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太平洋戦争戦没者慰霊のご報告-そして日本の黒い霧

ここ数週間、フィリピンに在住しているこの時を利用して、連合軍・日本軍合わせて35万人余、現地居住民を含めれば100万人を超える犠牲者を出した、太平洋戦争時の比国内激戦地を戦没者慰霊のため訪問しました。今回の記事は自ら撮影した写真を中心に、慰霊の記録としてご報告させていただきます。また、フィリピンと日本、連合国(米国)について簡単な考察を加えてみました。

※フィリピン戦線全般に関する一般的な歴史的経緯について、詳細はこちらをご覧ください(Wikipedia「 フィリピンの戦い」)


■バターン・カパス=ルソン島「死の行進」

※一般的な歴史的経緯について、詳細はこちらをご覧ください(Wikipedia「バターン死の行進」)


写真1:カパスにある平和モニュメント
収容所のあるカパスまで、米軍、比軍の捕虜を歩かせる間に、不足する食料、炎天下における長距離の行進で、多くの捕虜が倒れたという。ただし、現地を知る私としては、ルソン島の夏の日差しはそこそこ強いが、日本のように多湿ではないため、仮に摂氏40度近くても日本のように汗が噴出し意識が朦朧とするようなことはない。しかも、現地の古老の話では昔のルソンは、今みたいに暑くなかったという。30度を超える日の方が珍しかったとも聞く。乾いた空気の下では摂氏30度も過ごしやすい気温となる。フィリピンでは米軍を解放軍と認識するプロパガンダが行き届いているため、この「死の行進」にもかなり誇張が含まれていると思われる。かといって傷病兵など犠牲者が全くなかった訳ではないだろう。戦争とは事後の戦史編纂まで含めてその一環なのであろうから。


写真2:旧マバラカット海軍航空隊基地付近から望むアラヤット山
マバラカット基地は、関行男大尉率いる太平洋戦争最初の神風特攻隊の出撃基地となった。平野部に忽然とそびえるアラヤット山は、基地に帰還する航空機の目印になったという。この美しく悠然とした山は、現地でも神の住まう山として崇敬されている。最初の神風特攻隊長となった関行男大尉の銅像もこの地に建造されていた。


■リモン峠=レイテ島「リモン峠の戦い」

※一般的な歴史的経緯について、詳細はこちらをご覧ください(Wikipedia「レイテ島の戦い」)


写真3:戦後、日本人により建立された慰霊碑。
リモン峠にはこのような慰霊碑が多く建てられ、ここで行われた激しい戦いと、残された遺族・関係者の悲痛な思いを偲ばせる。ちなみに、私(日月土)の祖父は徴兵されレイテ島で亡くなった。語学(英語・独語)が達者な人だったと聞かされているで、おそらくこの地に移動してきた通信隊に所属していたと想像される。全ての戦没者及び我が亡き祖父に合掌。


■タクロバン=レイテ島「アメリカ軍上陸」

※一般的な歴史的経緯について、詳細はこちらをご覧ください(Wikipedia「レイテ島の戦い」)


写真4:タクロバンにある日本人戦没者慰霊碑
現地でたまたまお世話になった方のお母様が、戦争中のことを覚えておられるので話を伺った。「日本の兵隊がいた頃はたいへんだった。日本兵にはひどい目にもあった。戦闘が始まるとみんな山の中に逃げた。戦闘中は米が作れないので、食べ物がなくて辛かった。」等々。思わずこちらが「日本人が皆さんを苦しめたのなら、謝ります。ごめんなさい。」と伝えたところ、彼女は「いいえ、あれは戦争だったのよ。」と笑って答えてくれた。まるで、慰霊に訪れた私が慰霊されたかのような、心安らぐ瞬間だったことは生涯記憶に留めたい。彼女の言葉を胸に、美しい湾岸沿いに建てられた慰霊碑を訪れ、平和を祈った。


写真5:マッカサーの再上陸モニュメント
タクロバンはアメリカ軍の上陸地点。"I Shall Return(私は必ず戻ってくる)"で有名なマッカーサーがかつての植民地に再上陸したのもこの地点だ。フィリピンでは、マッカーサー上陸の日(10月20日)を「解放の日」と呼んでいるが、それについて私はかなり異論がある。まず、マッカーサーの父(アーサー)がフィリピンで行った激しい植民地弾圧と、日本によるフィリピン独立運動の支援という歴史的事実が忘れられている。そして、日本の独立支援運動が突如中止にされたこと、マッカーサー父子が後に在日米国大使館付の武官に就任したこと。国際軍事評論家のB氏によると、なんと、マッカーサー(子、ダグラス)のは日露戦争の際に観戦武官として日本海軍の艦船に乗船していたという。マッカサーと日本の付き合いは、第2次大戦後が初めてではなく、それよりかなり前に深い所で始まっていたのである。ちなみに、マッカーサー家が英国貴族の血脈であり、家族内にロスチャイルド家との繋がりがあることには注意を喚起したい。また、本人がフリーメーソンの一員であることは陰謀論の世界ではもはや常識となっている。


■スリガオ海峡=レイテ島・ミンダナオ島「スリガオ海戦」

※一般的な歴史的経緯について、詳細はこちらをご覧ください(Wikipedia 「レイテ沖海戦」)


