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わざはひ多き今の世を思へば(2.26追記)

 わが庭のそぞろあるきも楽しからず
 わざはひ多き今の世を思へば

 昭和57年 昭和天皇


上記は陛下が何を憂いて詠んだのかわからない、謎の歌として和歌詠みに記憶されていることでしょう。この年の2月9日に日航機の羽田沖墜落事故、後に言う「逆噴射事故」が起きています。その後、昭和60年8月12日に、本ブログのメインテーマであるJAL123便日航機事故が発生し、そして世がバブル経済に浮かれたその最中とも言える昭和64年に、陛下は崩御されました。520人の犠牲者を出した上野村の現地に一度も足を運ばれることなく。

---2.26追記---
昭和57年11月には第1次中曽根内閣が誕生しています。その前年、昭和56年には中曽根内閣誕生のお膳立てとして第2次臨時行政調査会(臨調・土光会長)が発足し、後の中曽根政権下では行政改革の要として重要な役割を果たしました。臨調には、元陸軍参謀・伊藤忠会長の瀬島龍三氏が参与として参加しております。お膳立てといいましたが、中曽根政権誕生の強力な推進者として東京急行電鉄(東急)社長の五島昇氏が有名です。瀬島氏も五島氏の推薦で参与になったといわれますが、その縁は昇氏の実父であり、東條英機戦時内閣で運輸通信大臣を務めた五島慶太氏に始まることは想像に難くありません。

奇しくも、映画「沈まぬ太陽」の登場人物のモデルにもなった、中曽根康弘・瀬島龍三の両氏がこの頃に日本政界の表舞台に登場することになります。また、映画では描かれていませんでしたが、財界サイドで両氏を支えた五島ファミリーの存在も無視しえないものがあります。3氏とも旧軍繋がりである点は特筆すべきでしょう。
-----追記終-----

* * *

最近、めっきり筆が止まってしまい申し訳ありません。しかし、私たちの調査は確実に核心に迫っています。今回の記事はその中間報告として発表させていただいたものです。

賢明な読者様であれば、あれほど夥しい軍機や重火器の残骸が現地に残されていながら、どうして当事者の米軍、ソ連軍、そして日本の政府・自衛隊・警察・マスコミまでが日航機事件に沈黙し、隠蔽し続けているのか疑問に感じたことでしょう。それは、調査を続けるわれわれにすら初めは分からなかったことなのです。

しかし、政府や軍などの統治機構に最終的な実行力を与えるのは、どんな時代でも権威だったはずです。それは時に宗教であり、王家の血統であり、選挙における得票数や資本の力であったはずです。現行憲法における日本の最高権力者は内閣総理大臣ということになっていますが、もしも、それを超越するものがあるとすれば、それはいったい何であろうか?その問いが生まれた瞬間、日本人である私たちには自ずと答が見えてきます。

太平洋戦争で血塗られた昭和史は、果たして同じように血で染まって幕を閉じたのでしょうか?今後の記事をお待ちください。


返歌

かもの羽の乱れ積もりし君が庭
たかあまはらの風吹きはらわん

管理者 日月土
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