三月の薬師詣では茨城県取手市にある高蔵寺にしました。
庵を出ようとしたとき、薬師詣でをするときには必ず持って行く念珠が見つからなかったのですが、どこに置いたものか、さっぱり見当もつかず、記憶もないものを捜していると、ズルズルと時間が経つばかりなので、捜しあぐねて行けなくなったというのでは本末転倒ですから、持たずに出かけることにしました。
最寄り駅は常磐線の藤代駅です。
この駅で降りるのは二度目で、高蔵寺訪問も二度目です。前回はお薬師さんの縁日とは関係のないときにきています。
前回訪れたのは、ついこの前……というイメージがあったのですが、調べてみれば三年半も前の七月のことでした。
藤代宿は藤代宿と宮和田宿の二つに分かれていました。本陣など宿場町としての役務も持ち回りとなっていました。藤代宿側の本陣は、現在藤代中央公民館となっている場所にありました。宮和田宿にも本陣が置かれていましたが、記録が残されておらず詳細は不明だそうです。
前回と同じように、まず相馬神社を目指します。
途中にある愛宕神社。
相馬神社は駅からそれほど遠くなかった、という淡い記憶がありましたが、歩き始めると結構距離があって、途中、国道6号線を横断するための信号待ちも含めて、十分もかかりました。
この相馬神社は江戸(画像では左)から水戸街道を歩いてくると、藤代宿の入口に当たるところに位置しています。
取手宿から東北方向に向かってきた水戸街道は相馬神社の前で鍵型に折れて、南西に向かいます。
鍵型の曲がり角にある坂本呉服店。牛久に住んでいた作家の故・住井すゑさんお気に入りの店でした。
相馬神社の右隣に真言宗豊山派の高蔵寺(真言宗豊山派)があります。ここが今月の薬師詣での目的地です。
賽銭箱は御堂の中にあって、ガラス戸は腕が入るだけ開くようになっていました。
御堂の中央(画像では左端)に祀られているのが本尊(大日如来ですが、暗いので、どのような仏様なのか、よくわかりません)。その右手(窓の明かりでハレーションを起こしているところ)に、日光・月光の両菩薩立像を従えた薬師如来坐像が祀られています。
前回きたときは、どんなふうであったのか記憶がありませんが、ガラス戸越しに拝見したので、撮影すること能わずと考えて、撮影しなかったような記憶があります。
十六世紀後半の作とみられる薬師如来坐像です。画像は取手市のホームページから拝借しました。
寄木造りの坐像で、室町時代以降の彫刻。台座76センチ、光背の直径110センチと大型の仏像です。
天正末期、牛久城主だった由良国繁が岡見家滅亡の将兵供養のため、諸将に命じて七観音八薬師を建設しました。藤代薬師堂はその一つで、横瀬主膳正繁が建設にあたり、天正二十年(1592年)四月八日に落成入仏しました。
岡見家というのは戦国時代、牛久城を本拠地として常陸国河内郡を支配した一族ですが、天正十八年(1590年)、豊臣秀吉の関東攻めで、後北条氏とともに滅亡しました。その関東攻めに加わったのが由良氏だったのです。
踵を返して藤代駅方面に戻ります。
藤代公民館。
水戸街道藤代宿の本陣があったところです。
サンウェーブの看板が出ていたので、水まわりの代理店のようですが、店先で鍬(くわ)が売られていたので、多少の感動を覚えました。
私が棲んでいるところも田舎で、そこらじゅうに畑や田圃があって、鍬や鋤(すき)を振るう農夫を見ることがありますが、こういう店を目にして初めて気づいたのは、同じ田舎ではあっても、我が庵周辺には農具を売っている店はない、ということです。
国道6号線と旧水戸街道が交差する片町交差点。左手が水戸方向です。
藤代駅入口交差点を過ぎたところで旧水戸街道を外れて、浄土宗・信楽寺(しんぎょうじ)に寄り道をします。
山門は四脚門で、色が塗り替えられているので新しく見えますが、元禄期(1688年-1704年)の建立だそうです。所蔵の「絹本金箔地刺繍釈迦涅槃図」は取手市指定文化財。
再び旧水戸街道に戻り、旧宮和田宿あたりを進みます。由緒ありげな建物はありますが、宿場町の名残は何もありません。
熊野神社。
小貝川の堤防に出ました。国道6号線の文巻橋を望んだあと、踵を返しました。
→この日歩いたところ。
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