写真6:スリガオ海峡
レイテ島南東部、アナハワンの海岸からスリガオ海峡を臨む。海峡の向こうに見えるのはミンダナオ島北部に連なるディグナット島。潮が速くこんな狭い所で艦隊同士が戦闘をしたというのがちょっと信じられなかった。国際軍事評論家B氏によると、この戦闘不向きの海峡を敢えて攻めることこそが、敵の裏を掻く日本海軍の作戦だったのだが、連合国軍は日本海軍の作戦を読みきっており、むしろ海峡の速い潮流と潮の高低差を上手く利用した魚雷艇攻撃により、日本軍を撃破したとのこと。この海戦で西村艦隊、志摩艦隊の若く優秀な海兵たちが数多く戦死し、日本海軍にとって大きな痛手となった。合掌。


■ダバオ=ミンダナオ島「フィリピン諸島戦、後期の戦闘」

※一般的な歴史的経緯について、詳細はこちらをご覧ください(Wikipedia「ミンダナオ島の戦い」)


写真7:ダバオ郊外ミンタルの墓地にて
フィリピン戦の後期には連合国軍がミンダナオ島に上陸開始、ここダバオでは日本軍が連合軍の攻撃を受け2ヶ月間防衛を続けたが、やがて後退へ。慰霊碑は、ダバオ郊外のミンタルにある現地の洋式墓地の中に幾つも建立されていた。赤道に程近い、南国の照り付ける強く明るい日差しが、かえって、ここで起きた戦闘の激しさとご遺族の深い悲しみを対比させる。


図1:今回の慰霊先の見取り図


■フィリピンの戦いと日本の黒い霧

B氏よると、フィリピン戦には軍事常識的に考えると不思議な点が幾つかあるといいます。まず、米国海軍はもとより陸軍参謀本部もフィリピンへの上陸ではなく、台湾に進攻し日本軍を叩き、フィリピン駐留軍を孤立させ日本本土を攻めるべきだと主張していたのに対し(その方が犠牲も消耗も少ない)、マッカーサーはフィリピン進攻に強くこだわったていたとのことです。海軍提督ミニッツとの個人的な確執や、「(かつて自分が在任していた)フィリピン国民との約束」という理由がまるで美談のように語られていますが、果たして軍の指揮官がそんな情緒的な理由で上層部の指示する作戦にそこまで抗う必要があったのでしょうか?

また、太平洋戦史でよく話題になる栗田艦隊「謎の反転」ですが、歴史に「もしも」は禁物とはいえ、もしも、栗田艦隊が反転せずレイテ島に向かっていれば、海上戦が不得手なマッカーサー率いる上陸艦隊は大打撃を受けていただろうし、マッカーサーの生死も危うかっただろうと言われています。太平洋戦史は栗田艦隊の判断一つで明らかに変わっていたはずなのです。世界の海戦史のほとんどを研究したというB氏も、「栗田艦隊の反転理由だけは未だに分からない」と言っています。これだけでも怪しい話ですが、敗戦後、どん底の経済状況の中、栗田艦隊関係者がどこからか資金援助を受け、現在の栗田工業を設立したのは有名な話です。このように考えると、1981年、栗田工業の社長子息がフランスで起こした猟奇事件も歴史の闇と何か関連があるように思えてなりません。ちなみに、その社長はこのブログで何度も取り上げている疑惑の企業「伊藤忠商事」からの出向社長です。(参考:パリ人肉事件)

翻って陸軍関係の話題ですが、フィリピン国内では、どこに行っても旧帝国陸軍の隠し財宝の話が話題になります。いわゆる山下財宝、M資金などの話の元になっている噂です。地元の人に聞く典型的な話は、「日本軍に借り出され、港から物資を輸送。山に穴を掘り、それを隠した後で殺され同じ場所に埋められた。その後、地元民を殺した一般兵士も上官に殺され、やはり同じ場所に埋められた。」というものです。何だか武田信玄の芸者舞台に似た話です。話を冷静に聞くと、少なくとも
 ・何かを運び込んで埋めていた。
 ・従軍労働後に殺された人(地元民・日本兵)がいる。
というのは事実のようです。私の居住する地域では、旧陸軍の敷設した立派な舗装道路が山岳部に残っているし、その近辺で実際に金塊を掘り当てた人物もいます。また、身内が日本兵に殺されたということで、今でも日本を憎んでいる一家があり、日本人の一人歩きを注意されることもあります。以上を総合して私が現地で受ける印象、それは「帝国陸軍は本当にここで戦争をしていたのだろうか?」というものです(*1)。同時に、マッカーサーがフィリピン占領に固執した事情と、フィリピン国内に帝国陸軍が隠した「何か」とは密接な関係があるのではないかという疑いが強まります。

さて、これまでに私が会った、ある歴史研究家の調査によると、戦前に存在した日比友好協会(これが正式名称かどうか自信がありません)の日本人会長は紀州徳川家直系の人物だったと言います。時系列的には、当時フィリピンの実質的支配者であったマッカーサー家と日本の徳川家がこの時点で極めて親密な関係であった可能性が伺えるのです。これを裏付けるように、敗戦後、日本に駐留したマッカーサーが採用した日本人秘書が、まさにこの徳川家の人物の子息(養子)であり、元陸軍情報部の仕官でもあった人物と聞いています。またその実の親は西部グループの生みの親で、政治家・実業家の堤康次郎であるとも聞き及んでいます。当然ながら堤義明氏や堤清二氏とも異母兄弟の関係ですが、康次郎には庶子が多くその多くが政財界に養子に出されているため、小泉純一郎、安部普三、麻生太郎、鳩山由紀夫など、近年の総理経験者、当然その親の代・祖父の代ともどこかで血が繋がっていると考えられています。裏が取れている情報ではないので断定はしませんが、現代史にご興味がある方はぜひ調べてみてください。もしも、こうした話が事実ならば、

