JAL123便墜落事故-真相を追う- 闇夜に蠢くもの(1)
事故調査委員会が報告した圧力隔壁説が、事故原因の説明として説得力のないことは明らかとなり、それに代わる説明として、自衛隊撃墜説、米軍F19撃墜説、米軍機誤爆説、etcなど様々な言説が飛び交うようになりました。米軍機誤爆説など、その中には状況をかなり上手く説明できるものもありますが、それでもまだ、充分とは言えない要素を含んでいることは、前回までに述べたとおりです。
今回からは視点を変え、事故当夜、事故現場周辺でどのような動きがあったのか、その時人々は何を見、何を聴いたのか探っていきたいと思います。なお、この現場での動きを最も正確に記述していると思われるのは、米田憲司氏が著した「御巣鷹の謎を追う」です。ここでの説明も基本的に同書の内容に基くものとなりますが、それに加えて、「情報源について」で予告したように、(新)日本の黒い霧で初めてのご報告となる、同夜現場に入った私の知人、M氏の証言を紹介いたします。
■墜落地点報告、謎の変遷
123便がレーダから消え、墜落した時刻と言われているのが8月12日の18時56分。一方、自衛隊機(陸自立川 HU1ヘリ)が同機を視認したのが、公式発表で8月13日の4時55分です。この間およそ10時間、海上ならともかく、山間部とはいえ内陸部の墜落地点の同定にどうしてこんなにも時間がかかったのでしょうか?自衛隊の言い分をまとめると
・測定に誤差は付きもの
・現場を確認しても地図に落とすのは難しい
(同書「自衛隊最高幹部の反論」より)
となっています。
ところが、自衛隊が夜が明けて最終的に墜落時点を視認する前に、自衛隊自身の観測機も含め、複数の現場地点の観測情報が寄せられています。これを簡潔にまとめた図が「御巣鷹の謎を追う」にあるので、以下にそれを引用します。
(図:計測地点(黄色)と防衛庁発表地点(ピンク):「御巣鷹の謎を追う」 米田憲司 宝島社 2005 p76 より引用)
上記地図における各計測地点(○囲いの数字、黄色)の観測機及び報告時刻は以下のとおりです。現場の第一発見者が米軍機であることにご注意ください。
①峯岡山レーダー 12日 18:56
②米軍C130H輸送機 12日 19:19
③F4E戦闘機 12日 19:21
④航空自衛隊百里基地所属V107ヘリ 12日 20:42
⑤朝日新聞取材ヘリ「ちよどり」 12日 21:06
⑥航空自衛隊入間基地所属V107ヘリ 13日 01:00
また防衛庁発表の墜落地点(ローマ数字:ピンク)と報告時刻です
Ⅰ 12日 21:56
Ⅱ 13日 02:20
Ⅲ 13日 04:39
○ 13日 04:55 ←自衛隊 HU1ヘリが機体を視認した時刻
Ⅳ 13日 05:10
図と時刻を対比させることによりはっきりわかること、それは米田氏も同書で指摘しているように、自衛隊機ならびに米軍機、報道ヘリが事故発生初期の頃にかなり正確な(3~4kmの誤差は許容範囲だそうです)位置を掴んでいたにも拘わらず、防衛庁の運輸省およびマスコミへの公式発表はそこから西側へ更に離れた地点を指していたことです。またⅢの発表でやっと墜落時点に迫ったにもかかわらず、Ⅳになると再び墜落地点からまた離れてしまう、それも現場の視認報告を受けたその後にです。
個々の測定に誤差があったとしても、複数の測定値が存在すればエリアを狭い範囲に絞っていくことは可能です。上記の図を見ても、墜落地点を中心にほぼ5kmの距離を半径とする円を描けば、各計測地点がその円内、円周上に収まることが分ります。墜落時点がわからない状態では、この手順を逆に辿れば中心点(墜落地点)が容易に特定できたことは明らかです。またM氏によれば、「日頃から遭難者の多い現地周辺にはCB無線による救助網が敷かれており、無線機を持った人員を担当箇所に登らせて無線を交わせば、夜間に炎上しているような目立つものなら訳なく見つけ出せるはず。どうしてこんなに時間がかかったのか分らない」と、計測に頼らずとも墜落地点を割り出す確実で実績のある方法があったとのことです。
米田氏は、Ⅰ~Ⅳの公式発表が、まるで自衛隊がマスコミの注意を長野側(地図の左側)に惹きつけ、意図的に墜落現場から遠ざけてるように見えると述べていますが、自衛隊がよほどの無能集団でない限り、米田氏の見立ては正しいと思います。
そして何より大事な事実は、墜落事故現場が米空軍横田管制空域内にあり(「自衛隊撃墜説を斬る(3)」を参照)、また「気になる怪説(3)」で少し触れたように、墜落地点に最も近い航空自衛隊入間基地が横田基地の管制レーダーを共用していることです。ところか、米田氏の著書で紹介された自衛隊の公式記録には、横田管制レーダーの情報は記載されていません。常識的に考えれば、墜落直後にこれらの情報、それも当時における国内最高精度のレーダー観測情報が自衛隊に入るはずなのに、いったいどうなってしまったのでしょうか?
