桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

火事罹災一年と薬師詣で

2022年11月12日 22時53分56秒 | つぶやき

 今日十二日で火事罹災からちょうど一年となりました。
 身の周りのものはほとんど失ってしまったので、少しずつ買い揃えてきましたが、すべて元どおりとはいきません。家具類とかテレビとかパソコンなどは新しくなって気持ちが良いといえばいいけれども、ひょっとしたらもう手に入らないかもしれないというものがあります。
 多くは書籍類で、新品は絶版になったりしていて買えないが、ヤフーオークションなどで手に入りそうなもの、手には入るが、結構高価になってしまっているもの、いろいろ捜してみたけれど、どうやら二度と手には入りそうにはないものなどがあります。
 代表的なものは澤木興道全集、現代語訳正法眼蔵、本山版正法眼蔵、中央公論社版江戸切絵図、図書分類でいうと雑の部に入るであろう、大道芸事典、俗信事典、俗語辞典などなどです。再度手に入れても、まず開くことはないだろうと思えるが、記念碑的な意味で、手に入るのなら手許に置いておきたい、全部で十二巻もありますがラルース大百科事典もあります。
 一方、前はなかったけれども、新しく購入したものもあります。
 その一つは電動アシスト自転車で、これは脊柱管狭窄症を患ったことと関係があります。
 クリニックに通うのはいまのところ一週ごと。健常な人が歩けば二~三分という距離ですが、いまの私は10メートルぐらい歩くと脚も腰も痛くなり、息も上がってしまいます。膝に両手をついてゼーゼーハーハーしたあと、また歩こうとすれば歩けるかもしれないけれど、こんな調子では何分かかるかわからないので、タクシーを利用することになります。乗ったついでに、公共料金を払ったり、預金を下ろしたりするために、郵便局やコンビニに寄ってもらうことがありますが、歩けばすぐなのですから、料金はワンメーターかツーメーターです。しかし、我が庵の前の道路はタクシーが通るような径ではないので、電話をかけて呼ばなければならない。すなわち迎車料金というものが発生します。帰りも同じです。
 ほんのすぐそこなのに、料金はいつも¥900~¥1000。往復で¥2000。毎週ですから、このまま行くと、月に¥8000か¥10000。ひと月かふた月で治る、というのなら、まあ、いいでしょう。しかし、そんな保証はどこにもありません。
 そこで普通の自転車ではなく、電動付なら脚への負担も軽いので、高いけれど買おうと決めたわけです。タクシー代の二年分ぐらいの価格ですが、脊柱管狭窄症が治ったあとも使えるわけですから、比較の対象にはならない。
 一昨日十日はクリニックへ行く日だったので、脊柱管狭窄症の発症以来およそ二か月ぶりに自力で外出を果たしました。クリニック通院を果たしたあと、買い物をし、予行演習のつもりで、近辺をグワングワンと自転車を走らせました。

 なんの予行演習かというと、今日十二日は薬師如来の縁日です。本当は八日の縁日に自転車の配達されるのが間に合えばよかったのですが、ちょっとズレてしまいました。それでも十二日に出かけられるように間に合ってよかった。八月以来、三か月ぶりに薬師詣でをしようと決心し、足慣らしをしておこうと考えたのです。
 どこへ行くかというと、馬橋にある中根寺です。ここは八年前、2014年の五月八日の縁日に参拝して以来二度目です。直近では今年の五月十五日に参拝していますが、縁日ではなかったので省きました。
 かつて日参していた北小金の慶林寺へ、とも考えましたが、こちらは途中に上り坂があります。上り坂こそ電動付の実力が発揮できると思うのですが、まだ慣れてないので、途中で立ち往生でもしようものなら、百歩も歩けない我が脚では手の打ちようがなくなってしまいます。
 今月はずっと平坦な道の中根寺。来月、普通に歩けるようになっていれば、どこか別に考えているところ。そうでなければ、一か月後なら上り坂を上る知恵もつけているであろうから慶林寺へ、と考えました。

 ただでさえ自転車に乗るのは十二~三年ぶりくらい。電動付は初めての上、購入した自転車はハンドル部分についているのはカゴと変速機、電動とヘッドライトのスイッチだけのはずなのに、なんとなく重く、ハンドル操作がしづらい。サドルとハンドルの位置が離れ過ぎではないかという感もある。
 要するに、乗るのが久しぶりなのではなく、きたときから操りにくい存在なので、車道と歩道が区別されているような道で、車の通行量が多い車道を走るのも避け、できるだけ交通量の尠ない径を選んで行くことにします。

