桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

2023年五月の薬師詣で・川崎市宮前区

2023年05月08日 22時03分20秒 | 薬師詣で

 今月の薬師詣では川崎市を歩きました。
 朝八時ごろは強い雨で、上がるかどうか不安でしたが、九時半ごろには熄んで、無事薬師詣でに出発。薬師如来の御加護に恵まれました。



 武蔵野線を終点(府中本町)まで乗り、南武線に乗り換えて、宿河原で降りました。武蔵野線の北朝霞から府中本町までは初乗車です。
 何十年越しになるのかわからないけれど、これで北朝霞以東(西船橋まで)を合わせて武蔵野線は全線踏破ということになりました(※実際の武蔵野線は府中本町からさらに先・鶴見まであるのですが、この区間は貨物専用なので、一般の電車は走っていません)。



 近くに藤子・F・不二雄ミュージアムがあるので、駅前ではドラえもんのモニュメントがお出迎え。

 早速歩き始めましたが、目指す方角は南です。地図を視るためにはスマートフォンの上下をひっくり返さなければなりません。
 真っ直ぐ南下、ということならいいのですが、そう都合よくはいきません。そこで、いつも右に曲がるところがあると左に、左に曲がるべきところを右に……と間違えてしまう。今回は二つ目に参拝する等覚院で、午後二時から大護摩がある、というのを目的にきているので、一刻の猶予も、一歩の間違いも許されない。
 道を絶対に間違えるな、そう自分にきつく言い聞かせて歩き出したのですが、初っ端から大失敗を犯してしまいました。
 スマートフォンを視ながら歩いていたつもりでしたが、ふと気づくと、画面に現われている経路図からいつの間にかズンズン離れていたのです。
 途中で折れて……とも思いましたが、知らない土地で知ったかぶりをすれば深みにはまるのみ。間違えた地点まで戻り、一つ目に参拝する予定のところはあとまわしにして、先に等覚院へ……という考えも頭にチラついたのですが、すると、経路図を検索し直すために、どこだかわからない路上に佇んで、スマートフォンをイジらなければなりません。ますます深みにハマるだけ、と思い直し、私が薬師詣でをしようと一念発起して始めたのは、法要を見るためでもなし、御朱印を集めるためでもなし、大護摩に間に合わなければ、それはそれでよしとしませう、と思い返して、予定どおり最初の妙楽寺を目指すことにしました。



 宿河原駅から十七分で、あじさい寺入口交差点に着きました。あじさい寺とは、これから目指す妙楽寺の別名です。



 交通標識を見たので、意外や意外、あじさい寺はすぐ近く、と思った途端、この坂です。
 さほど急ではないが、坂の取っ付きから目指す妙楽寺前までクネクネ600メートルと、とにかく長~い。



 坂はまだまだ途中。それでもこんなに見晴らしのよい高さまで上ってきています。



 宿河原駅をあとにしてから、間違えた道のぶんも含めて二十六分。やっと妙楽寺に到着しました。



 天台宗・
妙楽寺本堂。仁寿元年(851年)、円仁が建立した威光寺が始まりといわれています。



 妙楽寺薬師堂。
「新編武蔵風土記稿」には「薬師堂。境内にあり、三間に四間東向、薬師の長二尺五寸許坐像外に十二神将あり、各長二尺許共に木像にて行基菩薩の作なりと云」とあります。昭和五十二年、薬師三尊の解体修理が行なわれた際、日光菩薩の胎内からは「武州立花太田郷長尾山威光寺」という墨書銘が発見されています。

 


 境内には一千株のあじさい。すでに蕾をつけた株がありましたが、今年はどの花も早い、とはいっても、五月初旬という季節ではさすがに早過ぎます。

 散々坂を上らされたのに、妙楽寺があるのは丘の中腹です。次の等覚院を目指すためにはさらに丘を上らなければなりません。といっても、途中でてっぺんを越えるので、あとは下り坂。



 妙楽寺から二十分で等覚院に着きました。ここも天台宗の寺院ですが、「新編武蔵風土記稿」には「開山開基を詳にせず」とあります。本尊は不動明王。



 山門(仁王門)前に到着したのは「午後二時より」と書かれた大護摩開始に遅れること十三分。

  

 阿像吽像。



 二十段そこそこの石段ですが、妙楽寺に向かう坂を踏破してきたことで、私の脚はかなり覚束ない状態に陥っていました。



 ハッキリと聞き取れなかったので、なんというお経だかわかりませんでした(薬師瑠璃光如来本願功徳経か)が、なんとか最後のほうだけ聴くことができました。

 薬師如来像は秘仏とされているので、拝むことはできませんでしたが、ここに祀られている薬師如来は元は東京・茅場町の智泉院にあった仏像です。私は七年前の2016年十月八日の縁日にお参りしています。



 これがその日撮った画像です。
 わからないのは、なぜ茅場町にあった仏像が川崎に移されたのか、ということです。等覚院のホームページにも、智泉院の解説ページにも説明がありません。今回チャンスがあれば訊ねてみたいという気持ちはあったのですが、坂道上りがことのほか私を疲れさせていたので、読経が終わるのを待とうという気力がありませんでした。
 ホームページに載せるのは簡単なことだと思うのに、載せないのはそれなりの理由があるのかもしれない。秘仏とされていることも何か関連があるのかもしれない。知れぬものは知らず、そっとしておいたほうがいいという気持ちもありました。

 

 あじさい寺に対して、等覚院の別名はつつじ寺。こちらは少し遅過ぎました。



 午後二時半ごろには青空が顔を覗かせました。



 帰りは近くの神木(しぼく)不動バス停から川崎市営バスに乗って登戸駅に出ることにしました。



 登戸駅に出たのは小田急線~東京メトロ千代田線~JR常磐線と乗り継ぐためです。うまくいけば、直通電車とタイミングが合って、小田急~JRと乗り換えなしで行けるかも、と考えたからですが、駅に着いてみれば、朝方の大雨で小田急のダイヤが乱れ、ために相互乗り入れは中止だ、と。
 都合よく雨が熄んでくれたのは薬師如来の御加護也、と悦んだと思いきや、道を間違えて、大護摩の開始に立ち会えなかったので、1勝1敗。
 登戸では直通に乗れるかも、という目論見が外されて、1勝2敗と負けが先行と思いきや、小田急線から千代田線に乗り換える代々木上原では、すでに千代田線の電車が待っていたところに滑り込んで、割と混んでいたのに空席もあり、直通か綾瀬止まりかわからぬまま滑り込めば、二本に一本という割合の常磐線直通電車でした。やはり最後は薬師如来の御加護がありました。

この日、歩いたところ(神木不動バス停から登戸駅まではバスを利用)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2023年四月の薬師詣で・船橋市

2023年04月08日 21時18分56秒 | 薬師詣で

 四月の薬師詣では船橋市を歩きました。埼玉県の熊谷に行こうか、と考えていたのですが、先月に崩した体調が充分には元に戻っていないのと、夕方は雷をともなうような烈しい雨になるかも、という天気予報だったので、大事をとって近場の船橋を歩くことにしました。



 船橋駅で降りて、しばらくは京成電車の高架に沿って歩きます。この先に目的の宮本薬師堂があるのですが、つい先日まで、こんなところに薬師堂があるとは知りませんでした。周辺は三年半前、2018年の終い薬師で東光寺を訪ねるべく歩いたところです。



 クネクネと曲がった路地の先に突然現われた薬師堂。船橋駅から二十分で着きました。意表を突く造りの御堂に大きな文字で「藥師堂」とあったので、びっくりしてしまいました。
 詳細は詳らかではありませんが、八千代市を中心に営まれた吉橋大師八十八所霊場の二十四番です。かつては西光院という寺があり、大師堂があったようです。



 薬師堂から七分のところに慈雲寺があるので寄って行きます。我が曹洞宗のお寺。2018年の終い薬師のときにも参拝しているので、二度目になります。開山は鎌倉時代、宋から来日した無学祖元です。



 今日八日は花まつり(灌仏会)でもあります。本堂に設えられた花御堂に参拝します。



 曹洞宗のお寺なので、歴住の墓所に参拝、焼香。



 次の目的地・能満寺に到る途中の道路です。
 人一人がやっと通れるような歩道。やっと、どころか、電柱があったりするので、スタスタと歩くわけにはいきません。おまけにガードレールの役目は果たせないような危なっかしい柵。反対側にも同じような柵のチャチな歩道。
 どうせならどちらか一本にして、その分広くすれば……と思うのですが、同じ千葉県だからかどうか、我が松戸市も流山市も、道路管理者に出来上がったあとで歩いてみたことがあるのでしょうか、と訊いてみたいような歩道が多いのです。



 この日は夕方、雷をともなうような烈しい雨になるかも、という天気予報。いつの間にか黒雲が現われ、風も冷たく変わってきました。



 慈雲寺から四十分以上歩いて二つ目の薬師詣で、真言宗豊山派能満寺にやってきました。



 本尊は虚空蔵菩薩。「船橋市史」には「天和二壬戌年(1682年)三月創立、(中略)尊慶法印開基」とあります。



 本堂左に薬師堂がありました。



 千葉県道8号を七分歩いて、無量寺を訪ねました。ここも真言宗豊山派の寺院ですが、無住でした。「船橋市史」には「幕末安政元年(1854年)前後には、順法尼という尼僧が住持していた」とあります。



 千葉県道8号を西に向かってさらに進むと、海老川にぶつかります。桜(ソメイヨシノ)はほとんど散ってしまいましたが、サトザクラでしょうか、川沿いには満開といっていい桜が残っていました。



 無量寺から長福寺までは二十分。十年前の五月に参拝したことがあって、訪れるのは二度目です。



 ここも曹洞宗のお寺なので、歴住の墓所に参拝します。



 墓所の奥にネットで通せんぼされた径がありました。林の中にあるはずなのは夏見城跡ですが、見ることは叶いません。
 詳細は不明ですが、永禄のころ(1558年-69年)には、夏見政芳という人物が城主であったことがわかっていますが、どのような人物であったのかはいまのところ知る手がかりがないようです。長福寺はこの政芳によって再興されたと伝わっています。 

 このあと、最後に目指すのは薬王寺(真言宗豊山派)です。長福寺と同じ日に訪れていますが、そのときは本堂が修復工事中だったので、改めて参拝に行くことにします。
 能満寺まで行くので、薬王寺に寄って帰ろうと決めたとき、前にきたのはいつだったろうと思い返して、2013年五月の薬師如来の縁日だったとわかりましたが、十年も前なのに、ついこの前……という思いがします。



 十年前にきたときは鉄柵が閉ざされていました。てっきり参拝は叶わぬものと諦め、門前で拝礼したのですが、今日とは逆で、向かって左手・船橋駅から歩いてきたとき、一つ前の角に、「日枝神社参道入口」という掲示があるのを見ていました。
 閉ざされた鉄柵を前にアテが外されたような思いでいたので、普段であれば、お寺ならともかく、神社を訪ねることなどないのですが、なぜか行ってみようという気になり、その結果、薬王寺の別の入口を見つけて、工事中の境内に入ることができた、という過去があったのです。
 普段なら行くことなどない神社に行ってみようという、そのときの閃きは身びいきながら、薬師如来のおかげだと感じたことをまざまざと思い出していました。