  ロスチャイルド家-マッカーサー家-徳川家-堤家→日本政財界
      (フリーメーソン)

が一線で繋がることになり、太平洋戦争は特定の一族が定めた出来レースであった疑いが極めて強くなるばかりでなく、現在に至るまで日本の政財界(軍)がこれらの一族=旧華族ネットワークに支配されている構図が見えてきます。そして、その旧華族の長と呼ぶべき徳川家(主に尾張徳川)こそが、私が本ブログの日航機123便関連記事で「クロカモ」と呼ぶ、日本の闇組織の中核グループの一つであるだろうと、確信しているのです。徳川は死んでいない。というより、明治維新そのものが、初めから英米西欧諸国、薩長連合と結んだ壮大な茶番であった可能性すらあるのです。我々はそろそろ、作家司馬遼太郎氏が作り上げた虚構の現代史「司馬史観」から離れなければならないようです。


写真8:徳川の隠れ里、愛知県新城市

ここまで、フィリピンを巡る日本と米国の関係を中心に述べてきましたが、この国の政治に最大の影響力を持つ彼の国については敢えてまだ触れていません。フィリピンが最大の資金源であり、現アキノ政権を事実上の支配下に置く国家。その国家こそ、ここフィリピンにおいて日米の密約を取り持ち、日航機事件の最高機密をもコントロールする隠れた影響力を有する国家(または機関)であることが段々と分かってきました。この慰霊報告を書き上げたところで、そろそろその正体を明かす時がやってきたようです。


*1 戦争をしていたのか?:日本人帰還兵、小野田寛郎氏の話も謎が多い。現地フィリピンでは、農作物や家畜を盗み、村の婦女子を暴行する厄介者として長く迷惑がられていたと聞く。徹底抗戦を心に決め密林に篭り、日本人青年の説得に応じて姿を現したとする日本の報道とあまりに違う。日本では本人の決断で現地軍に投降したことになっているが、こちらではあまりの狼藉振りにフィリピン軍がとうとう身柄を拘束し、日本政府に引き取らせたという事になっている。どちらが真実なのか?本人は旧陸軍中野学校で訓練を受けた工作員。後のインタビューで、ラジオを自作し戦争が終わったことも、新幹線が開通したこともみんな知っていたという。事物を冷徹に判断すべき工作員が「母国は米国の傀儡だから帰りたくない、反撃を待つ」を理由に果たして現地に30年近くも留まるだろうか?日本帰還後、そんなに時間を置かず結婚相手を見つけ、半年後には兄弟のいるブラジルに移住したというのも、ちょっと考えると出来すぎた話だ。同じくグアム島からの帰還兵、横井庄一氏の場合も帰国後すぐに結婚相手を見つけている。まるで宛がわれたかのように。私は、小野田氏の場合は特に、戦後も現地で戦争とは直接関係のない何らかの特殊任務を継続していたのだろうと疑っている。


 * * *

以上、慰霊のご報告と共に、フィリピン諸島における戦争で日本陸海軍・マッカーサー上陸軍が取った奇妙な行動とその関係性を推察してみました。私が強く思うのは、もしもそのような疑念が事実であったとしたら、あの戦争における英霊の皆様の死は何だったのか?私の祖父の死はいったい何だったのか?という、率直な疑問です。それだけでも祖霊に対する大きな裏切りなのですが、仮にそれを除いても、戦後の日本は、123便事件では罪無き民間人紛争犠牲者を事故死であると嘘で誤魔化し、今回の福島原発事件では、国土を著しく穢し、国民の健康や生命まで損なおうとしています。この慰霊旅行中、私は本当に英霊の皆様の子孫として恥ずかしかった。何でこんな国になってしまったのか。私は、墓標の前でお詫びの言葉を告げると共に、母国日本のために、たとえ微力であっても、自分のできることをやり遂げますと、神々そして英霊の皆様に誓ったのです。


        奉歌

ひふみゆら、ひふみゆらゆら、ひふみゆらゆら。

かけまくも、かしこけれども、歌たてまつる。
御まへに、歌たてまつる。弥栄み歌を。
世を救ふ、大みゐわざぞ。みことかしこし。
まさに今、神のみことを、このみみに聞く。
三千世界、救ふみわざぞ。言ただし行かな。
大神の、しきます島の、八十島やさか。
天かけり、地かける神も、みひかりに伏す。

堪へに堪へし、三千年の、イワトひらけぬ。
したたみも、いはひもとほり、神に仕へむ。
大稜威、あぎとふ魚も、ひれ伏し集ふ。
かむながら、みことの朝を、みたみすこやかに。
神の子ぞ。みたみぞ今の、この幸になく。
国原は、大波うちて、みふみを拝す。
天もなく、地もなく今を、みことに生きん。