 というのも、先ごろ警視庁では自転車通行に関する取締を厳しく行なうようになりましたが、自転車に関する法令はすでに五~六年も前に改定されていたのですから、私は、遅過ぎ! なんでもっと早くやらなかったのか! 悪質な違反者には赤キップなどではなく、即座にしょっぴいてやれ! と肚を立てていたからで、そういう当人が自転車に乗ったとき、そのつもりはなくても、うっかり違反行為をしてしまったり、慣れないので、違反していると気づいても、とっさにはどうしたらいいのかわからない、ということが無きにしもあらずだから、念には念を入れて、するつもりはなかったのに違反行為をしてしまっている場合でも、誰もいないところで、目立たないように、済むように、と考えたわけです。

 


 通りすがりの公園です。モミジバフウの落葉がまるでフカフカの絨毯のように降り積もっていたので、思わずペダルを漕ぐ脚を止めて、カメラに収めました。



 出発して数分、新坂川河畔に出ました。町田橋で川を渡ります。



 進んで行くのは通称桜通り。春になれば桜の花で彩られますが、いまは花は何もない状態。人通りもなかったので、特段気にすることなくスイスイと進むことができました。



 馬橋駅を横目に見ながら通過して行きます。



 ところが、馬橋駅を過ぎると、径は突然姿を変え、クネクネした轍だけが残る径になりました。久しぶりに自転車に乗った私は初心者のごとく、ハンドルをとられて、転びそうになります。

 このままの径だとヤバいぞ、と思ったら、中根立体の前に出ました。常磐線を越える跨線橋を渡ります。ずっと平坦、と思った行程にちょっとしたアクシデントです。長い上りのスロープになっていましたが、しかし、ここで電動アシストが持てる力を発揮してくれました。



 違反をすることもなく、事故を起こすこともなく、無事中根寺に到着しました。

 真言宗豊山派の寺院。創建年代などは不詳ですが、当初は東照院と号して、現在とは別の場所にあったようです。寛永年間(1624年-45年)には中根寺と改称していたと伝えられています。
 本尊は薬師如来像で、弘法大師が一本の木から三体つくった薬師像のうち、真ん中の部分を使ってつくられた一体とされています。したがって地名は松戸市中根、寺の名も中根寺というわけです。



 無住のお寺ですが、薬師詣ででお邪魔するのは二度目です。前は八年も前の2014年五月八日でした。そのときは今日と同じように、人影はありませんでしたが、縁日であったからかどうか、門扉は開け放たれていたので、御堂の前まで行って参拝しました。
 今日は八日ではなく、十二日。同じように縁日ではありますが、八日のように重んじない寺院もあるので、ここもそうなのでしょうか。門扉が閉まっていたので、遠くから拝礼するしかないかと思ったら、鍵がかかっていなかったので、境内にお邪魔することにしました。中根立体のスロープで実力を発揮してくれた愛車は門の前でしばし待機です。



 いつも薬師詣でなら友人・知人が無事息災であるようお願いするのですが、今回ばかりはずっと悩まされてきた脊柱管狭窄症が治りかけてきたことへの感謝を先にしました。
 覗き込んでみましたが、ガラスが反射して、肝心の薬師如来像はどこに祀られているのか、まったくわかりませんでした。

 今日参拝するのはこの中根寺だけ。薬師堂に参拝したあと、さして広い境内ではないので、一巡りすることにします。



 薬師堂の右前にあった祠は、右手を頬に当て、半跏で思惟のポーズをとっておられますから、如意輪観音でしょう。



 薬師堂と並んである祠は大師堂。しかし、中を覗いてみると、弘法大師らしき僧の坐像はありますが、左奥に追いやられていて、中心にあるのはどうも舟形光背です。仏像はなく、光背だけでした。



 台を見ると、「大師堂新設有志云々」と彫られてありますから、確かに大師堂です。



 如意輪観音堂と大師堂の間にあった祠。中は暗いのでよくわかりません。



 枇杷の樹に花が咲いていましたが、実は見当たらないようでした。ずっと外を出歩いていなかったので、ほかに枇杷の樹を見ていませんが、本来なら季節的にとうに実を結んでいるはずです。

 これまで、クリニッ
クの行き帰りはタクシーを利用していた、といっても、まったく歩かないというわけにはいきませんでした。
 タクシーを降りるのはクリニックの前ですが、入口の自動ドアまでは百歩近くあります。入って受付まではさらに三十歩ぐらい。そこから整形外科の診察室前までまた五十歩ぐらい。診察室に入り、終わって受付で処方箋をもらい、さらに道路一本隔てて斜向かいにある薬局まで行き……私がギッコンバッタンしながら入口を入るので、薬剤師さんがサッと飛んできてくれて、処方箋とお薬手帳を渡し、薬が整うと、私が坐って待っているところまで持ってきてくれます。
 処方されている薬は、三食毎食後に服用するものが四種類、朝晩が三種類、就寝前が一種類と八種類もあります。高血圧と狭心症などで通院している病院で処方されている薬が五種類もあるので、服み間違い、服み忘れがないよう、服用する時間に合わせて分けてあるのですが、なぜかクリニックや病院に行く直前になると、一錠だけ余っている薬があったりします。
 薬をもらったら、タクシーを呼んで庵に帰りますが、タクシーがくるまでに三~四分、混み合っているときには六~七分待たされます。薬局前の丈の低い塀に手をついて、痛む左脚に負担がかからぬようにして立っているのですが、この数分が非常なる修行時間です
 こういう診察日一日の行程で四百歩ほど歩きますが、断続的だから歩けるので、つづけて歩けるのは百歩ぐらいが限度。曲りなりにも健常であったこれまでは考えたこともありませんでしたが、たかが百歩がいかに遠く、きついものであるかを初めて知らされ、考えさせられました。

