2007年12月9日のエントリー:
もうどれくらい前になるのか、工場のある新居浜に出張するためJRで本土と四国の間を行き来する時は、宇野と高松を結ぶ“宇高連絡船”に乗った。まだ瀬戸大橋が出来る前の話だ。
船に乗るとなぜか甲板上にあるうどんコーナーで、国鉄職員である船員がぬるい湯でゆがき、冷水でさらすわけでもない、そううまくもないうどんを食べるのが通例だった。今は、もうそんなことを思いだす事もなく列車は瀬戸大橋を轟々と渡っていく。
新神戸駅の下りホームから。上りホームはすぐ山が迫って布引の滝に登る登山道も見えますが・・
下りホームで。ジパング倶楽部は「のぞみ」は割引対象ではないので見送りです。
窓から桁をかいくぐって写真を撮るのはなかなか大変です。
造船所のクレーンが見えてくるともう四国側の坂出です。
共同通信
12/15(日) 21:20配信
岡山県玉野市の宇野港と高松市の高松港を結び、本州―四国間の主要な航路として利用されてきた「宇高航路」の最終便となるフェリーが15日夜、高松港を出航し、宇野港に到着した。16日以降、宇高航路は休止となり、1910年に「宇高連絡船」として運航が始まって以来、109年の歴史に幕を下ろした。
高松港では最終便の出発時刻となった午後7時50分ごろ、フェリーを運航する四国急行フェリー(高松市)の堀本隆文営業部長が最後の出航を知らせる鐘を鳴らした。集まったファンや住民らは「ありがとう」と歓声を上げ、船の姿が見えなくなるまで手を振った。
宇高航路フェリー「航路に育ててもらった」 元船長、感謝 15日最終運航 毎日新聞
高松港(高松市)と宇野港(岡山県玉野市)を結ぶ「宇高航路」のフェリーが15日を最後に運航を休止し、1910年の開通以来、初めて四国と岡山の直通航路が途絶える。運航する「四国急行フェリー」(高松市)で約20年間船長を務めた青木博さん(63)=高松市=は「航路が人生の全てだった。さみしいけれど、本当にありがとう」と、感謝の思いで胸がいっぱいだ。
【宇高航路ってどこ?】
青木さんは高松港近くで育ち、幼少期から海を行き交う客船を見るのが好きだった。中学卒業後、愛媛県波方町(現・今治市)の粟島海員学校波方分校(現・国立波方海上技術短期大学校)に進み、貨物船の乗組員を経て79年に同社に入社。93~2014年に宇高航路フェリーの船長を務めた。
開通から109年。宇高航路は戦後の復興、高度経済成長、バブル経済崩壊など時代が移りゆく中、本州と四国を結ぶ物流の大動脈としてだけでなく、通勤・通学の足としても市民生活を支えてきた。国土交通省四国運輸局によると、87年度には民間3社の船を約400万人が利用。バス、大型トラックなど約190万台の車両を運び、お盆や年末年始には親子連れでごった返した。青木さんは仲間の船員と交代で仮眠を取りながら、1日10往復する時もあったという。
55年には連絡船同士の衝突で168人が死亡する大惨事もあり、「二度と事故を起こさないよう、常に緊張感があった」と青木さん。サワラ漁の流し網に注意してかじを取り、台風が来る時には風に流されないよう必死に船の姿勢を保った。「経験に裏打ちされた勘が重要だった」と振り返る。
瀬戸大橋が開業した88年度には、航路利用客が約220万人に急減。高速道路の料金割引などもあり、利用客数は右肩下がりで、運航会社の撤退や減便が相次いだ。青木さんは「私の仕事は乗客を無事に降ろすこと。一日一日が勝負」と気を緩めず、無事故で17年に定年を迎えた。既に、フェリーは同社の1日5往復だけになっていた。そのフェリーも赤字が続き、16日から運航を休止することが11月11日に発表された。
12月初旬、青木さんがフェリーを見ようと高松港に立つと、かつて航海をともにした後輩の現役船員たちが近づいてきた。
「最後まで気を引き締めてやってくれ」
「ありがとうございます」
船員たちは笑顔で応え、出航準備に取りかかった。その背中を見つめながら、青木さんはつぶやいた。「休止は時代の流れで仕方がない。でも、自分は航路に育ててもらったんだ」【益川量平】
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