阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

庄野潤三さんが亡くなった

2022年09月19日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

2009年09月29日(火)「阿智胡地亭の非日乗」掲載

2009年9月21日、大阪出身の作家「庄野潤三」さんが亡くなった。88歳だった。日本の作家の中ではこの人と、神戸出身の「野坂昭如」さんとの付き合いは10代後半からだから長い。

 庄野潤三さんは、教師をしたあと朝日放送に転職して、間もなく東京支局に転勤し、しばらくサラリーマンと物書きの二足の草鞋を履いていた。

小田急線の生田の丘に家を造り、長女と男児二人の日常生活をその成長にあわせて書いていった小説が多い。

私は彼の、孫の全員の名前、例えば、はにかみ屋のふーちゃんの名前も知っている。 

仕事で小田原駅に下りた時は、長女(書中では金時のお夏)が結婚してすむ南足柄山へ行く、伊豆箱根鉄道の「大雄山線」の改札口でしばらくたたずんだこともある。

一族の就職、結婚、それぞれの連れ合いの係累のことなども。大阪へ父母の墓参りに来ると必ず泊まる、グランドホテルの部屋、

そしてホテルの竹葉亭の座る席が決まっていたことも知っている。それぞれの小説を読んだ時の自分の生活も含めて頭の中をいろんなことが駆け巡る。

彼の小説は「明夫と良二」を読んだのが最初だと思う。

主な作品は初版で買い揃えたが、古い本は大阪の古本屋で探してかなり揃えて持っている。

時々、どれかを枕元にもってくるといつもなんとなく心が落ち着く

 庄野潤三さん、貴方という小説家を知って私は良かったです。本当にありがとうございました。

 これからも楽しんで繰りかえし読んで行きます。

  追記 もう一人の大阪外国語学校出身の小説家である司馬遼太郎の本もよく読んできたが、庄野潤三は大阪外国語学校で司馬遼太郎の2年先輩で、

英語と蒙古語の学科の違いがあったにせよ、二人の付き合い、交流についての記事を読んだ事がない。

 戦後、大阪外国語大学になったとはいえ、学生数の少ないカレッジだから顔はお互い知っていたと思うが、なんかあったのだろうかと不思議な気がする。

なお神戸在住の華人系作家「陳瞬臣」は司馬遼太郎と大阪外国語学校同期で、お互い付き合いがあった。

これまで読んできた難波や梅田などの古本屋巡りもして集めた庄野さんの本。 残念ながら2018年2月の引っ越しに伴い断捨離した。

 

 

 


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