 かつての住居がある地域で始めたボランティア活動は、いまのところ、お休みをもらわなければいけない状態ですが、その対象としている人々は、私が患っている疾病とは違って、多分治る見込みのない疾病を持つ当人とその家族です。当人も家族も老齢の人々が多い。そういうことに対しても、今回は深く考えさせられました。

 火事のあと、近くにあった旅館で六日間過ごしました。
 この火事の火元となったのは二十代後半の青年でした。私が旅館に避難した最初の三日間、頭を垂れるために毎朝私を訪ねてきました。二十代の青年、しかも私と同じアパートに棲んでいた男に金があるわけはありませんし、私自身彼に弁償してもらおうという気はありませんでした。
 最初に顔を見せたとき、快く謝罪を受け入れると、これまで彼が(私から見て)気の毒な人生を送ってきたという話を語り始めました。彼に何かをしてもらおうというより、私自身は何もできないが、私が知っている組織なら何か助力ができると思ったので、そこに繋ぎをつけてやりたいと思いました。

 携帯電話の番号だけ聞きました。私のスマートフォンは火事のときに水をかぶってしまいましたが、つづけて使えるようでした。しかし後日、携帯電話会社の営業マンが訪ねてきて、なんらかのことで発火したりするかもしれないから、取り替えたほうがいい、災害に遭ったのだから、無料で交換できる、というので換えてしまいました。そのとき一緒にきた技術者がデータの移行などをしてくれましたが、連絡先を移行する段になったとき、私は一瞬首を傾げたあと、青年の電話番号はいいや、と思ってしまいました。火事に遭った日から一か月近く経ったころであり、青年が私の旅館を訪ねてこなくなってからも一か月経っていました。

 今日、火事に遭って一年……という思いより、青年から連絡がこなくなって一年、どうしているだろうかという感慨のほうが先に立ちました。
 いまの部屋を捜してくれたのは前に棲んでいたアパートとは違う不動産屋さんです。私の新居が決まったとき、旧不動産屋からは私が落ち着ける場所を見つけて安心したという電話がきましたが、そのときに、かの青年にこのこと(私の新居が決まったこととその所番地など)を知らせていいかと訊くので、むろん結構だと返辞をしました。私が青年のことを訊ねると、新居も決まって、元気で職探しをしてしている、ただ新居をどこに決めたのかは個人情報なので教えられないという。私は悪意など懐いていないし、青年には弁償する必要はないと伝えてはいますが、被害者(私)に加害者の情報を教えないと言うのは、いわゆる個人情報守秘義務とは次元の違う問題だろうと思ったのではありますが……。

 新しく整えたものの中で、洗濯機、冷蔵庫、食器棚、箪笥という大物で重いものは、若ければいざ知らず、齢を重ねてしまった私には独力で移動させることができません。私に代わって、「どんなことでも手伝います」といってくれた彼がいたら、どんなに助かるだろうと、これも思ったのではありますが……。
 私の背より高い食器棚は販売店から屈強そうな若者が二人やってきて、私の希望する場所に据えつけてくれました。洗濯機は外にしか置けないことになっていたので、これも一人は屈強そうな若者とはいえない人でしたが、二人やってきて据えつけてくれました。
 問題は約500リットルという、これも私の背より高い冷蔵庫です。こちらは屈強な若者が一人で運搬してきて、フローリングの台所に置いてくれましたが、冷蔵庫より先に届けてほしかったものがあって、そうなるように注文しておいたものがあったのに、手違いがあって、冷蔵庫がきたのに、まだ到着していない、ということになってしまいました。冷蔵庫を所定の場所に置いてしまうとあとが困るので、仮の場所に置いたまま帰ってもらいました。
 フローリングの床を滑らせやすいように、ダンボールが敷かれていました。まだ脊柱管狭窄症が発症していなかった私でも、当初考えていた場所まで押して行くことはできましたが、ダンボールを外すことはできず、いまも敷いたままです。

 今日も好天でありました。明日十三日夕方から雨になるようですが、我が地方では先月二十日から今日まで二十四日間雨が降りませんでした。にわかに見返すことはできませんが、私が「日録」と名づけている日記をつけ始めて今年が三十一年目。この間に限っては連続雨なし日の新記録になるのではないかと思います。

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