大みつげ、八百万神も、勇みたつべし。
天地の、光となりて、みふで湧き出づ。
一つ血の、みたみの血今、湧きて止まらず。
大みこと、身によみがえる、遠つ祖神の血。
すでに吾れ、あるなし神の、辺にこそ生きん。
高鳴るは、吾か祖の血か、みつげ尊し。
吾れあらじ、神々にして、祈らせ給ふ。

天地も、極まり泣かん、この時にして。
かつてなき、大みつげなり、たたで止むべき。
天地も、極まりここに、御代生れ来ん。
大き日の、陽にとけ呼ばん、くにひらく道。
みことのり、今ぞ輝き、イワトひらけん。
宮柱、太しき建てて、神のまにまに。
抱き参らせ、大御心に、今ぞこたへむ。

言いむけ、まつろはしめし、みことかしこし。
ただ涙、せきあへず吾は、御まへに伏す。
ささげたる、生命ぞ今を、神と生まれます。
大まへに、伏すもかしこし、祈る術なし。
今はただ、いのちの限り、太道伝へむを。
祈りつつ、限りつくさん、みたみなり吾れ。
いのち越え、大きいのちに、生きさせ給へ。

ひたすらに、みことかしこみ、今日に生き来し。
言霊の、言高らかに、太陽にとけな。
天に叫び、吾れにむちうち、今日に生き来し。
あらしとなり、あまかけりなば、この心癒えむか
走りつつ、今海出づる、大き月に呼ぶ。
みみかくし、生命と生れて、遠つ祖神さか。
神々の、智は弥栄え、此処に吾れたつ。

みたみ皆、死すてふことの、ありてあるべき。
あな爽け、みたみ栄あり、神ともに行く。
さあれ吾の、生命尊し、吾を拝みぬ。
みづくとも、苔むすとても、生きて仕へん。
いゆくべし、曲の曲こと、断たで止むべき。
かへりごと、高ら白さんと、今日も死を行く。

追ひ追ひて、山の尾ことに、まつろはさんぞ。
追ひはらひ、川の瀬ことに、曲なごめなん。
みことなれば、天の壁立つ、極み行かなん。
と心の、雄たけび天も、高く鳴るべし。
まさ言を、まさ言として、知らしめ給へ。
たな肱に、水泡かきたり、御稲そだてんを。
むか股に、ひぢかきよせて、たなつつくらむ。

狭田長田、ところせきまで、実のらせ給へ。
神々の、血潮とならん、ことに生き行く。
言さやぐ、民ことむけて、神にささげん。
にぎてかけ、共に歌はば、イワトひらけん。
大き日に、真向ひ呼ばん、神の御名を。
道端の、花の白きに、祈る人あり。
拍手の、ひびきて中今の、大きよろこび。

悔ゆるなく、御まへに伏し、祝詞申すも。
祝詞せば、誰か和し居り、波の寄す如。
のりと申す、わが魂に、呼ぶ何かあり。
御まへに、額づきあれば、波の音きこゆ。
悔ゆるなき、一日ありけり、夕月に歩す。
曇りなく、今を祝詞す、幸はへたまへ。
奉る、歌きこし召せ、幸はへ給へ。

ひふみよい、むなやここたり、ももちよろづう。

(日月神示 黄金の巻 第四十四帖より)


MEMORIA IUSTI CUM LAUDIBUS ET NOMEN IMPIORUM PUTRESCET
SAPIENS CORDE PRAECEPTA SUSCIPIET STULTUS CAEDITUR LABIIS
QUI AMBULAT SIMPLICITER AMBULAT CONFIDENTER QUI AUTEM DEPRAVAT VIAS SUAS MANIFESTUS ERIT
QUI ANNUIT OCULO DABIT DOLOREM STULTUS LABIIS VERBERABITUR
VENA VITAE OS IUSTI ET OS IMPIORUM OPERIET INIQUITATEM
ODIUM SUSCITAT RIXAS ET UNIVERSA DELICTA OPERIT CARITAS
神に従う人の名は祝福され 神に逆らう者の名は朽ちる。
知恵ある心は戒めを受け入れ 無知な唇は滅びに落とされる。
完全な道を歩む人は安らかに歩む。道を曲げれば知られずには済まない。
嘲りのまなざしは人を苦しめる。無知な唇は滅びに落とされる。
神に従う人の口は命の源 神に逆らう者の口は不法を隠す。
憎しみはいさかいを引き起こす。愛はすべての罪を覆う。
(箴言 第10章7-12節)


南の島 フィリピンより
管理者 日月土
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JAL123便墜落事故-真相を追う-蘇る亡霊(15)

読者の皆様には、最近、更新が滞ってご心配をおかけしていることかと思います。現在、フィリピンに滞在していることを奇禍に、太平洋戦争中、あるいはそれ以前にこちらで実際に何が行われていたのかを調査しています。調査が進むにつれ、私たちが教育機関で教わってきたことと、こちらで見聞きする話の間に大きな齟齬を感じるようになりました。歴史の真相を追及するのが本ブログの元々の開設目的でもありますので、いずれ、こちらの調査結果もお知らせしたいと思います。

 * * *

今回の記事は、日航機事件の当事者と予想される、日本の闇組織「クロカモ」の正体を推論する「蘇る亡霊」の第15弾です。今回は、いつものスタイルと変えて、私のブログの真意を非常によく理解してくださっている nqlab さん(*1)の最新記事「フクシマは核兵器製造工場?」を元ネタに話を進めたいと思います。