横田管制レーダーの件では次のような状況が考えられます。
1. 自衛隊も情報を得ていたがそれを伏せた
2. 米軍が情報自体を提供しなかった
1.の場合は1983年の大韓航空軍撃墜事件でも問題になった、軍事用レーダーの性能を他国に計られないためという理由がまず考えられますが、前述した「意図的に遠ざけてるように見える」という推測と組み合わせると、この情報を別の目的、有体に言えば、墜落現場への先行部隊の派遣と何かの工作活動に使ったと考えられなくもありません。また、日米関係の現実から鑑みれば、2.のように一方的に情報を止められ可能性もありますが、そうだとしたら米軍の目的は何だったのか?多くの人命に関ることであり、単なる不作為だと考えるのもかなり不自然な話です。
自衛隊もしくは当時の防衛庁のこのような不可解な行動が、後に自衛隊撃墜説を生む大きな原因となったのは間違いないでしょう。しかし、在日米軍が事故に関する多くの情報を得ていたことは明らかなのに、公式発表において事故と米軍との関係性が非常に少なく述べられていることにも、それ以上の不可解さ感じずにはいられません。そのことが後に問題になったのか、事故から10年後の1995年、米空軍アントヌッチ中尉の証言により、当時の在日米軍の行動が明るみにされたのです。多くの疑惑本が、アントヌッチ証言を貴重な証言と捉えていますが、私はそうは思いません。10年の間にわかってきた数々の証言と公式発表の矛盾、次々と起こる疑惑の声、それらを晴らすための苦肉の策(でっちあげ)と見なすのが本当のところでしょう。
何故そう言い切れるのか?それは、アントヌッチ証言を覆すまた別の証言が存在するからです。
VESTRI AUTEM BEATI OCULI QUIA VIDENT ET AURES VESTRAE QUIA AUDIUNT
管理者
今回からは視点を変え、事故当夜、事故現場周辺でどのような動きがあったのか、その時人々は何を見、何を聴いたのか探っていきたいと思います。なお、この現場での動きを最も正確に記述していると思われるのは、米田憲司氏が著した「御巣鷹の謎を追う」です。ここでの説明も基本的に同書の内容に基くものとなりますが、それに加えて、「情報源について」で予告したように、(新)日本の黒い霧で初めてのご報告となる、同夜現場に入った私の知人、M氏の証言を紹介いたします。
■墜落地点報告、謎の変遷
123便がレーダから消え、墜落した時刻と言われているのが8月12日の18時56分。一方、自衛隊機(陸自立川 HU1ヘリ)が同機を視認したのが、公式発表で8月13日の4時55分です。この間およそ10時間、海上ならともかく、山間部とはいえ内陸部の墜落地点の同定にどうしてこんなにも時間がかかったのでしょうか?自衛隊の言い分をまとめると
・測定に誤差は付きもの
・現場を確認しても地図に落とすのは難しい
(同書「自衛隊最高幹部の反論」より)
となっています。
ところが、自衛隊が夜が明けて最終的に墜落時点を視認する前に、自衛隊自身の観測機も含め、複数の現場地点の観測情報が寄せられています。これを簡潔にまとめた図が「御巣鷹の謎を追う」にあるので、以下にそれを引用します。
(図:計測地点(黄色)と防衛庁発表地点(ピンク):「御巣鷹の謎を追う」 米田憲司 宝島社 2005 p76 より引用)
上記地図における各計測地点(○囲いの数字、黄色)の観測機及び報告時刻は以下のとおりです。現場の第一発見者が米軍機であることにご注意ください。
①峯岡山レーダー 12日 18:56
②米軍C130H輸送機 12日 19:19
③F4E戦闘機 12日 19:21
④航空自衛隊百里基地所属V107ヘリ 12日 20:42
⑤朝日新聞取材ヘリ「ちよどり」 12日 21:06
⑥航空自衛隊入間基地所属V107ヘリ 13日 01:00
また防衛庁発表の墜落地点(ローマ数字:ピンク)と報告時刻です
Ⅰ 12日 21:56
Ⅱ 13日 02:20
Ⅲ 13日 04:39
○ 13日 04:55 ←自衛隊 HU1ヘリが機体を視認した時刻
Ⅳ 13日 05:10
