桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

火事の教訓

2022年11月18日 23時28分11秒 | つぶやき

 先日、薬師詣でをした日は火事に遭って丸一年という、私にはある意味で感慨の深い日でもありました。
 この火事とその後日談には、森田童子の詩ではありませんが、いろんなことが「ありました」であります。
 火事に遭遇した直後は、自分では割合落ち著いていたと思うのですが、やはりそれなりに動転していたのか、一年経ってみて、改めて気づいたこともあるので、ブログに残しておこうと思います。

 私のイメージでは、消防車のサイレンの音はしょっちゅう聞いている、という思いがありますが、松戸市消防局の「消防年報」によると、「しか」という表現を使うのが正しいのかどうか、昨年度の松戸市内の火災件数は115件「しか」ありませんでした。火災が起きたのは三日に1件の割、ということになります。この中に私が遭遇した火事が含まれていることはいうまでもありません。
 年間115件という数が多いかどうか、私にはなんともいえませんが、今年になって、私の知人で警察官であった人と話をしていたとき、火事沙汰には何度か遭遇しているが、「知人」(私のことです)に火事の罹災者が出たのは初めてだ、というのを聞いて、ふむふむ、火事と喧嘩沙汰はしょっちゅうだと思っていたが、やはり稀有なことに近いのだと思い直しました。
 また火事の直後、損害保険の私の担当者だった人が「三十年業務に携わってきたが、火事の書類をつくるのは初めてだ」といったのを思い出しました。
 燃えたアパートを管理していた不動産会社の担当者も多分初めての経験だったのでしょう。「多分」というのは、私が訊ねてはいないから推測なのですが、なぜ初めてだろうとといえるのは、火事が出たときの手続きを知らなかったからです。
 この手続きについては、私が火事で得た教訓の一つなので、あとで述べます。
 多くの人と付き合いのある人たちが押し並べて「初めて」というのを聞いて、人口減少といっても、それだけ人は多いのだなと妙な感心をしたりしました。

 火事当日のことです。
 その九日前 ― 文化の日でした ― その日から持病が発症していて、前日の八日まで私は身体の自由が効かず、ほぼ寝たきりでしたから、病院にも行けない状態でした。
 この持病は五年前から発症するようになっていて、軽い症状はしょっちゅうくるのですが、とても起きてはいられない、という重篤な状態になるのは、決まったように毎年一度。最初のころは過ぎ去ればケロッとしましたが、年を経るごとに病む日数が多くなりました。
 その重篤な状態が文化の日に出て、九日後の火事当日の朝になって、ようやく起き上がれるようになったので、クリニックに行くつもりで電話を入れました。
 そういう病み上がりの状態で、まだぼんやりとしていたとき、すでに火が出て、消防車による消火活動も始まっていたのです。頭がボーッとしていたので、意識に隙間がなかったとは断言できませんが、尠なくともドアをドンッ!と鳴らす音は一回きりでした。何かの配達で、こちらがすぐ応答できなくても、ノック一回きりということはないと思います。
 もし私の持病の発症が一日遅かったら、火事が出たとき、私はまだ眠っていたかもしれません。一回のドンッ!では何も気づかず、先日の村田兆治さんのように、一酸化炭素中毒で死んでいたのかもしれないと思います。

 あるいは、幸いにして私の耳はまだ不自由ではありませんが、火事のあったアパート八世帯のうち、住人がいたのは六世帯。その中で、若いといえるのは火元になった青年のみ。残り五世帯に棲んでいた六人は私を含めて老人ばかりでした。
 中に耳の不自由な人はいませんでしたが、いても不思議ではありません。少し遅れた私を除いて、全員が火事の臭いに気づいたり、煙に気づいたりして、皆自主的に避難できましたが、臭いには気づかず、耳が不自由であったりしたら、一回のドンッ!では気づかないはずです。
 そういう人はいないはずなので、一度ノックして出てこなければ留守にしているのだろう、と消防が知っていたはずはありません。先に避難していた人から、どこにどんな人が何人棲んでいて、どこは空き家であると聞いたのかどうか。
 人が棲んでいるはずなのに、避難したのを確認できていない、というときは、たった一度のドンッで済まさず、ドアか窓を打ち破らなければいけないのではないか。消防というのは火を消したり、延焼を防ぐことが仕事で、人の命を救うことは目的ではないのか。
 あとで私は周辺の人に、今回きた消防は素人の集団であったと嘯きましたが、実際にそういうことであった
と思います。