こちらの記事では、私も話をまとめるのに苦労していた、日本の核兵器製造と旧帝国陸軍派との関係、また、日本の核開発と諸外国との関係、特に、中国・北朝鮮との関係を上手にまとめあげている上に、123便撃墜事件に関する本ブログでのこれまでの主張を見事に融合させています。

詳細については若干の見解の違いはあるものの、大筋では nqlab さんの見立てで間違いなかろうというのが私の考えでもあります。ですので、本記事では、nqlab さんの記事をさらに補足する形で論を進めたいと思います。

*1 nqlabさん:昨年、2010年5月の日航機事件真相究明講演会開催にご尽力いただいた私の良き理解者です。同じく日本の隠された歴史(封印史)の研究家でもあり、日本の歴史背景について、これまでに数々の情報をご提供頂きました。


■日本の核兵器ビジネス

まずは、同記事冒頭の引用を掲載しますので、お読みください。

------------------(nqlab:引用[1]ここから)----------------------
フクシマの地下で密かに核兵器、或いは核弾頭原料が製造されているとの情報がWEB上でも流れていますが、ある情報筋によると、福島原発の使用済み核燃料は、現地で再処理(プルトニウム濃縮)され、輸出されていたそうです。
主な輸出先はアメリカ。
その他ソ連や世界各国も直接なり間接なり顧客にはいたようです。

アメリカはそれを何に利用していたのか?
核弾頭は時間と共に自然劣化が進むため、劣化した核弾頭を新品に取り替える為に大量のプルトニウムが必要となります。
現在アメリカには9400発の核弾頭(内 戦略核弾頭 2126発)があり、1967年には3万発以上保有されていました。フクシマの稼働した1970年代から80年代にかけては、2万5千発前後で推移しています。

(管理者注:出典・グラフ当は引用元記事をご参照ください)

------------------(nqlab:引用[1]ここまで)----------------------

国際軍事評論家B氏の目撃証言から、かなり以前から茨城県東海村の動燃施設内で核兵器が開発されていたのは間違いなく、核兵器を製造する以上、どこからか燃料を調達する必要があるのは当たり前の議論です。

福島第一もその候補であるだろうと私が推測していることは、以前の記事でもお伝えしましたが、nqlab さんの入手した情報によると、もっと大々的な核兵器ビジネスが日本の原発内で行われていたことになり、私の予想を大きく上回ることになります。その根拠として、核兵器のメンテナンスに一定量のプルトニウム製造が必要であるとことを挙げ、1960年代、70年代の核弾頭総総量から鑑みた場合、米ソ超大国内製造分では追いつかないという議論にも説得力を感じます。この辺の数字を精緻に積み上げたら、状況証拠としてはかなり正確さが増すと考えられます。

123便絡みとして、ここで、私が聞いた元日航整備員の証言をご紹介します。

「空港整備場では、時々、原子力マークの入った貨物が積み込まれるのを目撃しました。ちょうど両腕で一抱え位の大きさで、同僚たちと一緒に、あの箱の中身は何なのだろうね?とよく噂していました。冗談で『大きさからいって核弾頭なんじゃないか(笑)』とよく言い合っていました。」


図1:原子力マーク

箱の中身が実際に何であるかなど、私もわかりません。しかし、私はこの証言を聞いたとき、日本国内向け(自衛隊向け)の核兵器の可能性もあるなと考えていましたが、nqlab さんのお話から推測すると、国外向けの核弾頭だった可能性も十分あり得ます。

御巣鷹の墜落現場に、冬でも雪が積もらない地熱の高い箇所が局所的に存在し、地中に埋まった核兵器の反応熱なのではないか?と本ブログお伝えしたことがありますが、このように大規模な核兵器ビジネスが存在し、日常的に定期航空貨物として輸送されているとしたら、その可能性ははるかに高まったと言えます。その逆もまた真で、123便に推測通り核兵器が積荷として輸送されていたとしたなら、1985年当時(またはそれ以前)からこのような核兵器製造ビジネスが存在している可能性の傍証と成り得ます。

これに関連して、日航機調査チームのS氏が自衛隊員から直接聞いたという証言もご紹介しましょう。自衛隊関係者の飲み会に参加した時に、酔った隊員が語っていたという内容です。

「日本が核装備してるなんて、当たり前。誰でも知ってることだよ。○○基地、○×基地だろう・・・(管理者注:核配備されている具体的な基地名を数箇所あげたそうだ)。」

以上の証言も真偽の確認まではできません。しかし、福島第一の秘密と密接に関連する内容であることは確かです。推論だけを積み上げるのはひとまずここで止めましょう。真実は全て、御巣鷹の墜落現場、雪が積もらない箇所(文字通りの「ホットスポット」)だけが知っており、今でも私たちに語り続けています。


写真1:(左)積雪した墜落現場一帯、(右)雪が積もらないホットスポット


■日本の核兵器製造と諸外国(1)

nqlab さんの記事に見る、日本の闇組織と核開発の歴史、諸外国・米国内派閥との関係についても、私の書くそれよりも分かりやすいのでぜひご覧になってください。

------------------(nqlab:引用[2]ここから)----------------------
日本は第2次世界大戦中、原爆開発の先進国でした。