 見上げるような石段です。高所恐怖症持ちの私は左の手すりを頼りにおっかなびっくり上りました。



 振り返って眺め下ろしてみるまでもなく、私には下ることなど及びもつかぬ高さの石段です。



 境内掲示には「当山は、夏應山東照院薬王寺と号し本尊は薬師如来です。開山弘安三年(1280年)六月宥澄」とありました。
 薬王寺参拝を済ませれば、今日のお勤めは終了です。帰りは海老川の下流沿いに歩きながら、船橋駅に戻ることにします。

この日、歩いたところ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2023年三月の薬師詣で・木更津市

2023年03月08日 21時49分26秒 | 薬師詣で

 三月の薬師詣では千葉県の木更津です。

 
 


 新松戸から南船橋、蘇我と乗り換えて木更津まで約一時間半。



 今日、最初に訪ねたのは真言宗豊山派平等院です。木更津駅から十六分。明治四十年、新宿の能満寺と吾妻の東光院が合併して設立されました。

 


 平等院とは目睫の間に、真言宗智山派の寺院・成田山新宿不動堂がありました。本尊は成田山新勝寺から勧請された不動明王ですが、上総国薬師如来霊場十五番札所でもあります。

 


 浄土宗東岸寺(画像上)と同選擇寺。東岸寺は応永八年(1401年)の創建。選擇寺は文明十四年(1482年)の創建。



「いやさ、これ、お富、久しぶりだなぁ」という名科白で知られる、歌舞伎「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」で、切られ与三こと与三郎に悪事を仕込む役回りのこうもり安こと山口瀧蔵の墓。選擇寺境内にありました。
 歌舞伎の設定とは異なって、実際のこうもり安は木更津の大きな油屋・紀の国屋の次男坊で、なかなかの男ぶり。金回りもよかったので、花柳界の寵児といわれるような人物であったそうな。
 このあと切られ与三郎の墓にもお参りします。

 


 選擇寺から真言宗豊山派の愛染院へ。承久二年(1220年)の創建。明治三十一年、瑠璃光山東善寺、明王山持宝院、弘誓山長音寺、竹島山宝光寺の四か寺が合併して愛染院と改号。
 薬師如来立像を見ることができました。

 


 愛染院からわずか二分の日蓮宗光明寺。ここに与三郎の墓がありました。

 


 光明寺を出ると、与三郎通りと名づけられた小径がありました。
 昼間なので、呑み屋さんがあってもまだ営業前ですが、どうも昼間だからシャッターが下ろされているのではなく、年じゅう下ろされているような様子。
 与三郎通りとはいっても、この通りから与三郎の墓へは行けません。



 光明寺から木更津駅前を通り過ぎ、矢那川を越え、国道16号(東京環状道路)の高架下まで徒歩三十分。杉木立の参道の向こうに長楽寺が見えてきました。



 真言宗豊山派の寺院。上総国薬師霊場三十一番札所。創建年代等は不詳ながら、鎌倉時代の創建と伝えられています。

 


 長楽寺から歩くこと十五分。小高い丘の中腹にある祥雲寺を訪ねました。やや急な上り坂を上らされた上、短いながらも石段があって、木更津駅に降り立ってから二時間。ほぼ歩き通しで歩いてきた脚にはかなりの負担となりました。



 天正十三年(1585年)の開山。我が宗派のお寺なので、歴住の墓所を捜して参拝。ちょっと変わった形のお墓でした。



 祥雲寺から二十五分。今日最後の目的地・東光院峯薬師に着きました。
 すでに午後三時近く、陽も西に傾き始め、暖かい一日でしたが、風も冷たく感じられるようになってきました。足早に参拝、と思って見上げたら……。



 天を突くような石段です。石段の上に見えるのは仁王門ですが、意を決し、手すりを頼りに上ったものの、上り切ったところは狭くて下がることができず、カメラを構えても充分に引けないので、仁王門を写すことは能わず、でした。



 香炉の向こうに本尊の木造薬師如来立像を祀る本堂。真言宗豊山派の寺院で、貞元年間(976年-78年)に僧・行基によって創建されたと伝えられています。関東九十一薬師霊場の八十六番札所。

 お賽銭をあげて参拝。これにて今日のお勤めは終了です。
 木更津駅までは三十五分。疲れ切った脚を引きずるようにして歩きましたが、帰りも蘇我~南船橋~新松戸と乗り換え。全行程坐ることができたので、新松戸に着くころには多少なりとも疲れは癒やされました。

この日、歩いたところ

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2023年二月の薬師詣で・さいたま市南区~蕨市

2023年02月08日 17時56分27秒 | 薬師詣で

 二月の薬師詣ではさいたま市南区から蕨市にかけて歩きました。



 武蔵野線を南浦和で降りました。
 真言宗智山派の寳性寺は六年前、2016年の終い薬師の日に参拝していますが、南浦和駅のすぐ近くなので、この寶性寺から今日のお勤めを始めることにします。



 南浦和駅西口を出てわずか三分。本尊は不動明王ですが、薬師如来もお祀りされているようで、旧浦和市を中心に、
それぞれ十二ずつある関東東向寅薬師と足立十二寅薬師のうち、足立十二寅薬師の第六番です。創建年代は不詳。「新編武蔵風土記稿」には「新義真言宗、蕨宿三学院末、修妙山と號す、本尊不動を安置せり」と記載されています。

 寳勝寺で踵を返して南浦和駅前に戻り、一ツ木通りという東京・赤坂あたりにあるような名の通りを南下します。

 

 途中まではこのように広々とした歩道があります。



 見沼代用水西縁支線。か細い流れを越えて最初の角を右折します。



 さすがに読めないとみえて、町名板には「ぶぞう」とルビが振ってあります。

 

 寶性寺から歩くこと約二十分で文蔵薬師堂に着きました。



 関東東向寅薬師の第一番。ここも創建年代等は不詳。江戸期には周辺に歓養院と圓乗院という真言宗寺院があって、歓養院が不動堂と地蔵堂を、圓乗院が薬師堂を寺地とは別に所有していたと伝えられています。明治維新後、圓乗院は廃寺となり、現在は圓乗院の本寺だった三学院が管理をしているようです。

 文蔵薬師堂をあとに三学院に向かいます。

 

 色鮮やかな仁王門と長屋門が迎えてくれました。

 

 堂々たる本堂。お賽銭をあげたあと、振り返って境内を見下ろします。

 

 阿弥陀堂(上)と三重塔。

 三学院は関東東向寅薬師の第十二番です。三学院のお参りを済ませると、関東東向寅薬師で残すのは全十二番のうち第三番の上丿宮薬師堂のみとなりました。



 帰りは和樂備神社に寄ったあと、旧中山道を歩いてみることにしました。

 

 こんなタイルがはめこんであります。



 蕨宿に合わせた佇まい。漢方の薬局です。



 こちらは酒屋さん。



 歴史民俗資料館分館。



 帰りは蕨駅から。

この日、歩いたところ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2023年初薬師・茨城県結城市

2023年01月08日 19時32分43秒 | 薬師詣で

 十三年目となる薬師詣で。今年最初となる初薬師は茨城県の結城へ足を延ばしました。



 南越谷(新越谷)で武蔵野線から東武線に乗り換え。乗った電車は南栗橋止まりでしたが、ホームの反対側に東武宇都宮行が停まっていたので、乗り継いで栗橋まで。栗橋でJRに乗り換え、小山でまた水戸線に乗り換え。



 乗り換えが忙しかった割に結城までの所要時間は一時間と四十二分。結城駅は北口に出ました。



 最初に訪れたのは結城駅から徒歩六分の一言薬師堂。結城三大薬師の一つです。門柱には一言薬師堂と記されていますが、地元の人には立町の薬師さんと呼ばれて親しまれているそうです。



 一言薬師堂から五分で孝顕寺に着きました。
 結城家の菩提寺です。堂々たる山門と奥に見える本堂。山門下、脚立のように見えるのは花水盤です。真上からカメラ(ソニーサイバーショット)に収めましたが、なぜかカメラはここで故障。写ってはいますが、メモリカードではなく、カメラの内蔵メモリに記録されてしまい、カメラとパソコンを繋ぐケーブルがないので、いまのところはどんなに知恵を絞っても、パソコンに取り込むことができません。



 孝顕寺から六分で浄土宗弘経寺。
 お薬師さんを祀るお寺ではありませんが、行く前から是非とも行ってみたいと考えていたお寺です。
 文禄四年(1594年)、家康の次男であり、結城家十八代の結城秀康(1574年-1607年)が、娘の松姫供養のため、飯沼(常総市)にある弘経寺の壇誉上人を招いて建立した浄土宗の名刹です。江戸時代には僧侶の養成所である、関東十八壇林の一つが置かれました。 



 弘経寺の裏門を出ると、金福寺がありました。時宗の寺院で、開山は鎌倉時代の正応年間(1288年-93年)。



 金福寺と隣合わせに真言宗の光福寺がありました。
 このあと、境外地にある辻の薬師堂を訪れるので、本堂に参拝して行きます。



 光福寺から七分で安穏寺。山門は至徳二年(1385年)の建立。



 曹洞宗のお寺なので、歴住の墓所を訪ねて焼香。先の孝顕寺も曹洞宗のお寺だったのですが、そうとは知らなかったので、歴住の墓所にはお参りすることなく、立ち去ってしまいました。

 結城は古くからの城下町でもあり、結城紬で知られるように商都でもありました。有形文化財に指定されている建築物も数多くありました。



 結城紬の卸商・中澤商店見世蔵。



 紬問屋・奥庄店舗。



 有形文化財の説明書きが陽に晒されていて、まったく解読不能でした。



 安穏寺から十四分。光福寺の境外地にある辻薬師堂。三大薬師の一つ。ここも地元の人は「さがりの薬師さん」と呼んでいます。



 辻薬師堂から八分。この日、最後に訪れた番匠町の薬師如来。ここも三大薬師の一つ。地蔵尊と並んで祀られています。

※(後期)この日の歩数は13000歩近くにもなりました。ほとんど休息をとるここともなかったのに、脚の痛みも腰の痛みも出ませんでしたが、気が張っていて、気づかなかっただけのようです。
 以前とは違って、身体には相当ガタがきていて、この日はなんでもなかったのですが、ブンブンと歩いて、真冬だというのに、上半身はうっすらと汗をかき、汗ばんだ身体のまま、結城駅では三十分以上もプラットホームのベンチで寒風に晒されていたので、風邪をひいてしまったのでしょう。翌日は終日ベッドから抜け出すことができず、翌々日はなんとか起き上がることはできても、こたつでへばっているだけでした。

この日、歩いたところ

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2022年終い薬師・松戸市

2022年12月08日 23時11分39秒 | 薬師詣で

 あっという間に終い薬師の日がやってきました。

 脊柱管狭窄症は徐々に恢復に向かい、左脚の痛みも随分楽になって、近場なら出かけることができるようになりましたが、あくまでも電動付自転車があってのことです。
 そこで今月の薬師詣では、先月行った馬橋の中根寺へまた、というのも芸がない(こういうときに用いる言葉か、と自省しつつ)と思ったので、松戸駅近くの吉祥寺、と考えました。
 グーグルマップで検索してみると、自転車なら所要時間は約二十分。実際に走ったことは一度もありませんが、道はほぼ平坦です。行って行けないことはなさそうですが、実際に行くか、と思うとちょっと?。
 電車で行くとすれば、当然駅まで行かなければなりませんが、脊柱管狭窄症が発症して治りかけて以来、新松戸駅まで歩いたことは一度もありません。駅までは自転車……とも考えましたが、駅前で駐輪スペースを捜すのも面倒。
 で、行きも帰りもエッチラオッチラと歩くことにしました。ちょっと前よりは歩みが少し早くなり、途中で疲れを覚えることもなく、背中は曲がったままですが、腰が痛くなることもなく、なんとか駅に到着することができました。