 旧居の周辺には畑がたくさんありました。いまの時期は野焼きをするところがあります。
 燃えるものは違っていても、ものが燃える臭いはほぼ同じです。
 最初に臭いに気づいたとき、私は野焼きの臭いだと思いました。しかし、周辺で野焼きをする畑があるといっても、すぐ隣にあるわけではありません。臭いが近過ぎることを変だと感じて、外へ出て、助かることができたのです。

 野焼きをする畑があるような土地ですから、径は昔の畑の畦道を改修したような細い径ばかりです。車がすれ違うのは苦労します。まして消防車のような大型車がきたら、人や自転車でもすれ違うこともできない、といっても、決して大袈裟な表現ではありません。
 そんなところへ消防車が何台もやってきても、はっきりいって、ものの役には立ちません。消防車は一台で充分、というか、一台しか入ってこられないので、あとは消防団が持っているような手押しのポンプ車でなければ、消火活動は充分にできないのではないか。手押しポンプ車は必要がなく、一台の消防車で充分だと思ったというなら、何台もくることはない。
 あとでやってくる消防車はいざ知らず、まず飛んでくる一台は地元の消防署からのはずですから、土地勘はあるはずです。なければならない。
 私たちのようにそこに棲んでいるのではなくとも、管轄する土地がどういうところなのか、常日頃から見ていなければならないはずだ、といえば、何台も消防車がやってきたところで、ホースの長さはそこまで届かず、非常に意地悪な言い方をすれば、まるで野次馬のように、寄ってたかって遠巻きに眺めているだけ、という事態にはならなかったのではないか、と思います。

 火事に遭わなければ知り得なかったであろう教訓のもう一つは、新居を決めるのに、一週間もかかったのですが、二度候補が決まり掛けながら、二度ともトラブルがあって、時間がかかったのです。そのことは教訓となることではないので省きますが、この時間があとのことに影響を及ぼします。
 火事のあと、私は知人二人に助けられながら、水に濡れずに使えそうなものを物色して新居に運びました。しかし、知人二人が持っていたのはともに乗用車です。一回に運べる量には限りがあるし、大きさにも限りがあります。冷蔵庫、洗濯機、箪笥などというデカいものはとても運べません。
 そういう大物は無理としても、尠なくとも小物はダンボールに詰めておけばいいじゃないかと考えるかもしれませんが、普通の引っ越しと違って、床が濡れているし、放水の水は天井を伝って少しずつ漏れてくる。雨が降れば雨漏り自在の状態ですから、運ぶものをダンボールに詰めて、置いておくわけにはいきません。
 コチョコチョと運ぶしかないのですが、引越し業者を頼む時間的余裕がなかったのは、アパートを管理している不動産会社から急かされたからでもあります。
 アパートは修繕すれば再度住めるという状態ではない、ということは素人の私でもわかりました。だから、早く取り壊してしまいたい、と不動産会社が急かす気持ちもわかりました。やっつけ仕事をするような気持ちで荷物を移動させるしかありませんでした。
 しかし、あとで損害保険会社から聞かされて識るのですが、残されたものを処分するのには、持ち主である私の同意がなければ、他者が勝手に処分することはできないのだそうです。もちろん、その猶予には限りがあり、いつまでも放ったらかしにしておいてもよい、というわけではない。その猶予が何日であるかは聞きませんでしたが、尠なくとも慌てて処分しなければならない、ということではない。早く処分してくれ、といってきた不動産屋の担当者はそういうことを知らなかったのです。
 寝具や一部洋服など、燃えてはいないが、放水で濡れてしまっているものはあと回しにして、とりあえず必要で、使えそうなタオルとかTシャツ、靴下、食器類、洗面用具などを優先し、見繕って運びました。
 中には端っこが濡れていたというものがありました。新居に運んだあと、濡れていることに気づいて手洗いし、洗濯機を購入してから、何度も洗いましたが、木酢のような臭いはとれず、雑巾にするか、棄てるしかありませんでした。
 急かされて選んでいるので、下になっていて、濡れてもおらず、臭いもついていない、という衣服もあったはずです。しかし、運べずにいる間に雨が降り、濡れて、臭いも染み込んでしまいました。中には買ったとき、二十万円以上もした革のロングコートなどもありました。
 不動産屋を恨むわけではありませんが ― 本心はかなり恨んでいます ― 急かされなければ、まる一日かけて、使えるものと使えないものを分別し、引っ越し屋さんに何人かの助っ人を頼んで運ぶ手段も考えられた、と思うのです。