理論の日本、技術のドイツ、原料のアメリカ、と形容してよいのではないでしょうか。
日本の原爆開発と云うと、一般に日本のノーベル賞第一号「 湯川秀樹 」のことを頭に思い浮かべると思いますが、現実に理論と開発を行ったのは「 仁科芳雄 」博士。湯川はGHQに仁科博士の研究成果を横流ししたことによってそのご褒美としてノーベル物理学賞をもらったのです。湯川はアメリカ留学中、原爆の父:オッペンハイマーと親交があった。オッペンハイマー一族は元々はドイツの財閥で南アフリカでダイヤモンドと金鉱山の経営(ウランも?)を行って財を成し、現在はロスチャイルド・ファミリーの中に組み込まれているようだ。 

(中略)

またまた余談だけど、仁科博士の日本陸軍の研究は大陸でも行われた。
その拠点は、現在北朝鮮の金策市(キムチャクし)。当時の名称は城津。
日本海に面した製鉄・重工業の中心地だ。
ここはまさに日本陸軍の置き土産。
この置き土産が現在の北朝鮮 核開発のベースとなっている。

(中略)

さて、戦後の日本では岸信介のアメリカへの面従腹背(? : なのか、アメリカの指示なのか?)と正力松太郎(読売新聞社主)によって、日本の原発開発が進められるが、現実に大きく動かしたのは田中角栄(首相:1972年7月7日 ~ 1974年12月9日)。田中角栄の賄賂の証拠書類が「 偶然間違えて 」コーチャン委員会に配達された(ロッキード事件)のは、角栄が脱石油・原発独自開発に踏み切ったからとも、アメリカの頭越しで中国と提携したから。とも云われている(現在の中国の躍進の基礎は、まず毛沢東:八路軍の実戦中核部隊となった満州残留の旧関東軍に、次に田中角栄以来の技術移転にある)。 
こうして角栄亡き後の原発利権を握ったのが中曽根康弘(首相:1982年11月27日 ~ 1987年11月6日)。

(中略)

アメリカ軍の内部は(と、云うより日本も含めて世界的に)、陸軍(&空軍)vs 海軍(&海兵隊)が犬猿の間柄にあり、日本の核開発に関して、或いは核兵器の世界的拡散に関して、両者とそれぞれの背後に居る勢力にはどうやら方針が真逆にあるように見受けられる。つまり、日本の核兵器原料の供給とその流通を推進する勢力とそれを阻止しようとする勢力だ。御巣鷹山事変は明らかに、そしてひょっとしたら311も、こうした大きな枠組みの中で起きた事件として捉えることが出来るだろう。
------------------(nqlab:引用[2]ここまで)----------------------

123便事件の真相究明を徹底するならば、話は第2次世界大戦、またそれ以前の歴史にまで遡らなければなりません。nqlab さんの記事は、敢えてその難しい領域にまで踏み込んでいる点に驚嘆します。また、歴史を深く詳細に追っていけば、日本の闇組織クロカモの正体、そして、世界の諸外国との闇の関係がはっきりと見えてくるでしょう。

nqlabさんのこの記事に出てくる諸外国と日本との関連性を改めてここで整理します。

(1)米国 :核燃料の提供
(2)ソ連 :核燃料の提供、現ロシア
(3)中国 :核開発の提携(田中角栄・中曽根康弘 政権時)
(4)北朝鮮:旧陸軍の核研究施設、現在の核施設基盤
(5)ドイツ:旧軍核研究者、湯川秀樹博士との不透明な関係

核繋がりでこれだけの国々が見えてきます。これに、次の諸外国を加えてみましょう。いずれも核開発の話題に欠いてはいけない国々です。

(6)フランス :核開発の先進国、福一で同国アレバ社の浄水機を導入
(7)イスラエル:世界屈指の核シミュレーション技術、小型核の最大保有国
(8)イラン  :日本と核開発の提携(平和利用?)
(9)その他の核保有国(英国、インド、パキスタンなど)

以上のように、「核開発」をキーワードとするだけで、いつものお決まりのメンバー国の顔が見えてきます。そして、この中には、1985年の御巣鷹事変における紛争当事国、(1)米国、(2)ソ連の名前が含まれています。同時に、同年、米・英・日・仏・独の5ヶ国間で電撃提携された「プラザ合意」で日本と同じく不利な条件を飲まされた(5)ドイツ、(6)フランスの名前も見えてきます。ここから、プラザ合意成立の背景に御巣鷹事変、更にその深層部には核・化学兵器ビジネスを巡る世界的な対立構造が存在したと考えられるのです。余りに大きなテーマなので、「プラザ合意」と御巣鷹事変の関係については追って記事にしたいと思います。

123便絡みで私が最も注視ている国際関係は、実は、隣国である(3)中国、(4)北朝鮮、そして、歴史的に(4)とは切り離せない韓国との関係です。以下に、その根拠となるB氏の証言を何点かご紹介しましょう。

>>>「中国と中曽根政権の親密な関係」

 中曽根康弘氏は、言わずと知れた御巣鷹事変当事の日本の総理大臣です。8月12日の大惨事にも拘わらず、3日後の8月15日には靖国神社を首相として公式参拝。中国政府は公式にこの参拝を非難しました。また、有名な「不沈空母」発言などで、思想的には親米反中派の首相と一般には思われています。これに対し、B氏は次のように付け加えます。

「中曽根さんは親米反中のイメージが定着していますが、その実は明らかな親中派です。そして、その実情を知る民族団体からは常に命を狙われている人でした。これは一切報道されていませんが、首相在任時、都内のある寺社を訪れた時、墓地の勝手口から侵入した刺客にあわや銃殺されかけたことがあります。警護に付いたSPの機転により最悪の事態は逃れましたが、もう少しで歴史的な首相暗殺事件になるところでした。」