 電車に乗るのは三か月ぶりです。乗ってみると、相変わらずスットコドッコイが多い。いや、背中を曲げたまま、自由には歩けない自分のほうがスットコドッコイなのかもしれません。



 すでに十時台でしたが、上り電車なので、それなりの乗客の多さでした。



 松戸駅で降り、西口に出ました。お陰さまで今日も好天です。



 ちょっと前、車で通りがかったので、なんだかよくわからなかった祠が松戸駅西口公園先にあったのが気に懸かっていました。お薬師さんにお参りする前に足を延ばしてみました。



 近づいてみると、鎮座ましましていたのは、お不動さんでした。が、ざっと見渡したところ、なぜここにお不動さんが祀られているのか、由緒を示すようなものは見当たりませんでした。



 すぐ近くを、降りたばかりの常磐線が走っています。



 ちょっとだけ寄り道をしましたが、松戸駅から十分で吉祥寺に着きました。健常なら脚であれば何分で着けるのでしょうか。



 寺号は吉祥寺ですが、山号は根本山。所在地も松戸市根本。地名と山号の由来は遠く弘法大師に所縁があります。
「千葉縣東葛飾郡誌」には、「當寺は大同二年(807年)僧空海當地に来錫して建立するところ、本尊薬師如来は弘法大師市刀三禮の一夜作」とありますが、実際には創建年代等は不詳とされているようです。

 

 薬師詣でにきたのですが、礼に則ってまず本堂に参拝します。



 本堂への参拝を終えて、薬師堂へ……。

 

 小さな隙間からカメラのレンズだけ突っ込んで撮影に及びましたが、残念ながらお厨子の扉は閉ざされていました。左右に日光月光両菩薩と思われる小振りのお厨子があり、十二神将は直接見ることができます。
 弘法大師作といわれる薬師如来三体のうち、もう一体は先月薬師詣でを済ませた馬橋の中根寺にあり、残りの一体はやや離れた印西市浦部の歓喜院に蔵められている、といわれています。

 今日お参りした吉祥寺の薬師如来が木の根本を用いて彫られたので、地名が根本、寺の山号が根本山、先月の中根寺が木の真ん中を用いたので、地名が中根、寺号が中根寺なのに、もう一体がある歓喜院には、所在地にも寺の名にも木の上部を用いた、という証が何もないというのは一体なにゆえか、と思いますが、三体の薬師如来ということで思い当たるのは、龍の胴体が三つに分けられて落ちたところから薬師如来が祀られたという龍角寺、龍腹寺、龍尾寺の伝説です。これも三つということで、あまり余計なこと、野暮なことは考えずにお参りを済ませればいいことのようです。



 帰りに通り抜けた公園では落葉盛んでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2022年八月の薬師詣で・香取市

2022年08月08日 22時00分34秒 | 薬師詣で

 あっという間にひと月が経って、また薬師詣での日が巡ってきました。フランスの哲学者ポール・ジャネ(1823年-99年)が提唱した法則によれば、私が二十歳のころに感じたひと月は、五十年以上を経たいまの私にとっては、八日間ほどにしか感じられない、ということになるのですから、あっという間だと感じるのは当たり前ということになるのですが、連れて-か、どうか-物忘れのスピードも早くなりました。
 従事しているボランティア活動で、ひと月に一度訪ねる家が六~八軒あるのですが、同じ松戸市内ではあっても、普段はまったく行かない地域、増して引っ越してからはますます無縁の地域となってしまったので、ますます迷うことが多くなりました。

 先月の三十一日に新型コロナワクチンの四回目接種を受けました。会場に出向いたのはまだ午前中だったのに、到着するころにはすでに猛暑でした。そのためかどうか、帰ってくるころには体調を崩していて、そのまま三日間寝たきりで過ごすことになりました。ワクチンの副反応だったのか、熱中症だったのか、五年前から一年に一度襲ってくるようになった持病の本格発症だったのか。とりあえずは本復して、無事薬師詣でに赴くことができる身体に戻りましたが、原因はわかりません。
 接種会場は松戸市の公共施設で、二月に三回目の接種を受けに行っていたし、散歩の途中で何度か前を通っていたのですが、なぜか勘違いを起こして、気づいたときには行き過ぎていました。
 遅刻しそうになったので、慌てて戻った焦りか、折からの暑さか、出発する前に計測した体温は三六度ちょうどだったのに、会場で測ったときは三七度にもなっていました。係員に「ギリギリセーフ!」といわれ、医師との面談でも「大丈夫でしょう」といわれたので、接種を受けましたが、もろもろ考えると、延期しておいたほうがよかったのかもしれません。

 本復して数日。どうやら薬師詣での遠出も可能なようなので、今回は佐原を訪問。目的地は二か所。一つは佐原駅から数分のところにある薬師堂、もう一つはバスで十分、歩くと二十五~六分という観福寺です。



 新松戸から我孫子行の常磐緩行線に乗り、我孫子で成田行に、成田で銚子行に乗り換えます。
 今日は往復とも新松戸~我孫子、我孫子~成田、成田~佐原と同じコースで行き来しましたが、月曜だったからか、クソとつけてもいいような暑さだったからか、あるいは新型コロナの猛威が衰えず、夏休みであったのにもかかわらず、子どもたちは外出を手控えたのか、復りの佐原~成田間を除いて、電車はすべてガラガラ状態でした。



 乗り換えの待ち時間が長かったので、二時間かかって佐原に到着。風情のある駅舎です。



 駅前のロータリーにある伊能忠敬の銅像。



 観光案内所へ立ち寄ります。



 歩き始めると、行く手に諏訪神社の大鳥居。



 観光案内所をあとにしてから七~八分、ここにも伊能忠敬の銅像がありました。



 諏訪神社への石段。地図では径があるのかどうかわからないながらも、次に向かうつもりの莊嚴寺は頭上高く見える社の後ろにあります。しかしへっぴり腰覚悟でも、高所恐怖症を持つ私には上ることはできません。背後にあるクネクネした上り坂に向かいます。

 

 荘厳寺に着く直前、ヤブミョウガ(藪茗荷)の大群落がありました。私が眺めることができたのは東漸寺か本土寺の裏で毎年数茎。引っ越してしまった今年は行くとすればわざわざ行くことになるので、見られるとは思ってもいませんでした。しかも、まったく予期しなかった大群落です。庵の近くにあったらなぁ、と垂涎の到り。

 

 佐原駅から二十分。真言宗(単立)莊嚴寺に到着しました。
 今日の行程はやっと始まったばかり、というのに、緩いけれども長い上り坂と戦ってきたので、すでに気息奄々という状態です。
 壯嚴寺の開基は寛永十八年となっていますが、境内に永禄年間の板碑があり室町時代に遡れるのでは、と郷土歴史家はいっているそうです。
 かつては真言宗豊山派に属しており、このあと薬師詣でで訪れる観福寺の末寺でありましたが、平成八年一月単立となりました。



 国重要文化財・木造十一面観音立像を祀る観音堂。



 境内に置かれた十三仏の石像のうち、左に拈華を持った釈迦如来、右に薬壷を持った薬師如来。思わぬところで薬師詣でができました。



 荘嚴寺から法界寺へ下る山径を黙々と歩いていたら、幽かな香りが漂っているのに気づきました。ふと立ち止まって見上げれば、クサギ(臭木)の花盛りでした。高さは5メートルはあるかも。こんな高木は初めて目にしました。ここでも近くにあったなぁ、となかば嘆息。これもお薬師さんの功徳?

 

 小山をグルリと半周する形で浄土宗法界寺に着きました。開創は天正十一年(1583年)。



 法界寺門前にはこの地区(上宿)の山車蔵がありました。
 佐原の大祭は夏と秋の二度挙行されます。夏の大祭は七月十五日から十七日とすでに終わっていて、秋は十月七日から九日まで。町中を流れる小野川を境にして、東側(佐原駅から遠いほう)が本宿と呼ばれる夏祭りの地区、西側が新宿と呼ばれる秋祭りの地区です。山車は夏十台、秋十四台の計二十四台。



 すでに使われていないようですが、火の見櫓を見ました。



 たまたま通りかかって目にすることができた与倉屋大土蔵。明治二十二年、醤油の醸造蔵として建造されました。現在は倉庫業。戦時中は兵器庫として使用されました。




 与倉屋大土蔵を過ぎたところで、道路工事の通行止めに遭遇。車両の通行止めに出くわすことは頻繁にあっても、歩行者まで、ということは滅多にないのですが、この日はその滅多にないことがありました。鉄の構築物を断裁するのに、ガスを使っていて危険、というので、通してもらえなかったのです。
 お陰で、与倉屋大土蔵とあとで渡るつもりだった小野川を眺めることができました。町中より少し上流だったため、清冽でせせらぎのような流れでした。

 

 法界寺から二十数分歩いて観福寺に到着。山門をくぐると、これから深山幽谷へ分け入って行くかのような参道の雰囲気でした。



 観福寺本堂。寺伝によれば創建は寛平二年(890年)、開基は尊海僧正といわれています。西新井大師、川崎大師と並ぶ関東厄除け三大師の一です。



 本堂から一段高いところに観音堂がありました。ここには平將門の守護仏とされる聖観世音菩薩が祀られています。



 観音堂前の池にはガマ(蒲)。これも久しぶりに見ることができて嬉しい。



 観音堂奥の墓所には伊能忠敬の墓があったので参拝。髪と爪が納められているそうです。

 このあと、薬師堂に参拝しましたが、帰ったあと画像を点検してみると、この墓のあとには、なんだかよくわからない風景が写っているだけで、肝心の薬師堂の画像がありません。暑さでボケていたのか、テキトーにシャッターを切って、モニタの確認もしなかったようです。

 薬師堂の写真がないとは知らず、観福寺参拝を終えて、ヤレヤレというテイで折り返しの行程に入ります。

 

 佐原の町中に戻りました。伊能忠敬旧宅(画像上)と小野川・町並み舟めぐりの舟。佐原には二十三年前にもきたことがあり、このあたりで「忠敬ごのみ」という煎茶を買ったことがありますが、四半世紀近くも経ってしまったいまではどこで買ったのか記憶はあやふやです。

 この先、歴史的建築物の並ぶ地域に差しかかります。当初はそれらも眺めながら歩く心づもりをしていましたが、とにかく暑い、シャツはすでに汗グッショリ……何にもまして疲れている、ということで、最後の薬師堂目指してひたすら歩くのみです。



 この日、最後に訪れた薬師堂です。薬師堂らしからぬ建物だったので、スマートフォンの地図と何度も睨めっこ。ここしか考えられぬと断を下して参拝。這々の体で佐原駅に辿り着きました。

この日、歩いたところ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2022年七月の薬師詣で・常総市

2022年07月08日 21時32分24秒 | 薬師詣で

 今月の薬師詣では茨城県の常総市を歩きました。



 新松戸から武蔵野線に一駅だけ乗って、南流山でつくばエクスプレスに乗り換えます。



 守谷でつくばエキスプレスから関東鉄道常総線に乗り換えます。



 関東鉄道に乗るのは久しぶりです。一両だけのディーゼルカーが出発を待っていました。取手~守谷間はたびたび利用したことがありますが、守谷から先・水海道方面へ行くのは初めてです。



