帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの三十六人撰 業平 (一)

2014-06-30 00:02:18 | 古典

     



                帯とけの三十六人撰



 四条大納言公任卿が自らの歌論に基づき、優れた歌人を三十六人選んで、その優れた歌を、それぞれ十首乃至三首撰んだ歌集である。公任(きんとう)は、清少納言、紫式部、和泉式部、道長らと同時代の人で、詩歌の達人である。この藤原公任の歌論を無視した近世以来の学問的な解釈と解釈方法(序詞・縁語・掛詞などという概念を含む)を棚上げしておき、平安時代の歌論と言語観に帰り、改めて学びながら、和歌を聞き直すのである。公任が「およそ、歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」ということの重要さを認識することになるだろう。



 業平 三首(一)


 世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし

 (世の中に絶えて桜花がなかったならば、春の季節の人の心は、のどかだろうに……男と女の夜の仲に、耐えて、おとこ花咲く情態がなかったならば、春の情は、のどかだろうに)



 言の戯れと言の心

「世…世間…男と女の世界…夜」「中…仲」「たえて…絶えて…耐えて」「桜…木の花…男花…おとこ花…さくら…咲くら」「ら…状態を表す」「春…季節の春…春情」「のどけし…長閑…のんびり…咲けば即散り果てるというような慌ただしさのない」「まし…(もし何々ならば何々)だろうに」

 

「歌の様」を知り「言の心」を心得る大人なら、歌の「心におかしきところ」は、誰にも直に伝わる、説明も解説も不要だろう。天下の色男に相応しい歌である。

 

近世より現代まで、すべての学問的解釈は、歌の清げな姿から一歩も出ない。「世の中に絶えて桜がなかったならば、春の人の心はのんびりしたものだろうな」、ほぼ、このように訳す。子供の発想を文にしたような、これが歌のすべてと思っている。赤人の歌ような素晴らしい実景が目に浮かぶならば、写実的風景画を見るような感動はあるだろうが、業平のこの歌を、公任が優れた歌として取り上げるのはなぜか、説明がつかない。当然、公任の歌論は軽んじられ無視される。一つの歌に三つの意味があるのが優れた歌などと言われても、理解できないだろう。貫之は業平の歌を評して「その心(歌の情)余りて、言葉足らず。萎める花の色なくて、匂ひ残れるがごとし」などというが、清げな姿しか見えないと、批評が理解できないだろう。貫之の歌論も曲解するか無視されてきた。

 

無視されてきた観点に立ち、平安時代の歌論と言語観で、古典和歌を紐解き直してみれば、顕れたのはエロスというか、煩悩というか、おどくべき事柄であった。この歌にも、おとこ花の匂いは今も残っているだろう。

 

 

群書類従』和歌部「三十六人撰 四条大納言公任卿」を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり同じではない。



 以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。


 紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得える人」は、古今の歌が恋しくなるだろうと述べた。


 歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に訊ねた。公任は
清少納言、紫式部、和泉式部、藤原道長らと同じ時代を生きた人で詩歌の達人である。優れた歌の定義を、『新撰髄脳』に次のようにまとめている。「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。一つの歌に複数の意味があるのは、歌言葉は字義の他に、「戯れの意味」や「言の心」があるからである。


 この言語観については、まず清少納言に学んだ、枕草子(第三段)に言語観を述べている。「同じ言なれども、聞き耳(によって意味の)異なるもの、法師の言葉・男の言葉・女の言葉(われわれの用いる言葉の全てが多様な意味を持っている)」。


 藤原俊成は、『古来風躰抄』に次のように述べた。歌の言葉は「浮言綺語の戯れには似たれども、言の深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」。


 貫之と公任の歌論を援用して、歌を紐解いて行けば、「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。
それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であると俊成はいう。