 それから一年が経ちました ― 。
 脊柱管狭窄症の発症に見舞われて、痛む左脚や臀部を庇うために、眠るときの姿勢は右を下にし、身体を丸くかがめて、まるで胎児が母親のお腹の中にいるような格好でしか眠ることができません。
 一つの姿勢しか許されないので、本来痛むところ以外に筋肉痛が出たり、眠っている間に、うっかり違う姿勢をとったり、脚を延ばしたりすると、強烈な痛みに襲われるので、おちおち眠っていることができません。それに加えて小用に立つ必要に迫られたりもするので、夜中に何度も目を覚まします。

 痛みは随分楽になって、仰向けでも眠れるようになっても、癖がついてしまったみたいに、痛むわけでもないのに、払暁三時半とか四時には目を覚ましています。
 今月五日のブログにも書きましたが、起き上がったのちしばし、五時半ごろになると、けたたましい音と啼き声が聞こえます。近くのケヤキ(欅)の並木をネグラにしている椋鳥がどこかへ向かって仕事に出かける、いわば騒音です。
 間近で聞けば75~80デシベル、掃除機の音や走っている電車の音と同じ程度。掃除機や電車はやがて止まるけれども、椋鳥どもの囀りは熄むことがないのですから、これはうるさい。幸い我が庵は椋鳥どものネグラからは200メートルほど離れているので、騒音が聞こえるのは飛び立つときだけで、それもほとんど一瞬です。

 その騒音が五日前の十三日、六時になっても聞きませんでした。
 コーヒーを飲むために電気湯沸かし器にスイッチを入れるので、たまたまお湯が沸く音で聞こえなかったのか。そう思いましたが、翌十四日も聞かず、十五日も聞かない。
 なかば留鳥と化している場合もあるようですが、基本的には渡り鳥ですから、冬がくると南へ渡って行きます。どこへ行くのかわかりませんが、飛んで行ったのでしょう。結果的に十二日を最後に聞かなくなりました。 

 脚の状態は徐々によくなってきていると思うと同時に、遅々として改善されぬと感じることもあります。寒くなってきたと感じる日があるように、季節が進んでいることを感じるときです。二週間、三週間と経つのに、脚の痛みは一向に改善されぬと思うと、もしかしたらこのまま……と思ってしまうこともあります。
 前から服用している降圧剤のおかげて、高かった血圧が、最高血圧は高いときでも130に届かない、というようになったのに、痛みと寒くなってきたのが加わって160を平気で超すようにもなりました。

 火事のせいではないのですが、郵便局と公共料金の引き落としに使っている銀行のキャッシュカードの磁気が二つとも同時期にダメになりました。郵便局は通帳があれば出し入れできますが、銀行はそうはいかないので、残高がなくなれば引き落としができず。督促状がきます。電気は年金の振込に使用している銀行口座での引き落としにしていましたから、引き落とし不能とはなりませんでしたが、ガスと水道は別だったので、引き落としの日が近づくと、いちいち入金していました。上水道、下水道は千葉県と松戸市という自治体の運営だったからか、多少遅れても構わない、という感じでしたが、ガスは民営なので、そうはいかないようです。
 検針がくるはずなので、その人に集金を、と頼んでも、係が違うので、そういうことは不可能だという。私は払わないといっているのではない。払いに行けないのだ、といっても埒が明かない。ボランティアをしていた団体の職員にきてもらって、代わりにコンビニに行ってもらう、ということで凌ぎました。