 新松戸から一時間かけて南石下駅に到着。降りたのは私ともう一人だけ。無人駅でした。



 電車を降りて歩き始めたあたりは、いまから七年前、2015年九月の関東・東北豪雨で、近くを流れる鬼怒川の堤防が決壊し、水没してしまった地域です。
 七年も経過しているからか、災害を偲ぶようなものはこの標識のほかには見当たりませんでした。浸水深(高さ1・5メートル)を示す紅いテープ(想定浸水深標示板の上)は自然に剥がれたのか、剥がされたのか、残っていたのはわずかな部分のみ。



 南石下駅から徒歩八分。この日、最初に訪ねたのは浄土真宗・東弘寺です。



 これまで数多くの薬師如来を訪ねてきましたが、親鸞さんのお寺で薬師如来を祀っているというのは初めてです。



 次に参拝したのは浄土宗・西福寺です。こちらは薬師如来には関係がありませんが、平將門と関係があるので寄ってみました。
 寛永九年(1632年)、了学上人(芝・増上寺十七世)の隠居所として建設されました。
 了学上人(1549年-1634年)という方は小金城主だった高城胤吉の三男で、私がよくお参りに行く東漸寺で出家され、増上寺十七世になる前、東漸寺七世の住職を務められました。



 平將門公菩提供養之碑。建長五年(1253年)、鎌倉幕府第五代執権・北条時頼が將門の祭祀がちゃんと行なわれていないことを憐れんで、当時の守護職・千葉胤宗に命じて法要を営ませ、建てさせた碑だと伝えられています。



 西福寺本堂。

 平將門の生誕地とされているところはいろいろありますが、私の受けた感じではこのあたりの臭いが強いような気がします。といって、私は霊感のようなものは殊更弱いのですが……。この小旅行の最後に、生誕の地と考えられている館跡を訪ねます。



 西福寺から三分で薬師堂。
 地図には「薬師堂」と記されているだけで、名がありません。現地に行けば、何かわかるかも……と思ったのですが、現地に行っても、扁額にはかすれた文字で「薬師堂」とあるだけ、境内というべきか、空き地というべきか、遊具は何もありませんが、「薬師堂遊園地」という掲示があるだけでした。



 格子扉に隙間があったので、カメラのレンズを突っ込んで撮影に及びました。
 祭壇には扉の閉ざされた黒塗りの厨子が三つ、薬師如来と日光・月光両菩薩が納められているのでしょう。十二神将とおぼしき仏像は十二体に満たぬ数でした。



 薬師堂への参拝を終えたあと、高所恐怖症を持つ私には今日最初の正念場が待ち受けていました。鬼怒川を渡らなければならないのです。
 橋は石下大橋。画像で見ると、歩道部分はゆったりとしているように感じられますが、幅は1メートルもありません。車道のほうだけ見て進めれば何も問題はないのですが、なかなかそうはいきません。遥か下を流れる川面が視界に入ってこないよう、極力車道近くを歩き、念のため、歩道と車道を区切っている鉄柵を手すり代わりに掴もうとしましたが、少し前から陽射しが出て、鉄柵は火傷しそうなほどに暑くなっていました。

 画像にはたまたま車は写っていませんが、道は茨城県道・土浦境線で、大型トラックがビュンビュンと行き交っていたのです。その様をカメラに収めることができればよかったのですが、カメラを構えるためには両腕を眼のあたりに上げるという無防備な体勢をとらなければなりません。すると、向かってくるトラックが行き過ぎた直後は巻き込む風が起きて、身体が吸い込まれそうになり、とても生きたた心地はしないのです。



 鬼怒川をなんとか渡り終えてホッと安堵の吐息を漏らし、振り返るとほぼ真横に筑波山が望めました。
 実際に橋に臨む前は、橋上で立ち止まって、鬼怒川の流れを入れてワンショット、と考えていたのですが、まさに這々の体で渡ったので、立ち止まることはもちろん、振り返ることはできませんでした。



 地べたに降りさえすれば余裕綽々です。かつてこの地区にあった豊田城を模した地域交流センターも遠望することができました。



 石下大橋を渡り終えて、五分ほどで峯薬師堂に着きました。



 薬師堂のかたわらには樹齢五百年といわれるシイ(椎)の巨樹がそびえています。



 シイノキの説明はあっても、薬師堂の説明はありません。
 峯薬師堂への参拝を終えれば今日のお勤めは終了ですが、もう少しだけ足を延ばします。



 峯薬師堂から十二分。最後に目指したのは向石下城跡です。



 向石下城が築かれる前、ここには豊田館がありました。平將門の父・良將(よしもち)が築いたとされ、ここが將門生誕の地とされています。



 レリーフに彫られた平將門像の髪はザンバラです。



 豊田舘跡の奥にはポツンと建つ御堂がありました。地図には法輪寺とありますが、あるのはこの御堂と右手に、お釈迦様の石像を中心とした石像と卵塔があるだけ




 豊田舘跡からは鬼怒川が見えません。しかし、帰るためにはもう一度鬼怒川を渡らなければなりません。先に鬼怒川を渡ろうとしたとき、帰りも渡ることになるのだから、渡るのをやめ、峯の薬師堂への参拝も断念して帰ろうかと思いました。
 帰りに渡るのは石下橋です。道が緩い上り坂になり、橋が近づいてくると、武者震いのような緊張感に包まれましたが、橋が見えると、ちょっと拍子抜け。歩道は幅3メートルはあるでしょうか。これなら余裕綽々です。おまけに歩く人はまったくいない。



 帰りは行きに降りた南石下の一つ下館寄りの石下駅に出ました。
 右に止まっている車は二台とも客待ちのタクシーです。利用しような客の姿はありません。写っていませんが、左にも一台止まっています。



 やってきたのは行きと同じ一両だけのディーゼルカーでした。待っていた客は五人だけでした。

2022年七月の薬師詣で・茨城県常総市

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2022年六月の薬師詣で・千葉市

2022年06月08日 21時36分35秒 | 薬師詣で

 六月の薬師詣では千葉市を歩きました。
 庵を出発したのは正午。同じ県内の、それほど遠くないところへの小旅行とはいえ、ずいぶんゆっくりとしたお出かけ、と思われるかもしれませんが、最初に参拝する東光院の最寄り駅は外房線の鎌取駅。そこからバスに乗るのですが、バスの発車時刻は十三時十二分。もう少し早い便はないの? といっても、その前の便は三時間以上も前の九時五十分しかないのです。
 バスは使わず、鎌取駅から東光院まで歩こうとすると、グーグルマップを基にシミュレーションしてみたところ、四十分もかかります。歩けない距離ではないので、行きは歩きでも、帰りはバスがある、ということならいいのですが、行きの便がない、ということは帰りもない。従って、歩くとすれば、往復八十分を覚悟しなければならない。
 最近は寄る年並で、シミュレーションをしておいても、実際にはそのとおりにいかないことも多いので、八十分では済まず、百分以上、ヘタをすれば二時間近く、ということになるかもしれない。となると、いくらなんでもキツイ距離なので、バスに乗ろうと考えたわけですが、電車が遅れたりして、バスに間に合わない、というときは歩くしかないので、その覚悟を持って出かけました。



 新松戸から武蔵野線で南船橋へ。南船橋で京葉線に乗り換えて蘇我へ。蘇我でさらに外房線に乗り換えて、出発から約一時間。幸い電車が遅れることはなく、鎌取駅に着きました。



 千葉駅行、羽田空港行など、蘇我駅前にはたくさんのバスがくるようですが、私が乗るのは千葉中央バスのマイクロバスです。乗客は私を含めてわずか三人でした。



 乗車七分、平山坂下というバス停で下車。
 バスを降りると、折悪しく霧雨が降り始めました。
 天気予報は信じず、「予報」ではなく、競馬やプロ野球の順位予想と同程度の「予想」に過ぎないだろう、日本語は正しく使え、と悪態をついたりする私ですが、漁師でもない自分に天気を見ることなどできません。結局、「予想」をアテにするしかないのですが、前日まで、昼ごろに「雨」となっていた一時間天気が、今日になって「雨」マークが「曇」マークに変わったのを見て、傘は持たずに出かけてきたのです。



 バス通りを外れると、心細そうな径が伸びていました。頭上に覆いかぶさるような木立が雨を防いでくれますが、真っ昼間だというのに、少しずつ暗くなってきます。



 バスを降りて歩くこと五分。木立が切れると、前方が開けて、広い駐車場があるのが見え、このような石柱がありました。



 そこから境内へとつづく長い石段がありました。



 参道途中にはこんな掲示。読めないかもしれませんが、最後に「等身大のお薬師さま」と書かれています。



 石段を上り切ると、右手に御堂があったので、薬師堂かと思って行ってみたら、大日如来を祀る御堂でした。

 正面に本堂。
 東光院の創建年代等は不詳ですが、創建したのは平忠常(975年-1031年)、
本尊は入口の石柱にあったように七仏薬師如来です。
「千葉市史」によると、この七仏薬師如来像は忠常の祖父・平良文(886年?-?)が兄・国香と争ったときに加護を与えた、上野国府中花園村(現・群馬県群馬町)の息災寺という寺の本尊を勧請したものといわれています。

 平良文は承平元年(938年)、甥の平將門と力を合わせ、上野国花園村で兄・平国香と合戦に及びましたが、良文軍は次第に苦戦に陥り、ついに主従七騎になってしまいました。良文も落馬して、絶対絶命の窮地に追い込まれたと思ったとき、雲の中から「羊妙見菩薩」が現われて良文軍に加勢。結果、勝利を収めることができた、といわれます。
 戦後、合戦場の近くには息災寺という寺があって、妙見菩薩を祀っていると聞いて行ってみると、七仏薬師が安置され、その主尊が羊妙見菩薩だったということから、信心するようになったようです。




 本堂に掲げられた七仏薬師の額。

⬇東光院にはホームページがあります。
http://www.tokoin.com/index.html



 帰りのバスは終点まで行ったバスが戻ってくるだけですから、一日の便数は行きと同じ。わずか八便しかありません。
 雨は熄む気配がありません。幸いバス停の上は樹の枝が傘のように張り出していたので、雨を凌ぐことができました。

 鎌取駅に戻って、千葉駅まで外房線に乗車します。

 

 行きの蘇我~鎌取間は結構混んでいたので気がつきませんでしたが、帰りは一車両に乗客数人というガラガラ状態。初めて気づいたのは優先席(臙脂色の斜め縞模様)と一般席(紺色)が合体したロングシート(画像上)と久しぶりに目にしたトイレつきの車両。



 千葉駅で降りて西改札口に出ました。
 今日二つ目の目的地は大日寺ですが、近くに我が宗派の宗胤寺があるので、寄って行きます。

 千葉公園を通り抜けて、千葉駅から約三十分。宗胤寺に着きました。
 千葉駅を出るときはまだ霧雨が降っていましたが、歩いている間に雨は熄み、あろうことか陽射しまで出ました。
 宗胤寺は室町時代の創建。本尊は木造十一面観音坐像。開基は千葉氏第十代の宗胤(むねたね・1268年-1312年)。当初は現在の千葉県庁と都川をはさんだ対岸にあったと伝えられています。昭和二十年の戦災で焼失、当地へ移転しました。



