあった市場という集落で170メートル、京都府や福井県との境に近い集落だと450メートルにもなります。
冬は当然積雪が見られます。村史には雪下ろしをしている写真も掲載されています。
鉄道はなく、最寄り駅はJR湖西線の安曇川駅。そこから江若(こうじゃく)バスという定期バスで、市場まで所要三十分。それも一日に十三便だけです。反対方向から入る形で京都・出町柳からの京都バスが一日二便。こちらは所要八十分。
現在の国道367号線は朽木街道(若狭街道)と呼ばれ、かつては日本海(若狭)の海産物を京の都へ運ぶために重要な役割を果たしていました。海産物の中でもとくに鯖の量が多かったため、別名鯖街道とも呼ばれます。
京から見ると、鯖街道は何本もあります。若狭から鯖を運んでくる道はすべて鯖街道だからですが、むろんこれは広義の意味。厳密な意味で鯖街道といえば、この朽木街道を指したのです。人馬や船以外に交通手段のなかった昔は大いに賑わったと思われます。
現在は典型的な山村の一つですが、都に近いだけに、古くから奈良、京との交流があったようです。
平城京の長屋王(684年-729年)邸跡からは朽木桑原郷の住人が租税につけた荷札木簡二点が出土しています。桑原郷は「和名類聚抄」にも高島郡桑原と見えますが、現在桑原という地名は残っていないので、朽木のどこであったかはまだ確定されていません。
木簡の一つ(一番左)には桑原の稲俵と書かれていますが、地形的に米がたくさん収穫できるとは考えられません。朽木の材木は古くから「朽木の杣(そま)」として重宝されたということなので、租税の多くは材木ではなかったのか、と私は勝手に推測しています。
安曇川と朽木村の北隣・旧今津町を流れる石田川に挟まれた山地は、子田上杣(こだかみのそま)と呼ばれる中世荘園の一部でした。ここは嘉祥四年(851年)に藤原氏の家領となり、藤原頼道の家領を経て、宇治平等院に寄進されています。
平等院は永承七年(1052年)、頼道が父・道長の別荘だった宇治殿を寺院に改めたものです。寄進された年代はわかりませんが、有名な鳳凰堂には朽木村から伐り出された材木が用いられたのかも。
杣の運搬手段は筏です。
戦後すぐまでは安曇川本流とその支流である麻生川、北川、針畑川のあちこちで筏が組まれて、琵琶湖に面した旧安曇川町まで運ばれていたそうです。道路の整備とトラックの普及によって、筏は単木流しという一本ごとの運搬に変わりましたが、この単木流しも昭和三十年ごろには完全にトラックに取って代わられました。
今回のブログは最初なので、とりあえず旧朽木村のサワリだけ。これから少しずつ読み進めて行きます。
※地名が出てくるたびに昭文社の滋賀県地図(高島市誕生以前の旧版)を開いたり閉じたり……。通史編の巻末に古道分布図として地図が掲載されていますが、現代の地図も載っていれば、と思います。
※画像は高島市ホームページと朽木村史から引用。地図は少し加工しました。
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