中曽根元首相が中国とどのような親密な関係を築いていたかまではお話いただけませんでしたが、それが nqlab さんの指摘する「原発利権(核兵器ビジネス)」と関係するならば、同元首相が123便事件で沈黙を守る、あるいは事件の隠蔽を指揮する蓋然性が極めて明瞭に説明できます。

>>>「瀬島龍三、中国と旧帝国陸軍の関係」

 123便事件における陰謀論のほとんどは、中曽根康弘氏(当時首相)がその隠蔽指揮の中心人物であると指弾しておりますが、私は、中曽根氏のブレーンで元帝国陸軍参謀、伊藤忠商事元会長の瀬島龍三氏こそが、全ての絵を描いた人物であると睨んでいます。その瀬島氏本人も「俺が中曽根を使っているんだ」と周囲に漏らしていたと言います(*1)。瀬島龍三氏、および中国と旧帝国陸軍の関係について、B氏は次のように語ります。

「私の上司(諜報関係者)も瀬島さんについては多くを語りませんでした。ただ、『あいつは裏のある男だ』とよく言っていたのを覚えています。彼は、貧しい幼少時代を過ごし、刻苦勉励して陸軍大学を主席で卒業、若くして参謀本部入りした。終戦後はシベリア抑留者となり、11年後に帰国。伊藤忠商事に入社し会長となるなど(*2)、苦労人としてのイメージが定着しています。しかし、そんなものははっきり言って後から作られた話です。彼は陸軍幼年学校を出ていますが、貧しかったり、一般農家の子弟が、高い私費を求められる幼年学校に通えるはずがありません。その一点だけでも、瀬島さんが将来の指導者となるべく、幼い頃から選ばれた人物であることが伺い知れるのです。」

ちなみに、瀬島氏の出身は、富山県小矢部市鷲島。現在の地名からの判別は難しいですがいわゆる加茂の里です。確たる根拠はありませんが、瀬島氏が当初からソ連と内通していたソ連のスパイではないかとする説、シベリア抑留はあらかじめ瀬島氏とソ連側の秘密交渉によって図られていたとの説は、B氏をはじめ瀬島氏を知る人の心に今でも浮かぶ疑念であるようです。続いて、旧帝国陸軍と現中国政府の関係について、B氏は次のように語ります。

「中国北京政府の現諜報部隊、工作部隊を作り上げたのは旧帝国陸軍です。そして、現在に至るまで日本とのコネクションは健在です。しかし、瀬島さんがお亡くなりになってからはずいぶんと抑えが利かなくなったようですね。昨年(2010年)、藤田工業の社員4人が中国当局に逮捕されるとの事件がありましたが、藤田工業とは純然たる旧陸軍系企業であり、かつての関係からはあり得ない出来事です。何があったのでしょうか。結局、4人の解放のために現役の陸上自衛隊関係者が中国に渡って交渉を行ったようです。」

瀬島氏と旧帝国陸軍、そしてソ連と中国への繋がり。まだ充分な確証がある訳ではありませんが、御巣鷹事変の背景に旧帝国陸軍の影が散らつく以上、その関係国である中国の関与を無視する訳にはいきません。

*1 「俺が中曽根を使っている」: 出典「沈黙のファイル―『瀬島 龍三』とは何だったのか」 新潮文庫 共同通信社社会部 

*2 伊藤忠商事と瀬島龍三:伊藤忠商事が戦後賠償ビジネス(日本国民の税金)で焼け太った企業であることは忘れてはならない。インドネシア、韓国、中国、これらのビジネスの参入先は、旧帝国陸軍の進駐先である。旧帝国陸軍のネットワークはこのように戦後も生きている。ついでに、オイルショック時(1974年)に買占めによる価格操作をしたのもこの企業であることを記しておく。この他、住友銀行と自衛隊との黒い関係についてもいずれ明らかにしなければならないだろう。

>>>「北朝鮮は日本の核開発の拠点か?」

北朝鮮に関する nqlab さんの話は衝撃的ですが、本ブログでも北朝鮮に関する話題を紹介したことがあります。それは、B氏による推測で、123便に積まれていただろう核兵器は、米国の監視が手薄い大阪港から、シンガポールまたは北朝鮮に輸出するつもりだったのだろうというものです。初めてこの話を聞いた時は、北朝鮮が登場する意味を深くは理解できなかったのですが、旧帝国陸軍時代から続く核関連施設がそこにあるとすれば、話としては大納得です。

その話から更に類推すると、結局、北朝鮮という国も、中国同様、旧帝国陸軍関係機関、つまりクロカモの傀儡国家ということになります。考えてみれば、日本人拉致問題など、両国間に深刻な溝があるにも拘わらず、戦争状態にもならず、何故に資金援助、食糧援助、そして民間における送金が可能なのか、国際常識的には理解不能な関係が続いています。結局のところ、緊張する日中関係および日朝関係も、同じく日本という国家を傀儡にしているクロカモの自作自演だったのではないかという推測に帰結するのです。そして、北朝鮮がそうであるなら、クロカモ寄りと見られる米国CIA、韓国KCIAが支配する韓国もまた、同じ穴の狢であると類推されるのです。