 我が宗派のお寺に参拝するときは本堂だけでなく、歴住の墓所に参拝するのを常としているのですが、墓域にはそれらしき卵塔があるのが見えても、入口が見当たりませんでした。一旦陽射しが出たとはいえ、再び雨が降る恐れはあったので、あまりゆっくりとはしていられない。塀越しに望遠レンズで撮影。そこで拝礼するのにとどめて、先を急ぎます。



 宗胤寺から十二分。目的の大日寺に着きました。
 真言宗豊山派の名刹で、千葉氏第八代・頼胤(1239年-75年)が源氏三代の霊を供養するために、建長六年(1254年)に創建しましたが、創建の地は現在地ではなく、松戸市馬橋。私がときおり参拝に赴く萬満寺のある場所です。
 弘安七年(1284年)、頼胤の子・宗胤によって、千葉氏の菩提寺として千葉に移された、と伝えられています。昭和二十年の戦災で全山焼失の憂き目に遭い、千葉神社の南側(現在は通町公園となっている)から現在地に移りました。



 趣きのある瑠璃光殿。



 下が覗けて、上って行けば宙に浮いたような感じになるであろう階段を上ることは、高所恐怖症持ちの私にとっては至難の業です(というより最初から上る気がありません)。お賽銭は本堂にあげたので、これでいいですよね、と独り言をつぶやきながら、頭上におわすであろうお薬師さんに合掌。



 すぐ隣といっていいほどの距離に来迎寺がありました。現在は浄土宗単立ですが、当初は時宗の寺院だったようです。



 創建は大日寺を創建した頼胤から数えて五代あとの千葉氏第十三代・氏胤(1337年-65年)が一遍上人を開基に招いたと伝えられていますが、氏胤が生きた時代と一遍上人の生涯(1239年-89年)とは一致しません。創建されたのが伝えられている建治二年(1276年)だとすれば、千葉氏の当主は頼胤の子・宗胤(第九代)ですが、当主とはいっても、建治二年時は弱冠十二歳に過ぎません。創建年代が正しいとすれば、頼胤による創建と考えるのが妥当でしょうか。
 当初は来光寺と称し、先の大日寺の近く(現在の道場公園付近)にあったと伝えられています。やはり昭和二十年の戦災に遭って消失。当地へ移転しました。



 今日のお勤めを終えて、帰りは西千葉駅に出ました。
 
 毎月八日に薬師詣でをしようと思い立って始めたのは2011年一月のことですから、今年で十二年目になり、六月の薬師詣ではすなわち十二回目ということになります。当然のことながら、毎年毎年梅雨のさなか、ということになりますが、六月の薬師詣でに限ると、去年六月までの十一回、雨に降られたことは一度もありませんでした。
 今年の薬師詣では関東地方は西日本に先駆けて梅雨入りが発表された直後で、初めて雨に降られたわけですが、行程の半分は雨に祟られずに済んだということは、いささか牽強付会の度が過ぎると思いつつも、お薬師さんのご加護があったのではないかと考える次第です。

この日、歩いたところ①(鎌取駅~東光院。行程のほとんどはバス利用)。

同②(千葉駅~大日寺~西千葉駅)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2022年五月の薬師詣で・板橋区~朝霞市

2022年05月08日 21時28分51秒 | 薬師詣で

 今月の薬師詣では武蔵野線で北朝霞まで行き、東武東上線に乗り換えて成増まで行って帰ってくる行程です。
 武蔵野線は六年前、2016年十一月の薬師詣でで北朝霞の一駅手前の西浦和まで利用していますが、それより先(府中本町寄り)は私にとって処女地です。今月は西浦和~北朝霞とわずか一駅だけですが、処女地開拓と相成りました。



 北朝霞駅と接続する東武東上線の朝霞台駅。隣同士なのに武蔵野線の駅名は北朝霞、東武は朝霞台です。
 最初に向かうのは成増です。ちなみに成増では東武線の駅名は成増、接続している地下鉄有楽町線は北朝霞と朝霞台の距離より断然遠いので、さすがに同名にするわけにはいかなかったとみえて「地下鉄」とつきますが、地下鉄成増です。



 成増駅北口に出ました。



 住宅街の中に果樹園などがあって、へえなどと感心しながら歩いて行きます。

 

 二枚の画像の間には谷が形成されていて、結構起伏に富んでいます。



 道を間違えてしまったので、事前のシミュレーションより数分余分にかかって、今日最初の目的地・青蓮寺に着きました。



 この日はたまたま新しいご住職の晋山式が行なわれているところでした。後ろに見える本堂まで行くのは遠慮して、少し離れたところで合掌。お賽銭はあげられませんでした。
「新編武蔵風土記稿」には「新義真言宗上石神井村三寶寺末本尊薬師」と記されています。開基開山については詳らかではありませんが、当初は現在地から2キロほど離れた場所
(現・高島平四丁目)に建てられていました。水害に遭って、いつの時代にか現在地に移転したということです。
 本尊薬師如来が室町時代の作風を持つので、寺の創建もおよそその時代だろうと推定されています。文政年間(1818年-30年)末期から大正初期までの約百年間は無住であったそうで、この間に文書什器等が散逸してしまったようです。


 成増駅に戻って東上線を逆戻り。次に降りたのは和光市駅です。



 和光市駅前。なんとなく馬橋の駅前を思い起こさせます。



 このあたりも起伏に飛んでいます。この坂を下り終えたとき、また道を間違えているのに気づきました。



 しかし、間違えたおかげでこんなところに出ました。



 新倉ふるさと民家園です。五月の節句は三日前に過ぎたのに、まだ鯉のぼりが立てられていました。



 実際は十四~五分ほどで着けたはずですが、道を間違えた上に、新倉ふるさと民家園を覗き見したりしていたので、二十分以上かかって東林寺に到着。



「新編武蔵風土記稿」には「是も三宝寺の末なり、医王山と云、本堂五間に六間、本尊薬師如来弘法大師の作を安ず、小名峯にある故峯の薬師如来と云(中略)当寺の開山等詳かならざれども、石碑に元禄八乙亥天九月などえりたるもあれば、元禄前の開基なるべし」と記されています。



 帰りは正しいと思われる道を歩いたら、地蔵堂のかたわらを通り過ぎました。



 いまはこのような更地になっていますが、グーグルストリートビューを視ると、御堂が写っていて、漆台足洗地蔵堂という名称が記されています。撮影年は2018年となっていました。



 東京外環自動車道(道路の下をトンネルでくぐっているので見えません)を越えると、このような掲示(柿の木坂湧水公園)が目に入ったので、寄って行くことにしました。

 


 行き止まりは窪地になっていて、清水が湧き出していました。それ以外は特段のことはない公園でしたが、暇人の私以外無人。

 柿ノ木坂湧水公園をあとに徒歩七分。和光市駅に戻って、また東上線に乗り、今日の小旅行の出発点(朝霞台駅)に戻りました。




 朝霞台駅から武蔵野線に沿って歩くこと九分。右手に寺院らしき建物が目に入ったので、回り込んでみると、三光院でした。

 

 真言宗智山派の寺院です。慶長十三年(1608年)の創建と伝えられています。

 

 三光院から足を延ばして三分。今日最後にお参りする東薬師堂は元禄五年(1692年)の創建とされています。「朝霞市史」には東薬師堂には池田イッケの墓地があり、本家の屋号(東)から東薬師堂と称されるようになった、と記されているのですが、池田イッケとは何者か、「東」という屋号は「ひがし」と読むのか「あずま」なのか、いろいろ当たってみたのですが、いまのところは何も解明できません。



 閉ざされた扉の上半分はガラス張りの格子窓になっていましたが、ほんの一部だけガラスが張られていませんでした。すわ、と思い、カメラのレンズを突っ込んでシャッターを押し、モニタを見たものの、残念ながら厨子の扉は閉ざされていました。



 帰りは行きに降りた武蔵野線の北朝霞から。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2022年四月の薬師詣で・戸田市~さいたま市南区

2022年04月08日 22時52分38秒 | 薬師詣で

 四月の薬師詣では埼玉県の戸田市からさいたま市南区にかけて歩きました。先々月から三か月つづけて埼玉県を歩くことになりましたが、何かを企図したわけではありません。

 私が薬師詣でに出かける時刻は概ね昼近くです。もともと乗客が尠ない時間帯である上に、コロナ禍となってからは電車はガラガラの状態がつづいていました。しかし今月は四月という、一年でもっとも人の動きが多い季節だからか、空いた座席がなくて立つ乗客がいるほどでした。
 新型コロナの感染者は増えたり減ったりしながら、趨勢としてはまた増えているらしいのに、前は空席があったとしても、隣も空いていなければ坐らなかった人が多かったのに、違う人種が出てきたのか、もし罹ったとしても、重症化するリスクは低いと高をくくっているのか、詰めて坐る人が多くなりました。
 私は左右の座席が空いているときしか坐りません。そうして注意を払っているのに、「や、空席がある」とばかりに坐ってくる輩がいます。立とうかと思いながら、大概は乗車時間がそれほど長くないこともあり、嫌がらせをしたように思われるかもしれない(思われても構わないし、そういう愚鈍な輩は感じもしないのですが)と思って、そのまま坐りつづけていますが……。

 この日も南浦和で武蔵野線から京浜東北線に乗り換えたら、ロングシートの座席が一番端から三人分空いていたので、坐りました。すると、次の蕨で乗ってきた輩が私のすぐ隣に坐りました。私が降りるのはその次だったので、立つことなくそのまま坐っていましたが……。



 西川口駅で降りましたが、川口市内は素通りするだけで、最初に訪ねるのは戸田市の正覚院です。



 西川口陸橋通りを歩いて行きます。結構交通量の多い道路です。

 

 喜沢橋で緑川を渡ります。いつごろのものか、橋の石柱には「鬼沢橋」と彫られています。「鬼」という字を嫌って別の字を当てるという例はよくあります。ここもそうなのでしょう。
 川というより排水路みたいですが、この先、菖蒲川に合流し、さらに荒川に流れて行くので、一級河川です。この川を渡ると戸田市で、歩いてきた西川口陸橋通りは喜沢通りと名を変えます。



 薬師詣での対象ではありませんが、正覚院に着きました。
 真言宗智山派の寺院で、文明二年(1470年)の創建。本尊は不動明王です。
 それほど手間取ったという実感はありませんでしたが、西川口駅で電車を降りてから、スイカにチャージをしたり、駅入口の写真を撮るのにロータリーを巡ったりしていたので、正覚院に到着するまでに二十六分も要してしまいました。事前のシミュレーションでは十九分でした。歩き始めたばかりだというのに、早くも七分もの遅れが出ています。



 正覚院から八分で薬師寺(別名・下戸田薬師堂)に着きました。武蔵東向寅薬師の第六番、今日最初の薬師詣でです。御開帳こそありませんでしたが、回向柱は五色の布で飾られ、御開帳があったか、あるいはこれからあるのか、という雰囲気です。
 地図には薬師寺とありますが、実際は集会所のような建物と地域の墓地があるだけでした。「新編武蔵風土記稿」には、直前に参拝してきた「正覚院持」と記されていますが、それ以外由緒などを記したものがありません。



 最初の薬師詣でを終えて、公団前というバス停から国際興業バスに乗ります。
 次に訪れる慈眼寺までは歩けない距離ではありませんでしたが、一昔前に較べると、脚には如実に衰えが出始めているし、ちょうどバスの便があった(といっても、一時間に二本しかないのですが)ので、無理はせずバスの厄介になりましょうと決めたのです。しかし、時刻は事前のシミュレーションからさらに大きく遅れていて、乗るつもりだったバスはとっくに走り去ってしまっていました。
 バス停に着いて時刻表を眺めると、そのバスは三分前に行ったばかりでした。次のバスがくるのは三十分後です。アリャリャ~と頭を抱え、どうしようかと周りを見回していたら、なんとこちらに向かってくるバスが見え、近づいてくるのに連れて行ったばかりのはずのバスが遅れていたとわかりました。薬師詣でを始めた早々、お薬師さんからのご褒美をいただきました。