 火事で避難したとき、財布だけは持って出たので、キャッシュカードはありましたが、通帳は水浸しになって、ページがくっついてしまいました。届出印は水浸しになっても無事だろうと思ったけれども、崩れた天井とそれに押しつぶされた箪笥などの下敷きになっているので捜せません。身分証明書となる健康保険証なども同前です。
 再度手続きを踏まなければどうしようもない。ところが、手続きを踏むために出かけることができない。

 電動自転車を使えば、多少の距離なら動けるようになったし、いまのうちに、と思ってカードと通帳の再発行の手続きをしようと出かけました。
 これまで、金融機関でのほとんどの用はキャッシュカードで済んでしまうので、窓口に行くようなことは滅多にありません。行っても、振替用紙を出したりするような用件ですから、短時間で済んだり、局員や行員と交わす言葉も二言三言で済んでしまいます。
 ところが、その他の手続きとなると簡単ではないので、時間がかかります。
 郵便局も銀行も待ち人のために背もたれのないロビーベンチや椅子が置いてあります。ロビーベンチ坐ってしまうと、立ち上がるときには「せいの、ヨッコラショ」と、そこそこ大変なのでありますが、支えもなく立ちつづけているのはもっと大変なので、使ったこともない「杖」の購入も考えました。
 しかし、いずれ元の健常な身体に戻る、と思うと、無駄な買い物、と考えます。それより買ってしまったら、元に戻れないのではないか、とも考えるので、躊躇してしまって買えません。
 
 窓口の係員(両方とも女性でした)は規則があって移動することができないのか、私が苦労するのを見ても、申し訳無さそうな顔をするだけですが、銀行では補助する形の職員が何人かいて、私と窓口の間をせっせと取り持ってくれました。
 それとは別に、クリニックの診察を終えたあとに行く薬局では自動ドアを開けた途端に、薬剤師が飛ぶようにしてきてくれます。調剤が済むと、動かなくてもいいように、私が坐っているところまできてくれます。
 脚を引き摺って歩くのも、あながち悪くないナ、という気もしました。

 スーパーなどは店内が広く、歩き回らなければならないので行くのはまだ無理ですが、電動自転車のお陰で、コンビニや小規模な店舗なら買い物に行くことができるようになりました。ただ、自転車があれば動くのは自由自在とはいきません。
 私の利き脚は左です。痛んでいるのも左です。信号が赤で自転車を停めようとするときは自然に左脚を出してしまいます。すると、ズキンッと強烈な痛みに襲われることがあるので、痛みのない右脚を出そうとしてみたのですが、慣れないのでうまくいきませんでした。

 今日、十八日は観音菩薩の縁日です。そのことを思うと、何かに苛立ちを覚えていたり、ちょっとした不満や不安があったりしても、ふっと消えて行くことがあります。これは八日と十二日の薬師如来、十五日の阿弥陀如来のそれぞれ縁日の日も一緒です。何が、どうしてか……と理詰めでは考えが及ばないのですが……。

 以前は観音様をお祀りしている東漸寺と慶林寺にお参りをしていました。火事に遭ってしばらくお休みしたあと、近いのは我が宗派であり、有名な黒観音をお祀りする福昌寺になったので、こちらへ行くことにしました。
 しかし、脊柱管狭窄症に見舞われて、またしばしのお休み……。

 多少なら歩けるようになったのと自転車を購入したので、薬師詣でも観音詣でも再開……と思いますが、福昌寺は直前に天王坂という急坂があります。電動付三段変速付とはいっても、ペダルは漕がなければならぬので、まだ難しい。

 どうしようかと思っていたところ、以前よく行っていた流山の観音寺があるではないか、と気づきました。そこで、バッテリーをセットして、電源ボタンを押して、勇躍ペダルを踏みました、

 

 どのような観音様がおわすのか、本堂は覗き見ることができませんでしたが、大香炉には十一面観世音菩薩が祀られていることが示されています。お賽銭をあげて、今日のお勤めは終了。



 ツワブキ(石蕗)も咲いていました。
 火事で棄ててこざるを得なかった我が旧庵のツワブキはどうななったのだろうかと思いながら、しばし眺めました。

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