図と時刻を対比させることによりはっきりわかること、それは米田氏も同書で指摘しているように、自衛隊機ならびに米軍機、報道ヘリが事故発生初期の頃にかなり正確な(3~4kmの誤差は許容範囲だそうです)位置を掴んでいたにも拘わらず、防衛庁の運輸省およびマスコミへの公式発表はそこから西側へ更に離れた地点を指していたことです。またⅢの発表でやっと墜落時点に迫ったにもかかわらず、Ⅳになると再び墜落地点からまた離れてしまう、それも現場の視認報告を受けたその後にです。
個々の測定に誤差があったとしても、複数の測定値が存在すればエリアを狭い範囲に絞っていくことは可能です。上記の図を見ても、墜落地点を中心にほぼ5kmの距離を半径とする円を描けば、各計測地点がその円内、円周上に収まることが分ります。墜落時点がわからない状態では、この手順を逆に辿れば中心点(墜落地点)が容易に特定できたことは明らかです。またM氏によれば、「日頃から遭難者の多い現地周辺にはCB無線による救助網が敷かれており、無線機を持った人員を担当箇所に登らせて無線を交わせば、夜間に炎上しているような目立つものなら訳なく見つけ出せるはず。どうしてこんなに時間がかかったのか分らない」と、計測に頼らずとも墜落地点を割り出す確実で実績のある方法があったとのことです。
米田氏は、Ⅰ~Ⅳの公式発表が、まるで自衛隊がマスコミの注意を長野側(地図の左側)に惹きつけ、意図的に墜落現場から遠ざけてるように見えると述べていますが、自衛隊がよほどの無能集団でない限り、米田氏の見立ては正しいと思います。
そして何より大事な事実は、墜落事故現場が米空軍横田管制空域内にあり(「自衛隊撃墜説を斬る(3)」を参照)、また「気になる怪説(3)」で少し触れたように、墜落地点に最も近い航空自衛隊入間基地が横田基地の管制レーダーを共用していることです。ところか、米田氏の著書で紹介された自衛隊の公式記録には、横田管制レーダーの情報は記載されていません。常識的に考えれば、墜落直後にこれらの情報、それも当時における国内最高精度のレーダー観測情報が自衛隊に入るはずなのに、いったいどうなってしまったのでしょうか?
横田管制レーダーの件では次のような状況が考えられます。
1. 自衛隊も情報を得ていたがそれを伏せた
2. 米軍が情報自体を提供しなかった
1.の場合は1983年の大韓航空軍撃墜事件でも問題になった、軍事用レーダーの性能を他国に計られないためという理由がまず考えられますが、前述した「意図的に遠ざけてるように見える」という推測と組み合わせると、この情報を別の目的、有体に言えば、墜落現場への先行部隊の派遣と何かの工作活動に使ったと考えられなくもありません。また、日米関係の現実から鑑みれば、2.のように一方的に情報を止められ可能性もありますが、そうだとしたら米軍の目的は何だったのか?多くの人命に関ることであり、単なる不作為だと考えるのもかなり不自然な話です。
自衛隊もしくは当時の防衛庁のこのような不可解な行動が、後に自衛隊撃墜説を生む大きな原因となったのは間違いないでしょう。しかし、在日米軍が事故に関する多くの情報を得ていたことは明らかなのに、公式発表において事故と米軍との関係性が非常に少なく述べられていることにも、それ以上の不可解さ感じずにはいられません。そのことが後に問題になったのか、事故から10年後の1995年、米空軍アントヌッチ中尉の証言により、当時の在日米軍の行動が明るみにされたのです。多くの疑惑本が、アントヌッチ証言を貴重な証言と捉えていますが、私はそうは思いません。10年の間にわかってきた数々の証言と公式発表の矛盾、次々と起こる疑惑の声、それらを晴らすための苦肉の策(でっちあげ)と見なすのが本当のところでしょう。
何故そう言い切れるのか?それは、アントヌッチ証言を覆すまた別の証言が存在するからです。
VESTRI AUTEM BEATI OCULI QUIA VIDENT ET AURES VESTRAE QUIA AUDIUNT
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