 バスに揺られること十五分、終点の下笹目で降りました。

 

 下笹目のバス停から慈眼寺までは五分。武蔵東向寅薬師第十番札所。ここも「寺」となっていますが、あるのは薬師堂だけです。真言宗智山派の寺院ですが、「新編武蔵風土記稿」には「東光山と號す、薬師を本尊とす」と記されている以外、創建年代などに触れた記述がありません。



 少しだけ扉が開けられていて堂内を拝観することができました。厨子がみえますが、残念ながら扉は閉ざされていて御開帳はありません。



 昼下がりの住宅街を歩いています。コロナ禍にしては電車の乗客は多かったのに、街には人の姿がありません。画像右手中空に高々と聳えているのは首都高池袋線です。

 

 首都高と東京外環道が交差する美女木インターを抜けて行きます。このあたりを歩くのは初めてですが、まだ車に乗っていたころはカーラジオで聞く交通情報で、笹目橋とか美女木インターという名をいつも耳にしていたので、馴染みのある土地であるかのような錯覚が起きます。
 このインターを通り抜けて行かなくてはならないとわかったとき、高速の下を通る道路も交差になっていて、横断歩道などはなく、歩道橋を渡らなければならないのであろうと、高所恐怖症持ちの私は畏れていましたが、階段は広く緩やかで、橋のほうも広々としていた上に、遮音壁があって外界の見えない構造だったので、高所恐怖症が出る幕はありませんでした。



 ただ四月初旬にしては舌を巻くような陽射しの強さでした。
 慈眼寺から美女木薬師堂まではそれほど離れてはいないのですが、私が歩いて行く道は細い道が多かったので、スマートフォンの地図必須でした。それなのに、強い陽射しが災いして画面はまったく視えないのです。



 慈眼寺から十五分。美女木薬師堂に着きました。武蔵東向寅薬師の第九番札所です。
 途中で日陰を捜して何度も立ち止まり、スマートフォンの地図を盗み視るように視て辿り着きました。
「新編武蔵風土記稿」には「薬師堂 村民ノ持」とあるだけで、創建年代、由来などはまったくわからないようです。ここも御堂と地域の墓地があっただけ。



 美女木薬師堂をあとに、十分ほど歩いたあたりで戸田市からさいたま市に入ります。南区です。



 美女木薬師堂から八分で今日最後の目的地・東光寺に着きました。天台宗の寺院。
 先の美女木薬師堂と同じ武蔵東向寅薬師の第九番札所。なにゆえに第九番が二つあるのか、いまのところは納得できる史料に出会えていません。
「新編武蔵風土記稿」には、本尊はお釈迦様で、本堂のほかに薬師堂が「あった」というような記述がありますが、薬師巡りの札所になっていることもあり、院号が薬師如来をお祀りしていることを示す薬王院であることもあるので、賽銭箱はありませんでしたが、この御堂に薬師如来がおわすのだろうと鈴緒を揺らしてお参りを終えました。無住のお寺でした。



 御堂横に六地蔵と歴住の卵塔がありました。

 東光寺の参拝を終えて、今日のお勤めは終了です。武蔵浦和駅へ行く便がある、内谷というバス停に向かいましたが、バス停のあるあたりが見渡せるところに出ると、それらしきバスが走り去って行くのが見えました。



 時刻表を見ると、先の系統より便数は多いようですが、次のバスがくるまでに十分以上ありました。道端に「←一乗院」という標識が見えたので、時間を見図りながら行ってみることにします。



 山門の手前にあった地蔵堂。屋根の形が薬師堂を思わせます。



 なかなか壮麗な山門でした。



 一乗院本堂。真言宗智山派の寺院です。創建年代等は不詳ですが、天正年間(1593年-96年)までは荒川付近にあったものの、堤防敷設の際に現在の地に移転したと伝えられています。

 一乗院はすぐ近くだったので、参詣を終えてもバスがくるまでには時間があまっていました。
 ここでふと邪心が起きました。一つ先のバス停まで歩こうと思ったのです。先に利用した公団前から下笹目までのバスで、折角お薬師さんの恩恵を授かったというのに、この邪心が薬師詣での功徳を台無しにしてしまいました。
 逆方向へ行くバス停を目にして、そろそろバス停があるのだろう思ったとき、交差点に出くわしました。バスはここを右折して行くのではないかと薄々感じたのですが、直進しました。依然として陽射しが強く、スマートフォンが役に立たなかったことも災いしました。進んでみると、気持ち道幅が狭くなり、バスは通らないなと感じる雰囲気でした。案の定、進んでも対向するバスとは出会うことなく、バス停もなく、結局武蔵浦和の駅まで歩く羽目になったのでした。



「自転車逆走注意」という注意書きを目にして、ふと思うことがありました。
 埼玉県内を管轄する警察は埼玉県警で、さいたま市と川口市や戸田市は警察署が異なるだけで、同じ埼玉県警のはずですが、このような注意書きは川口と戸田では見なかったように思います。そういえば、二月の薬師詣ででさいたま市内を歩いたとき、この手の注意を目にして歩いていると、気のせいだったかもしれないのですが、自転車は左側通行を守っていたような気がします。
 しかるに、千葉県内では啓発活動にお目にかかったことはないし、PC(パトロールカー)の横をすれ違って行く自転車(すなわち通行区分違反です)があっても、PCは注意を喚起しようともしません。二人乗り、傘差し運転とPCが出くわす場面に遭遇したことはありませんが、そいうときでも千葉県のPCは素知らぬ顔で通り過ぎるのではないでしょうか。
 通行区分を守らないことが本当に「危険」かどうかは知りませんが、警察庁が決めたことに反することですから、交通違反ではあります。ただ自動車と較べて、取締の甘さは雲泥の差。自動車事故に較べれば危険度は低いからかもしれませんが、自転車にぶつけられて死亡! という事例がないわけではありません。死亡事故にはならなくても、被害者が老齢の人だったりすると、余生はほとんど奪われてしまうのに等しい。連れて賠償金も億という桁になります。
 普通の人にはとても払える金額ではないし、ぶつけられた人はいくらもらっても取り返しのつくものではありません。一時期自転車を買おうかと考えたことがありましたが、距離感を掴むことが段々覚束なくなってきたということを知らされて、諦めました。私が自転車で人を傷つける心配はありませんが、傷つけられる恐れはなくなりません。



 そんなことを考えながら、棒のようになった脚で武蔵浦和駅に辿り着きました。陽射しはまだまだ強い。

この日、歩いたところ(一部区間はバス利用)。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2022年三月の薬師詣で・上尾市~さいたま市見沼区

2022年03月08日 23時46分08秒 | 薬師詣で

 三月の薬師詣では埼玉県の上尾市からさいたま市の見沼区にかけて歩いてきました。



 2020年の二月以来、二度目のニューシャトル乗車です。



 乗車十二分、大宮から六つ目の原市駅で降りました。



 原市駅から歩いて七分。最初に訪ねたのは浄土宗相頓寺です。立派な鐘楼門でした。
 創建は南北朝時代の永徳二年(1382年)、開山は鎌倉光明寺の第四世だった聖満良順上人。



 相頓寺本堂。
 もう少し経った季節にくると、庭には牡丹の花が咲き乱れるようで、中には珍しい黄色をした牡丹があるそうです。



 地蔵堂。 

 次に訪れるのが今日最初の薬師詣でとなる妙厳寺です。相頓寺から八分。



 我が曹洞宗のお寺です。創建は延徳元年(1489年)。

 

 本堂への参拝を済ませたあと、歴住の墓所にお参りします。



 最後に薬師堂に参拝。薬師詣でにきているのですが、やはり本堂と歴住の墓所に参拝するのが先。

 

 妙厳寺をあとにして原市駅近くまで引き返し、十分ちょっとで寶蔵寺。醫王山という山号のとおり、ここも薬師詣で。

 このあと瓦葺掛樋跡を目指します。予定では二十五分の行程。少々歩きます。



 原市団地前を通る道路を黙々と歩いて行きます。竣工は昭和四十二年。総戸数一八五三戸という旧日本住宅公団の中規模団地です。

 この原市団地を過ぎてしばらく歩くと、「➡楞厳寺」という標識が目に入ったので、寄って行くことにしました。
 あとで気づくのですが、瓦葺掛樋跡に向かう道は途中で二股になるところがあって、そこを左に進まなければならなかったのですが、気づかず道なりに進んでしまったのでした。
 事前に経路を調べていたとき、この楞厳寺があることを知っていたら、どんな寺なのかを調べているはずです。すなわち記憶にない寺があるということは、予定では通るはずのない道を歩いていることになるのですが、不思議なことに、そういうことを不思議とも思わずに歩いていたことになります。

 

 予想しなかったような広い境内を持つ寺でした。



 予備知識がまったくなかったので、我が宗派のお寺だということは入山して初めて知りました。歴住の墓所に参拝します。



 墓域には十三仏がありました。一番手前が七七・四十九日の薬師如来。期せずして薬師詣でができました。

 

 道を間違えていた、ということに気づくのはかなり歩いたあと。
 楞厳寺に寄ったこともあって、予定二十五分のところ、寶蔵寺から一時間近くも要して瓦葺掛樋跡に到着しました。



 遠目にこの煉瓦が見えたので、なんだろうと思いながら近づいてみたら……。



 瓦葺掛樋史跡公園でした。

「見沼溜井」と呼ばれる貯水池は用水として利用されていましたが、新田として開発されることになりました。それに代わる用水を確保するために、江戸時代中期の享保十二年(1727年)から翌年にかけて、見沼代用水の開削工事が行なわれました。その見沼代用水路と綾瀬川がぶつかる瓦葺の地に、立体交差できるよう綾瀬川の上に架けられたのが瓦葺掛樋です。
 当初は長さ二十四間(約44メートル)、幅八間(約14・5メートル)で、水路の底は板敷き、左右は土堤でしたが、土堤を廃して全部板囲いにするなど改修を繰り返し、天明七年(1787年)には、長さが7メートル延長されて、二十八間(約51メートル)となり、舟運にも利用されてきました。
 現在残されている橋台・橋台翼壁・掛樋北翼壁は、明治四十一年(1908年)に煉瓦製から鉄製に改造されたものの一部だということです。

 瓦葺掛樋跡から国道16号の東大宮バイパスに沿った道に出ました。その道を歩いているうちに、上尾市からさいたま市見沼区に入りました。

 

 多聞院。
 ここは下調べのときに地図で見知っていた寺です。真言宗の寺院であり、薬師如来をお祀りしているわけでもなく、寄っていると、遠回りになるので寄らないつもりでしたが、瓦葺掛樋跡から見沼代用水東縁に沿ってつづく径は東大宮バイパスをくぐって向こう側に出ると、渡ろうとしても、横断できる道がありませんでした。ようやく渡れるところまできたのはこの多聞院近くだったというわけです。
 帰ったあと、地図を視ると、一旦バイパスをくぐったあと、再びバイパスをくぐる経路があったのですが、気がつきませんでした。