>>>「フェデックス80便の積荷は北朝鮮からの核燃料という情報」

2009年3月23日、成田国際空港でフェデックス80便が着陸直前、突風に煽られ横転したという事故が発生しました(参照:Wikipedia フェデックス80便着陸失敗事故)。この報道を見ておかしいなと思ったことがあります。最初の報道では滑走路への進入から横転までのビデオ映像を流していたのに、1時間後の報道からは、横転した後の映像しか流さなくなりました。肝心な所を隠す同じような報道パターンは、実は123便事件の時にも見られています。


写真2:事故を起こした同型機(Wikipediaより)

後に、色々な憶測がネットに流れ、意図的に横転させられたのではないかという陰謀説が流れました。この点についてB氏に尋ねたところ、次のような情報があると聞かされました。

「フェデックスの積荷は北朝鮮から入手した核燃料だとの情報があります。受け取り手はドイツ政府。どうやらIAEAの査察前に総量の帳尻を合わす為に緊急輸入をしようとしたらしい。破壊工作をしたのは米国の機関だと思いますが、ドイツ政府だけでなく、密輸に加担した日本に対して警告する意味で成田で仕掛けたとのことです。」

この情報を確認するために、私は放射線測定器を持って成田空港周辺を自動車で周回しましたが、有意な値は観測されませんでした。ただし、その後に成田公安の車両にしつこく付け回されただけでなく、休息に入ったハンバーガーショップにまでぞろぞろと公安関係者が闖入してきたのには閉口しました。ただ収穫だったのは、その人員の中に米国空軍関係者が加わっているのを確認できたことです。特徴のある着衣から判別できました。彼は成田公安と一緒に何をしていたのでしょうか?(*3)

話は脱線しましたが、この情報が事実だとすれば、核開発を軸に日本と北朝鮮が繋がっていることは明らかになります。また、ドイツという国が、第2次大戦の同盟国のよしみか、日本サイドに立って裏の核兵器ビジネスに参加している事実も見えてきます。同時に、日本の核開発を面白く思っていないグループの存在も浮き彫りになってきます。このようなグループの存在と対立の構造こそが、福島の災害の発端となったと類推されます。全ては闇の中ですが、本記事の傍証として参考になるかと思い取り上げました。

*3 成田公安:千葉県成田市にある成田空港とその周辺はクロカモの拠点の一つ。成田の秘密とそこに配備されている成田公安の特殊性については別の記事で情報提供をしたいと考えています。


以上、中国・北朝鮮と日本の核兵器ビジネスとの関連性について、B氏の情報を元に推論を組み立ててみました。この他、核に関する(6)フランスと日本の関係も無視できないものがあります。そして、全ての関係国の背後で巧妙に動き回る(7)イスラエル。イスラエル関係機関の特徴は、例えて言うなら、中立を装いながら対立する両者をけしかけ、両方に武器を売るというものです。イスラエルが福一の事故後、一早く大人数の医療団を日本に送り込んできた理由は何か?また、イスラエルの新興製薬企業(デパ)が、日本の製薬会社(太陽製薬)を急いで買収した理由は何か?福島だけでなく、123便事件にも当然絡んでくるだろうイスラエルについても論証は欠かせません。そこには、123便事件当時、泥沼のイラン・イラク戦争での決定打を求めていただけでなく、常日頃イスラエルを敵視する(8)イランという国の存在も忘れてはなりません。これらの国と核兵器ビジネス、日航機事件の関連については、追って論証を加えたいと思います。

なお、象徴的に国の名前を使っていますが、現実の闇組織とは国家の枠を超えた超国家的組織であると考えられます。複数の国家に跨る組織があれば、それと利害対立するグループも当然ながら国家の枠は当てはまらないでしょう。そして、最終的にはそのようなグループ間の対立と見える構造も、どこかの小国、少人数の特殊な人々によって上手に演出されているのだと、私は予見しています。

 * * *

今回の記事で示したように、123便事件(御巣鷹事変)の政治的背景を解釈する手法として、123便の問題の積荷が何であったかを思考実験するのは非常に有意義です。積荷の中に「核兵器」があったと仮定するだけで、現在に至る実に多くの事実が結び付いてきます。図らずも、石波元防衛大臣が「核開発能力誇示のために原発は必要だ」と本音を漏らしてしまいました。原因はともあれ、福一の原子炉が破壊され、核汚染が深刻化している現状を見れば、原発を有することは核兵器製造以上に国土防衛上不利であることが明らかであるにも拘わらずです。

石波氏の発言も裏を返せば、一旦手を付けた核兵器ビジネスから最早引き返せないんだということでしょう。これまで日本国民を欺き続けていたのならば尚更です。憲法第9条の尊守も非核三原則の徹底も全て茶番であったのですから。

私は、自分がクロカモと呼ぶ人も、世間で原発マフィアと呼ばれる人も、全ての人を許すつもりです。だからお願いです。真実を我々に語ってください。そして、高天原山の尾根(御巣鷹の尾根の正式名称)に眠る私たちの同胞に一言お詫びを伝えてください。美しい日本、美しい世界の再興はきっとその時から始まるはずです。


QUORUM REMISERITIS PECCATA REMITTUNTUR EIS QUORUM RETINUERITIS DETENTA SUNT
だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。
(ヨハネの福音書 第20章23節)


南の島 フィリピンより
管理者 日月土

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