 多聞院から住宅地を抜けると、いまは作物が何もない畑地が広がっていました。


 この日、最後に訪れることになった丸ケ崎薬師堂です。



 掲示板があったので、由来が書かれているのかと近づいてみたら、歴史・文化の道と称する観光ルートの案内図でした。



 御堂の裏には石仏と、かつて寺であったのだろうと窺わせる僧侶の卵塔が一基だけありました。

 当初の計画では、このあともまだまだ歩くつもりでした。しかし、私の脚力は歳とともにいつの間にか衰えていて、次に行くつもりだった満蔵寺はシミュレーションでは二十分以上歩かねばならず、仮になんとか歩けたとしても、満蔵寺から最寄りの蓮田駅まではバス便もないので、さらに歩いて、都合一時間近くも歩かねばならないということだったので、行くのは諦めることに決しました。
 道を間違えたお陰で我が宗派の楞嚴寺に参拝することができましたが、そのせいで満蔵寺参拝は諦めなければならない。どちらがよかったのだろうと考えても、俄に答えを出すのは窮するところで、少しばかり煮え切らない思いで、踵を返すこととなりました。

 あと何回(何か月)薬師詣でに出かけられるかわかりませんが、満蔵寺に参拝するためには、蓮田駅を起点とするとしても、往復八十分近く歩くのを覚悟しなければならないので、行けないかもしれません。

 

 帰りはファミリータウン入口というバス停から国際興業バスに乗り、東大宮駅に出ました。
 東大宮から二つ目の大宮駅で反対側のプラットホームに停車していた先発の平塚行に乗り換え、浦和で京浜東北線、南浦和で武蔵野線と乗り換えて帰ってきましたが、武蔵野線を除くと、それぞれチョイと乗っただけなので、空席があってもあえて坐ることはせず、坐ったのは武蔵野線の南浦和~新松戸間の三十分弱だけでした。

この日、歩いたところ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2022年二月の薬師詣で・さいたま市浦和区~緑区

2022年02月08日 23時35分50秒 | 薬師詣で

 二月の薬師詣では二年半前の2019年十月、体調がどうにも思わしくなくなって、途中で投げ出してしまった薬師詣での延長再試合をすることにしました。

 

 浦和駅で降りて
、旧中山道を歩き、二年半前と同様旧浦和宿二七市場跡と慈恵稲荷社に寄って行きます。慈恵稲荷神社の社頭に市神様を祀る祠と市場定杭が建てられています。ここは毎月二と七の日、月に六回市が開催された場所です。

 
 

 成就院入口と薬師堂、薬師堂扁額です。二年半前はこの日とは反対の浦和駅東口に出て、前地薬師堂、岸町薬師堂と巡った跡、この成就院に参拝したところで体調が悪くなってきたので、この先の行程を諦めたのでした。



 成就院をあとにして旧中山道をさらに北上します。

 


 目印にしていた北浦和郵便局が目に入ったところで旧中仙道を離れ、成就院から歩くこと十三分、元町薬師堂に着きました。「もとまち」ではなく、「もとちょう」と読むようです。

 さいたま市を中心に武蔵東向寅薬師(通称・南側)と足立十二寅薬師(同・北側)という、合わせて二十五か所の薬師霊場があります。北と南がどのような基準で分けられたのかわかりませんが、先の成就院は南側の第二番、この元町薬師堂は北側の第五番、このあと訪ねるつもりの東泉寺は同第四番に当たります。
 本来なら順に巡るのでしょうが、私は折と交通の便を見ながら歩いているので順不同、時もまちまちです。今日予定しているところを巡り終えると、二十五か所中十六か所を巡り終えることになります。



 元町薬師堂から二十分で東泉寺に到着。天台宗の寺。創建年代等は不詳ですが、「新編武蔵風土記稿」は開山は玄性という僧侶だと伝えています。

 

 道一本挟んで向かい合わせに墓地があり、薬師堂がありました。「新編武蔵風土記稿」には「薬師は慈覚大師の作。立像一寸八分」と記されています。



 このような幟が風にはためいていましたが、今年は薬師如来の御開帳が多い寅年なのに、まだ御開帳には遭遇していません。

 東泉寺までくると、最寄り駅は浦和駅から北浦和駅に変わって、歩くと三十分近くかかります。近くを通るバスがあるかどうかわからないし、これで帰ってしまうのも味気ない。同じ歩くのなら、坊の在家の薬師堂まで行ってみようと考えました。参拝するのは二度目(2019年九月以来)になりますが、最後に参拝して帰ることにします。
 グーグルマップで視ると、徒歩二十五分ほどの距離があります。しかも直線に近い道がありません。細い径をクネクネと辿りながら進まなければならないようです。
 目指すのは西南西、時計でいうと四時の方角です。
 心の中でエイヤッと気合を入れて歩き始めましたが、道の先がどうなっているのかわからないままに進むと、向かって左のほうを目指していたはずが、いつの間にか六時方向に向かっていました。地図を手に持っていれば道が湾曲しているのはひと目でわかるはずですが、歩いていると、よほど急激な曲がり方でない限り、曲がっているという実感はありません。



 ようやく広い道路に出た、と思ったら駒場運動公園でした。スマートフォンを取り出して地図を開いて、少々方向違いを歩いていたことに気づきました。南に向かって歩いているので、北が上という地図を実際と照らし合わせるのは結構厄介なものです。誰かと待ち合わせているわけでもなし、日暮れが迫っているわけでもない。別に焦る必要はないのに、間違ったと思うと、ついつい焦ってしまいます。



 東泉寺から四十四分もかかって坊の在家薬師堂に着きました。2019年二月の薬師詣でで訪れて以来、二度目の参拝です。最初のときも鉄の門扉が閉ざされていましたが、今回も同じで入ることはできませんでした。
「薬師会館」という標記があるように、地域の集会所が付属しています。



 この日のお勤めが終わったので、このバス停から国際興業バスに乗り、武蔵野線の東浦和駅へ出て帰る手筈です。

 東浦和駅が近づくころ、バスが赤信号で停まりました。窓の外をみると、少し高い位置にお寺の御堂のようなものが見えました。
 薬師詣でとは関係がなくても、行程の途中にお寺や史跡などがあれば、大体は寄って行くのが私の決まりです。それは、どこへ行くかを決めたあと、地図を見ながら地域全体の感覚を探り、訪ねる場所の簡略な情報をインターネットなどから得ておきます。
 しかし、このお寺らしき御堂を地図で目にした、という記憶がありません。むろん御堂に関する情報は何一つインプットされていません。
 慌ててスマートフォンの電源を入れ、グーグルマップを開きました。最初に開かれた倍率では何も特別なものは見当たりません。
 バスはすでに走り出していて、御堂は視界から消えてしまっていました。指先で操作しながら、地図を拡大して行くと、「井沼方霊廟薬師堂」という表記が浮かび上がってきました。
「アリャリャ~」と自然に声が出てしまいました。東浦和駅付近を走る武蔵野線の南側には柳崎薬師堂があって、2017年十一月に東浦和駅から歩いて参拝しています。この「井沼方霊廟薬師堂」が目視できるほど近かったわけではありませんが、すぐ近くを歩いています。事前に地図を視たり、下調べしたりするのはスマートフォンのような小さな画面ではなく、パソコンですから、注意深く視ていたら気がついたはず。げんに庵に帰ったあと、パソコンで地図を開いてみたら、ちゃんと確認できました。きっと柳崎薬師堂に気をとられて見逃してしまったのでしょう。

 バスが終点の東浦和駅に着いたあと、歩いて戻ってみました。が、鉄扉はガッシリと閉ざされていて入れませんでした。

 

 庵に帰ったあと、Webで調べたら、どうやら民間の霊園業者の墓苑のようです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2022年初薬師・大田区~川崎市

2022年01月12日 23時39分16秒 | 薬師詣で

‎ 大田区の城南養護学校というところに所用ができました。最寄り駅は京浜急行の雑色(ぞうしき)。 ‎学校を訪ねて用を済ませたあと、相手とは第一京浜沿いにあるレストランに行って食事。そこで別れて、今年最初の薬師詣でを始めました。
 最初、会う日時はできれば十二日、その代わり場所は私の都合で決めてもらって構わないということでした。大田区とか世田谷区というと、私が東京都民であったころでも、檜原村よりも馴染みのないところなので、二人の中間あたり、と考えもしましたが、十二日というと、薬師如来の縁日です。私の薬師詣では主として八日の縁日を選ぶことが多いのですが、八日に都合がつかなかったり、体調が思わしくなかったりしたときは十二日に変えることもあります。
 で、大田区の地図を開いてみたら、雑色駅近くには薬師如来をお祀りする寺院が二つもあります。多摩川が近く、渡れば川崎で、近いところにさらに三つも薬師如来をお祀りする寺院があります。これだけ揃っているなら、今年の私の初薬師は八日ではなく、十二日にしようと思いました。
‎  コロナ禍が多少なりとも緩み、都道府県をまたぐ移動の自粛が解除されたこともあるので、少々の遠出 ― すなわち長時間の電車利用を伴う行程でも許されるかな、と考えられたので、場所は私の都合で、と譲ってもらったのですが、雑色まで出向くことにしました。相手が恐縮この上なかったのはむろんのことであります。

 このところ薬師詣でに出かける日を除いて電車に乗ることはありません。



 松戸、上野と乗り換えて、品川で京浜急行に乗り換えます。京浜急行に乗るのは記憶にないほど久しぶりです。お昼近くの電車、しかも京浜急行は各駅停車に乗ったので、数えるほどの乗客しかいませんでした。



 品川から二十三分。雑色で降りました。



 所要を終えたのは午後一時半。雑色駅に戻って、今年最初の薬師詣でを始めます。
 雑色駅から七分。真言宗智山派の薬王寺に着きました。



 開創の記録は残されていませんが、宥範という僧侶による開山で、延宝五年(1677年)という寂年から、その近年に開創されたものと考えられています。寺伝では、この次に訪ねる安養寺の隠居寺として建立されたと伝えられています。昭和二十年の空襲で本堂・庫裡を焼失、現本堂は昭和三十五年(1960年)に落成。‎

 

 薬王寺からまた七分で安養寺に着きました。
 上の画像に写る石塔に示されているように、別名は古川薬師。



「新編武蔵風土記稿」によると、開山は永禄十一年(1568年)寂の永伝。
薬師堂は和銅三年(715年)、行基菩薩(667年-749年)が創建したと伝えられています。
 聖武天皇の時代、光明皇后の皇子誕生に際して乳が出なかったので、諸寺に祈願をしたが、その験がありませんでした。そこで行基に訊ねたところ、ここの薬師仏の霊験は著しく、銀杏の木を奉納すれば、たちどころに成就するという奏上がありました。そこで型のとおりに銀杏の木を奉納すると、無事乳が出て、喜んだ天皇は七堂伽藍を寄進することになったという言い伝えです。
 ただ、薬師堂建立から寺の創建まで八百年以上の隔たりがあります。七堂伽藍が寄進されたので、薬師堂だけでなく、寺として成立していたはずですが、その間のことはどうなのかよくわかりません。



 安養寺から多摩川はすぐです。雪を被った富士山を望むことができましたが、薄い霞がかかっていたので、肉眼では見ることができても、ブログに取り込んだ画像では見えるかどうか。



 六郷橋(第一京浜)で多摩川を渡ります。



 橋を渡り切ると、旅館兼茶屋だった万年屋跡を示す掲示板がありました。
 東海道を行き来する旅人だけではなく、厄年の男女が川崎大師参詣の途中に多数立ち寄ったので、とくに繁昌したといわれています。名物は奈良茶飯。「東海道中膝栗毛」にも出てきます。
 歌「お江戸日本橋」にも、

♪六郷あたりで川崎の まんねんや
 鶴と亀との米まんじゆう
 こちや 神奈川いそいで保土ヶ谷へ

 と歌われています。



 万年屋跡前の道は旧東海道です。



 万年屋跡前から第一京浜をさらに進むと、真言宗智山派の真福寺。
 山門も通用門も閉じられていたので、門前で合掌し、あえてお邪魔することは避けました。
「新編武蔵風土記稿」によると、「
本尊薬師木の坐像長さ六寸許、左右に日光月光の二菩薩及十二神の像あり。各立像にて長六寸許、共に行基菩薩の作なりと云」」とあって、ここも行基作のようです。



 川崎競馬場前を通って行きます。



 真福寺から大師道を歩いて十二分、医王寺に到着。天台宗の寺院です。
「新編武蔵風土記稿」には「
開山を春光坊法印祐長とて延暦二十四年(793年)二月廿二日寂せし人なりと云。然れば宗祖傳教大師にまのあたり従ひし人なるにや。此後法燈たへず間宮豊前守信盛当所に住せし頃祈願所と定めしと云、今本堂七間に六間、本尊薬師木の坐像にて長一尺八寸許、脇士は立像にて長一尺八寸許、其余十二将神等の像あり」と記されています。

 次は今日最後に訪れる平間寺です。



 医王寺から十七分で着きましたが、最初は広い境内のどこに到着したのかまったく合点が行きませんでした。



 着いたのは偶然至真門という門前で、運のよいことに薬師殿はすぐ近くでした。

 

 薬師殿の薬師如来と薬師如来前のなで薬師。私は撫でませんでしたが、痛いところを撫でれば、平癒を祈念できるそうです。

 平間寺の建立は大治三年(1128年)。平間兼乗という武士がいて、武勇の士として名高い人でしたが、讒訴に遭って、尾張にあった領地を失い、諸国を放浪ののち、川崎に住んで漁業で身を立てていました。あるとき、海中へ網を投げ入れると、弘法大師の木像を引き揚げることになりました。兼乗はその木像を洗い清め、花を捧げて供養していましたが、ちょうど諸国を遊化していた高野山の尊賢上人という人がこの木像にまつわる話を聞き、 兼乗と力をあわせて建立、兼乗の姓をとっ名づけたのが、平間寺というわけです。



 帰りは境内を抜けて行くことにしました。八角五重塔です。



 大本堂。年明けも十二日目となると、それほどの混雑ではありませんでした。



 大山門をくぐって大師仲見世通りへ。



 川崎大師駅を目指して歩いていたつもりですが、着いてみれば、一駅遠い東門前駅でした。

この日の行程

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2021年終い薬師・千葉市

2021年12月12日 22時55分32秒 | 薬師詣で

 二か月ぶりの薬師詣でに出かけました。
 先月八日の薬師如来の縁日は数日前からの持病の発症で青息吐息の状態だったので、十二日に日延べすることにしたのですが、その十二日には多少持ち直したものの、地元の慶林寺参拝すら危うい状態……そう思っていたら、実際は天井板を一枚挟んだ私の頭上で、火事の火がボウボウという状況だったのです。
 新居を見つけることができたので、迫りつつある年の暮れは
なんとか屋根の下で過ごすことができると、とりあえずは安堵。しかし、迎えた終い薬師の八日は雨。今日十二日に仕切り直すことにして、千葉市の花見川区を歩きました。

 千葉市内のお寺を巡るのは、四年前の九月以来、二度目です。前回は西船橋まで武蔵野線、西船橋から幕張本郷まで総武線に乗り、京成幕張本郷駅から京成電車を利用して千葉寺駅まで行きましたが、帰るとき、京成電車の千葉中央駅に着いたら、たまたま新京成線直通の松戸行電車が停まっているのを目にして、「そうか、こういう経路があったのだ」と気がついていたので、今回は八柱から京成線直通の新京成電車に乗って、京成幕張本郷まで行き、そこで総武線に乗り換えます。

 

 幕張本郷の京成駅とJR駅です。



 幕張本郷の一駅先、新検見川で下車。初めて利用する駅です。
 バス乗り場は駅の真ん前……と思ったのに、さにあらず。少し歩かなければならなかったので、予定していたバスには乗れませんでした。が、今回のバス路線はこれまでの薬師詣でではよく出くわした一時間に一本、というような便数の尠ない路線でなかったのが幸いでした。



 乗車十五分、さつきが丘団地というバス停で降りました。



 今日最初の目的地・長福寺に着いたのは、バスを降りてから十七分。
 事前に立てていた計画では所要十二分で到着できる手筈でしたが、バスを降りた直後、なぜか方向感覚が完全に狂っていて、地図を視ても、どこがどこやらわからない。あたりをグルグルと見回しても、目印になりそうな施設や建物も見当たらない。目指して行く方角がやっとわかるまで、数分も要してしまったのです。
 バスを一本遅らせたことと合わせると、二十分の遅れ、ということになってしまいました。ただ、バスを利用するのはこのときだけだったので、致命傷とはならなかったのが幸いでした。
 この長福寺は真言宗豊山派の寺院ですが、いまのところは得られる史料が何もないので、由来などはわかりません。薬師如来が祀られているはずなので、本堂に参拝しましたが、賽銭箱がなかったので、お賽銭を置くこともなく辞去しました。



 長福寺を出た直後、行き止まりの径に迷い込んでしまったので、また数分のロス。やがて交通量の多い道路に出ました。千葉県道69号・長沼船橋線、通称御成街道です。



 このあたりは犢橋町。「こてはし」と読ませます。しかし「犢」の読みは「トク」だけで、「こて」という読みはありません。江戸時代からつづく古い地名のようですが、なぜこういう地名がつけられたのか、現地で懐いた私の疑問は帰ってきてからも解明されないままです。



 道路は上ったかと思えば下る、と結構起伏に富んでいます。
 


 また下り坂になったと思えば、花見川を渡るのでした。まだこの日の行程のなかばにも到っていませんが、長福寺をあとにしてから、ここまで三十分。久しぶりの遠出だったので、すでにすねのあたりに痛みが……。



 渡るのは天戸大橋。
 橋名とともに、御成街道と記されています。
 この道は慶長十八年(1613年)、徳川家康の命を承けた佐倉城主・土井利勝によってつくられたもので、船橋から東金までを、ほぼ直線で結ぶ総延長約十里(40キロ)の街道です。工事が始まったのは慶長十八年の十二月中旬、完成は翌一月初旬。ひと月足らずという短期間でつくられたことから「一夜街道」という別名もあります。徳川家康・秀忠・家光と三代にわたる将軍たちが東金方面への鷹狩りの際に利用したといわれています。



 川を渡り終えるとまた上り坂。
 行く手に「花島山正観世音」と彫られた石塔が見えてきました。道はこの石塔のあるところで十字路になっていて、右折すれば石塔が示す観音様が祀られている天福寺というお寺ですが、私は左折します。
 天福寺は歴史も古く、三十三年に一度しか開帳されない十一面観音像を祀ることで著名な寺院であるようですが、スマートフォンの地図がこの石塔のあるところから歩くと、二十分もかかると示しているので、今回は割愛しました。

 

 先の石塔があるところで御成街道をそれると、径はまた下り坂。今日二つ目の目的地・福壽
院の石段下に差しかかりました。石段を上って行くと、正面に本堂がありました。
 真言宗豊山派の寺院で、寺号は薬師寺です。創建年代等は不詳ですが、明応年間(1492年-1500年)ごろ、千葉氏の家臣・亘内蔵之丞永行という人が、千葉家七仏薬師のうちの一体を安置して創建したと伝えられています。



 本堂の前に薬師堂を思わせる屋根の御堂がありました。説明書きは何もなく、中を覗いてもよく見えないので、確信はありませんが、これが薬師堂だろうと思ったので、本堂にお賽銭をあげたあと、ここにもお賽銭。
 今日は四つの寺院に参拝しましたが、賽銭箱があったのはこの福壽院と次の真蔵院だけでした。

 

 福壽院から二十五分ほど。右手に小高い丘を望み、左手には花見川を見ながら(といっても、川面は見えません)歩いて、薬師神社という珍しい名の神社にきました。
 そろそろだな、と思ってスマートフォンを取り出し、地図を覗き込みましたが、地図上では薬師神社と私の現在地が合致しているのに、それらしき鳥居が見えません。しばらく付近を右往左往したあと、ふと見ると、地域の集会所らしき建物の奥に小さな赤い鳥居があるのが見えました。これか、と思いましたが、鉄の門がガッシリと閉じられているので、中に入ることはできません。離れたところで手を合わせて、立ち去ることにしました。グーグルマップに投稿されている画像を見ると、仮に扉が開いていたとしても、鳥居と拝殿の間にも鉄扉があるので、結局は入れなかったのでした。



 途中でこんなのを見かけたりしながら、のんびりと歩きます。



 京葉道路をくぐって進みます。



 すでに住む人もなく、取り壊される直前のようでしたが、こんな洒落た透かし塀と蔵のある屋敷もありました。



 薬師神社から二十分で真言宗豊山派寺院・真蔵院に着きました。
 創建年代等は不詳ですが、開基は大同元年(806年)と言い伝えられています。千葉常胤の三男・武石三郎胤盛が、母の菩提を弔うため、柳地蔵菩薩像を本尊として建久八年(1197年)に堂宇を建立しました。



 本堂の左が小高い丘になっていて、御堂が建てられていました。屋根の形から薬師堂かと思いましたが、浪切不動堂と呼ばれる不動堂でした。胤盛の守り本尊だった不動尊を本尊として、胤盛の曽孫・武石新左衛門尉長胤が正治元年(1259年)に建立したものです。



 瑞穂橋で再び花見川を渡って、大賀ハス通りを歩きました。
 結構通行量が多く、車道とは区切られた歩道を進んで行くうち、総武線をアンダーパスでくぐって行くことになりますが、歩道は地下通路のような階段があって、そこでストップです。上ると、車道とは別にアンダーパスがあって、上ったところは検見川神社の鳥居前でした。

 


 境内ではすでに年始を迎える準備が整っていました。



 この石段の高さに臆して元に戻れば、また行き止まりに出るだけです。女坂があるだろうと思いましたが、見当たらなかったので、手すりを頼りに、おっかなびっくり。無事下ることができました。



 この日最後に参拝した寶蔵院です。ここも真言宗豊山派の寺院。
 創建年代等は不詳ながら、宥秀法印が開祖となって、寛永五年(1628年)に開基(中興開基)したと伝えられています。「千葉縣千葉郡誌」には「薬師如来を本尊とす」とありますが、由緒は不詳です。

 すでに陽は西に傾き始めていました。
 同じ千葉県内であり、県庁所在地でもある街を歩いたのに、土地勘がないものですから、終始おっかなびっくりでありました。予想外に時間はとられましたが、幸いにして道に迷うことはありませんでした。歩き終えてみると、歩数計はこのあたりで一万六千歩を示していました。普段の散歩や買い物だと三千歩も歩けば脛のあたりや太腿が痛くなって無性に疲れているのに、知らないところを歩いたので気が張っていたのか、さほど疲労を感じることも痛みを感じることもなく歩き仰せました。これもお藥師さんのご加護です。

この日、歩いたところ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする