『ソウルボート航海記』 by 遊田玉彦(ゆうでん・たまひこ)

私たちは、どこから来てどこへゆくのか?    ゆうでん流ブログ・マガジン(エッセイ・旅行記・小説etc)

ヒロシマ帰り

2011年06月13日 21時07分49秒 | 核の無い世界へ
ゆうべ広島から帰りました。今回は神戸への出張を兼ねて、広島へは2日ほどの帰郷でした。311以降、母に顔を見せていなかったので安心させたかったこともありますが、広島へ戻って、今回の事態を考えたいと思っていました。

昼下がりに平和記念公園へ足を向け、原爆資料館をのぞきました。もう、何度も見学しているので、珍しさはありません。ただ、今回は福島の原発事故の現況を重ね合わせて、原爆資料に目を通しました。

原爆で使われたウランは800gほどでしたが、それでも10万人単位が放射能被爆しました。短時間で放射能障害が出た人だけでなく、その後、何年も経ってから白血病で亡くなった人も多かったのです。展示の中に、貞子ちゃんという幼子の被爆記録がありました。少女は10歳になって白血病で亡くなりました。彼女が病棟で折った鶴が展示されていました。

今回、貞子ちゃんの事を思い出して、福島の避難所で出会った少女と重なり、胸が苦しくなりました。ノーモア・ヒロシマが、また、繰り返された。戦争ではありませんが、同じ事です。わたしたちはもう、当事者です。あってはならないなどと他人事でものはいえません。


ドリーマー20XX年 10章(後編)

2011年06月12日 21時02分00秒 | 近未来長編小説『ドリーマー20XX年』
【あらすじ】
新宿で働く安サラリーマン、山田一雄45歳。将来の希望などさしたるものもない独身暮らし。楽しみといえば給料日に歌舞伎町のキャパクラへ行くことぐらいだった。この男がある日、奇妙な夢を見始める。白髭の老人との対話の末に、夢旅行へ誘われ、時空を超えた旅が始まる。やがて辿り着いた世界は、20XX年の新宿だった。

(右下の欄のカテゴリーで、1章から順にお読みください)
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~~~10章(後編)~~~

               ○○○

 戸山公園村への出発が二時間ほど遅れ、中央広場での配給が始まったのは午後一時を回ってからだった。村民たちは今日の配給が届くのを温和しく待っていた。もちろん吉川重則は、河口真理恵を通じて事態を掌握していた。洋介が中央広場に現れたのを見届けて、吉川がふだんと変わらない表情で近寄って来た。

「主任さん、また今日はずいぶん遅かったな」
「すみません。ちょっとした手違いがあったものですから」
「手違い? それで二時間も遅れるかい。ま、配給してもらえるんだから文句は言えねえな」吉川が豪快にカカカッと笑った。「そう、そうそう、今日は確かに暑い一日だな」

 取ってつけた挨拶で、真理恵から事情は聞いているという合図だとすぐにわかった。
「そうそう暑いですね。このぶんだと今日は涼しくなるのは日が暮れて八時くらいかな」
「そうだな八時か九時かってところか」と言ってまた笑った。
「じゃあ九時には寝るか。今日はもう疲れましたからね」

 今夜の地下会議を八時に変更してほしいと暗に伝え、吉川が九時で構わないと答えたのだ。洋介には、午前中の騒ぎに対し、区役所に戻ってまだやらねばならいことがあった。まず、香織を保護することが第一優先の課題だ。そのためには、杉山泰子が今後どういう行動に出るかを探る必要がある。戻れば緊急会議が開かれる可能性もあった。とても五時三〇分に退社できそうにはなかった。

 広場での配給が始まれば洋介にはこれといって仕事はない。配給の様子を見守りながら吉川と雑談も気楽にできた。
「ところでシゲさん、最近、顔を見てないけど姪御さんは元気ですか?」
 洋介は真理恵(葉子)の事を心配していた。特別室で杉山泰子と戦い、あれほどのエネルギーを一気に放出して平気なわけがなかった。
「おう、あの子か。まあ元気は元気だが最近の疲れがどっと出て寝てるよ。回復するにゃ当分かかるだろうな」

 命に別状はないが、やはりかなりのエネルギーを消耗しているということが理解できた。身体は真理恵だが、精神の半分は葉子なのだ。しかし、今の話だけでは真理恵と葉子の間に精神乖離が起こったのかどうかまでは判らなかった。洋介はふたりのことが心配だった。
「精神的にも相当に疲れているのかな?」
「そりゃそうさ。惚れた男にふられちまったなら女の子は落ち込むだろうな」
 吉川が意味ありげにそう答えた。

 大勢がいる広場で話せるのはここまでが限界だった。後は地下基地での会議まで待つよりなかった。場違いな話をして、周囲の者に聞かれてもまずい。村民の中に杉山の仲間の公安警察が紛れ込んでいる可能性もあるのだ。

 そう思いながら洋介が見回していると、配給に並んだ列の中に、先日の引っ越しの日に早稲田通りで出くわした男の顔があった。洋介が目を合わせると相手もそれに気づいたのか、こちらを見返し、首をかしげる様子を見せたあと、わかったという表情を返した。それからほどなくして雑炊が入った椀を手にして男が近づいて来た。

「お兄さんって、この前、引っ越しのときに会った人でしょ」親しみを込めた表情で微笑んだ。「黒砂糖うまかったな。ありがとさん」
「どうですかその後ここでの暮らしは?」
「お陰さんで餓死しないで生きてますよ。あんときは三日も何も喰ってなかったからね。俺は谷田部っていいます。今後ともよろしく」
 その谷田部と名乗る男が、隣にいる吉川のほうをちらりと見て話を続けた。
「シゲさん、この人にね、ここに来る日に偶然会ってね」と言った。
「石井主任は俺たちに親切にしてくれるから大事な仲間ってところだ。谷田部さんも彼に協力してやってくれな」
「そりゃもう何かあったらすぐ手伝うから言ってくださいよ」そう言いながら傍を離れていった。その後ろ姿を見ながら吉川が言った。
「谷田部って新入りだよ。早朝のゴミ集めも積極的にやってる。好奇心旺盛なのか何にでも首を突っ込みたがるところがあるがな」
「そうですか。まあ、よく働いてくれるならいいじゃないですか」何食わぬ調子でそう答えた。
「働きにもいろいろあるさ」斜を向いたまま、吉川がそう言った。

 吉川と洋介が立ち話をしていると、同僚の深田勝が配給トラックから戻ってきて対策本部から連絡が入ったと告げた。
「杉山さんがですね、配給が終わったら公園村を念入りに巡回してくれって。不審人物や不審物がないかを見届けてどんなことでも帰ってきてから報告するようにということです」
「報告って何をだ?」
「公園村の監視態勢を強化するんだそうですよ。本部に帰ったら緊急会議だそうです」
「じゃあ、ふたりで回るか」
 洋介はそう言って、吉川を一瞥して深田と園内パトロールに出た。

 公園村の林の中には幾つものテントが張られていて昼間でも静まりかえっている。大抵の住民は配給食料を食べた後は昼寝しているか、街中へ出ているかだ。村内を歩き回っている者の姿は殆ど見当たらない。
「不審者って言ったってねえ」と深田が無駄骨だと言いたげにして枯れ枝を蹴った。「やっぱり今日の騒動で杉山課長、頭が変になったんだな」
「杉山さんは何事もなかったと言ってたがとてもそうだとは思えないな。何か隠している気がするけど」洋介は深田に同意を求めるような口調でそう言った。
「僕もそう思うんですよ。だいたい電子ロックが壊れているってのも変ですよね。チーフが言ってたように誰かが進入して騒ぎが起こったとしか説明が付かないでしょう?」
「それはそうなんだが」洋介がいつものクセで鼻の頭を掻いて言った。「情報管理ってつまり対策本部のセキュリティ担当ってことだからな。その本人が事件ではないとハッキリ言うのをこれ以上疑うこともできないしな」

 二人が話しながら箱根山の登り口に辿り着いた。山といっても四四メートルほどの丘程度のもので、頂上へと登る階段状の遊歩道がある。今夜、九時になれば、またここへ来て吉川重則と落ち合うことになっていた。付近には地下基地へと通じる入り口があるはずだが、今の洋介にはその場所がわからなかった。

 洋介は何気ない顔を装いながらも、箱根山の周辺に注意を傾けながら歩いてみた。入り口らしき気配のする場所があるかどうか。もし、今の自分にそれがわかるようなら、むしろ問題なのだ。どんなことでも報告せよという杉山の命令が頭の中で交錯していた。このまま杉山泰子に従い体制側につけば、香織の安全も心配しないですむのかもしれない。ふと、そんなことを考えていた。

 箱根山の頂上に登り、あたりを眺めた。周囲の森が見渡せ、東京の真ん中にいることを忘れさせる景色だった。
「なあ深田。移転計画の問題だけどおまえどう思う?」
「どうかって聞かれてもそりゃもめるでしょ」
「おまえならどうする」
「どうするってどの立場で?」
「ここの住人としてなら」
「それならここに立て籠もって戦うかも」森を眺めながら深田が真剣な表情を見せた。
「俺はそんな日が来そうな予感がするんだ」洋介がそう言い、腕組みをした。「もし、仮にそうなったら深田はどっちの味方につく」
「何だかそれ戦国時代の話みたいだな。負けるとわかって山城に立て籠もって味方する武将になるか敵方に寝返るかって。歴史ドラマなら覚悟を決めた武将がカッコいいですけどね」
「おまえ今、立て籠もって戦うって言っただろ」
「それはここの住人ならって話ですよ」と深田が笑った。
「なら、俺に付いて戦うか」洋介も笑った。

 だが、それは腹の中では真剣な問い掛けなのだ。洋介より上背があり、頑丈そうな体躯の深田は立派な武将になれると思う。真理恵は武器で戦うのではなく、民衆を集めて非武装での戦いだと言ったが、局面では肉体での戦いを避けることはできない気もするのだ。現に今日、香織を守るために杉山泰子と戦うことも辞さない覚悟でいる自分がいた。真理恵(葉子)の助けがなければ、ドアを破って力ずくで阻止していたはずだった。だからこそ、自分の傍に心強い味方が欲しかった。深田勝に今、全てを打ち明け、味方になってもらいたい。洋介の心が動いていた。

「あれ、お二人さん」そう声がした方を向くと、先ほど広場で顔を合わせた谷田部が登山階段から姿を見せた。「こんなところで休憩ですか。配給とっくに終わりましたけど」
「休憩ってわけじゃ。公園内を視察していたところですよ」
「そりゃご苦労さまです。ところで主任さんにちょっと相談があるんですがね」と、にやけた顔で言った。
「何ですか相談って」
「いや相談ってわけじゃないんですがね、この公園村に変な噂があるもんで、ちょっとお伝えしといたほうがいいかなと」そうもったいを付けて話を止めた。
「噂ってどういう?」
「いや、単なる噂だからやめときましょう」と自分で切り出した話の腰を折った。「聞いても気味が悪いだろうから。そうそうまた何かうまいもん喰いたいな」

 そういうことかと洋介は理解した。この男は情報を提供するから、その見返りをくれと要求しているのだ。それならそうで男の使い道がないわけではない。洋介はそう思い、背中のリュックからクッキーの袋を取り出し、男にやった。
「ほう、さすが主任さんだ。いいもん持ってますね」
「で、その噂って?」
「いやね、幽霊が出るってんですよ。女の幽霊が夜中に森をさまよってるのを見たって。しかもね、その幽霊が美人なんだって」声を落としてしゃべっていたのが、急に話っぷりを変えた。「でもね、ありゃ幽霊なんかじゃありませんぜ。きっと歌舞伎町の売春婦くずれだろうってね。でもね、俺の考えじゃ、こんなところで商売もなにも。何か別の目的でもあるんじゃないかと読んでるんですが、まだ正体が突きとめられないんで。もちろんそれがわかったらお伝えしますよ」
 谷田部が一方的にしゃべり、したり顔を見せた。

「そうですか、そんな噂がね。公園村の管理は責任がありますから、またどんなことでも教えてください」
「ええ、もちろんですよ。いつでもお知らせしますんで」そう言った切り、さっさと階段を下りて姿を消した。
 すかさず深田が「何か調子のいい奴だな。あんな奴にクッキーもったいないな」と言って舌打ちした。
 洋介が返して言った。
「餌だよ。これからは情報が色んな意味で重要になるさ」

            ○○○

 その日、夕方五時から開かれた緊急会議には、対策本部の部課長以下、公園村担当者が全員、出席していた。いつものコの字に置かれた会議テーブルに顔を連ねているが、その中に工藤香織の顔だけがない。香織は、あの特別室の騒ぎの後、体調が悪くなり医務室で療養していた。公園村から戻った洋介が医務室に行くと、香織は点滴を打ったまま眠っていた。洋介は彼女の傍を離れたくはなかったが、会議に出席しなければならなかった。

 中央席に座った杉山泰子が開口一番で、今日の騒動を謝った。
「午前中はお騒がせして申し訳ありませんでした。調査した結果、器具の故障は電圧に問題があったことがわかりました。私のほうは何ももう問題はありませんのでご心配なく」
 そう述べた後、まずは資料映像を見てほしいと言い、室内の灯りを落としてモニター画面に写真を映した。戸山公園村の広場での配給場面や、森の中のテント村の様子などか映されたあと、航空写真による空からの公園村全体が映った。それを見せながら杉山が話し続けていた。
「現在、戸山公園村には二五一八人の住民がいます。写真でご覧のように見た限りではふつうに暮らしているようですし、今のところ大きな問題も起こっていません」
 そう言いながら次の写真を映した。

「しかし監視カメラによると夜間にはこのような映像が記録されています」
 その連続写真には森の中を歩く若い女の姿がコマ送りで映っていた。次のコマにはその女の姿が木の陰に消え、その先のコマには姿が映っていなかった。どう見ても、忽然と姿を消しているのだ。すぐに洋介は谷田部が話した女の幽霊の噂を思い出した。

「石井さん、これは何だと思いますか?」唐突に杉山がそう聞いた。
「その写真だと顔はよくわかりませんが若い女の姿のように見えますね」
「ではなぜ深夜に公園内に若い女がいるのか。どう思います?」
 戸山公園村の入所は、風紀管理のため若い女性は居住を認めてはいない。二〇歳までの独身女性は家族居住者と同じく新宿御苑村に住むことになっていた。
「私には理解できませんが想像で言えば夜中に若い女が現れたのなら売春婦ということも考えられるかもしれません」

 洋介がそう答えると、深田勝が隣で相づちを打った。
「深田さんもその意見ですか?」
「ええ、そんな噂があるみたいで」
 深田がそう答え、洋介はまずいと思った。谷田部の話は止めて置きたかったのだ。洋介が口を挟んだ。
「噂というのは幽霊が出るとかなんとか誰かねなくしているものですよ」
「そうですか。その幽霊というのは恐らくこの女のことでしょう。しかし、この最後のコマで消えているのが問題です。幽霊なら有り得ますが」杉山がそう言って、珍しく笑った。「そこで今日、お二人に見回りをお願いしたのですが何か不審な点はありませんでしたか?」
 会議テーブルの下で深田の靴を洋介が踏んで置き、すぐに答えた。
「とくに変わったことは見当たりませんでした」
「公園内の全体を回りましたか?」
「ええ、ほぼ大体は」

 そう洋介が答えると、杉山がプロジェクターのリモコンを押し、次の写真が映し出された。それは深田と一緒に洋介が箱根山へと続く遊歩道を歩いている姿だった。
「この写真に特別な意味はありません」と杉山が断り、話しを続けた。「このように要所要所に監視カメラが設置してあり、村民の行動は概ね監視しています。今のところ問題はお見せした女のものだけです」

 杉山泰子が室内の灯りを点けさせると、明るくなった室内で参加者同士の話し声がざわざわと響いた。ほとんどの職員は、監視体制について何も知らなかったのだ。
 来週、都庁へ移籍する山本対策本部長が口を開いた。
「来月から公園村移転が始まるため、都庁情報部で公園内ならびに村民の調査をおこなってきました。お見せした写真は情報部資料によるもので本部職員の皆さんにも認識していただきたいものです。それから来週から私は都庁情報部へ移籍しますが、杉山さんとも密に連携を取り管理体制を強化してまいりますのでよろしくお願いします」
 そのあと、杉山泰子が話を継いだ。
「今後も公園内の調査を進めますが何か問題点があればご報告ください。とくに石井さん深田さんは戸山公園村の担当ですから、今後は配給後に公園内を巡回して調査報告をお願いします」
 深田がそれに対し、職務外の仕事なのではないかと問い掛けた。
「調査は情報部でおこなっているのなら配給班の私たちがそこまでする必要があるんですか?」
「監視の目は少しでも多いほうがいいのです。それにお二人は村民と顔なじみだから、情報を得やすいということもあるでしょうから。そうですよね、石井さん」
 いきなり話の矛先を洋介に向けられた。
「ええ、何かわかったらお伝えします」と洋介が短く答えた。
 杉山が「ほかに何かご質問はありますか?」と言ったが、いつも率先して質問をする配給班主査の原博史も、昼間に杉山に引っ掻かれた頬を撫で、黙ったままだった。

 この会議を終え、洋介は香織がいる医務室へ向かった。ベッドで休んだ姿を見て洋介は安心した。ひょっとしてベッドにいないのではと思っていたのだ。どこかへ連れ去られ、ふたたび洗脳プログラムをされているのではないかと心配していた。

 目を閉じていた香織に声を掛けると、ゆっくり目を開けて微笑んだ。
「頭がズキズキしたりしない?」
「もう平気よ」
「そうか良かった。なら、これから一緒に帰ろう」
「帰りたいけど、今夜はここにいて安静にしろって」
「誰が指示を?」
「杉山さん」
 洋介が溜息をついた。「だってここ夜間は看護士もいないだろう? こんなところに君を置いていけないよ」
「杉山さんが看護士に夜勤を頼んでくれたわ」香織が微笑んだ。「だから洋介は心配しないで」
「香織、君は知らないんだよ」洋介の表情が硬くなり、間を置いて言った。「冷静に聞いてほしいことがあるんだ。実は杉山さんは内部調査のために潜入している公安警察なんだよ」
 すると、香織が首を小さく振って言った。
「ええ、知ってるわ」
 その言葉を聞き、洋介は一瞬、身がこわばった。
「知ってるって、いつから?」
「杉山さんが本部に移籍して私が都庁へ呼ばれてから」
「知ってること隠してたのか」
「だって、あなたが知っていること今、知ったから」
 洋介は二の句が継げなかった。洋介は頭が混乱していた。ここで何をどう問い質せばいいのかわからなかった。ベッドの横に立ったまま、呆然としている洋介に香織が言った。
「あなたは心配しないで家に帰って。あなたが知っていることは黙っておくわ」

 洋介はそれに何と答えたらいいのか解らなかった。杉山の指示に従うという香織は、もうすでにある程度はマインドコントロールされているのか。今の発言から、そうとしか思えなかった。
「香織、お腹の子ども平気だよね?」洋介がやさしい声で囁くように言った。
「ええ、明日は検査日よ」
「杉山さんは知ってるの?」
「ええ、話してあるわ」
「何か言ってた?」
「何も」
 それを聞いて、洋介に悪い予感が浮かんだが、すぐに打ち消した。脳波を刺激するプログラムが母体に影響しないはずがないのだ。胸が張り裂けそうな感情が湧き起こった。
「やっぱり香織、帰らないか」
「駄目よ。規則違反になるから」
「そんな規則、誰が作ったんだよ」
「情報部よ。私その情報部員だもの。規則に従わなければ処分されるわ。あなたもよ。夢の島に拘置されるの」
 香織がそこまで話し、静かに目を閉じた。

 洋介は一気に脱力感に襲われた。時計を見ると、七時を回っていた。
「わかった。僕も朝まで君を見守る。それならいいだろう?」
「無理しないで」と香織が目を開けて言った。「でも、必ず杉山課長の許可をもらってね」
「一度、出かけてくるから。十一時には戻るよ」
「どこへ行くの?」
「大事な約束があって」洋介は咄嗟に理由をこじつけた。「米の横流し情報を提供してくれるっていう人間に会うんだ。ほら、密造酒を飲ませる闇酒場で。杉山課長に僕も協力しなくっちゃな」
「そう、その話も課長に報告しておいて」
「もちろんだよ。じゃ、行ってくるね」
 洋介はもう、成るようにしかならないと、半ばヤケになっていた。

              ○○○

 時間がなかった。区役所の公用自転車を飛ばして戸山公園村へ一〇分余りで着き、自転車は公園村裏の路地に隠した。そこで用意してあった汚れた作業服に着替えた。顔はつばの広い帽子とマスクで隠していた。監視カメラはLED灯に取り付けられている。姿が映らない場所を選びながら、わざとびっこを引き、さらに猫背で歩いて箱根山の登り口に辿り着いた。運悪くモニターされても、ホームレス村民にしか見えない演技だった。

 登り口の裏陰に人の気配がした。それに気づかないフリをしながら、ふらふらと近寄り、「腹へったな、何か食い物ないかなあ」と独り言を吐きながら裏陰に身を潜めた。吉川重則が目くばせして、着いて来いと顎で指し示す先に周りを草で囲まれた一角に古い石地蔵があった。台座は朽ちかけたコンクリート製で、吉川が手にした小さなリモコン装置をかざすと、音もなく台座がスライドして暗い穴が現れた。吉川がその中にすっと身を入れたのに続いて洋介も同じようにして身体を滑り込ませると、瞬間で入り口は閉まっていた。吉川が暗い穴蔵にハンディライトを照らすと、細い階段が地下へと続いていた。

 前に地下へ降りたときと同じくらいの深さを感じ、地面に足を着けると、古いレンガで組まれた地下トンネルだった。ライトを持った吉川の後ろに着いてトンネルを三〇メートルほど歩いた先に錆びた鉄製の扉があった。握り拳ほどの頑丈そうな古い鍵が掛けられていたが、リモコン装置をかざして扉を押すと留め金がギイギイと鳴って開いた。その奥は、やはり古レンガで組まれた広い空間で、そこでやっと吉川が口を開いた。

「ここは旧陸軍の地下基地跡だ。東京の地下にはこんな場所がいくつもある」吉川の低い声がレンガの壁に響いた。「ここまでくれば、もう電波も届かないだろう」
「携帯電話は置いてきましたから心配はないと思いますが」
「携帯のGPS追跡だけじゃない。君の身体にマイクロチップは埋め込まれていないだろうが、その前段階に来ているから用心に越したことはない。ゼロゼロKY、君が想像しているよりももっと情報管理がおこなわれているんだよ」
「ええ、公園内の監視カメラも思った以上に細部が撮影されているのを会議で知りましたから」
「都庁情報部は国家安全保障局情報管理部の直轄で動いていて、丹念な調査をおこなっているよ。さすがに我々がドリーマーだということまでは知らないだろうが、秘密裏に行動しているということはある程度は察知しているはずだ」
「香織も情報部員にされる直前なんですよ。どうすればいいか指示をください」
「さあ、奥へ入ろう」
 そう言って吉川が右奥のレンガの壁に近づき、携帯モバイルをかざしてそのまま壁を押すと、ドア一枚分の壁が奥へと引っ込み、横へスライドした。また、その奥にスチール製のドアがあり、電子ロックのボタンを押して、やっと地下本部の部屋に入ることができた。

 会議室へ入り、今日の事態の対策を練ることになった。会議室には、河口真理恵を除く十一人のメンバーが顔を揃えて二人を待っていた。
「まず、石井君から状況説明をしてもらいたい」と吉川が言った。「大筋の流れから頼む。細部についてはそのあとでいい」
「はい。今朝、配給出発前に河口真理恵さんと顔を合わせたあと地下倉庫で前川正太郎と会いました。その後すぐに報告会議があり人事異動が伝えられました。山本本部長と工藤補佐が都庁へ移籍になり、前川が本部長、杉山が課長になるとのことです。この会議のあと杉山から別室に呼ばれました。部屋には工藤香織がおり、私との関係についての話でした。工藤は都庁の情報部員となるため私との接触が規制されると言われました。その後、工藤は特別室で適正プログラムを受けるということでした」
 そこまでを話し、洋介がテーブルに置かれた水を飲んだ。

「その先を続けてくれたまえ」と吉川が促した。
「私は工藤香織の危険を感じ、河口さんに暗号で調理仕上がり時間を延長してくれと指示しました。すぐに八階特別室へ行き中の様子を探ろうとしましたが鍵が掛かっていて入られませんでした。そのとき、河口さんのドリーマー、立花葉子の声が聞こえました。代わりに中へ入って阻止してくれるということでした。私も立花さんの意識にフォーカスして内部の様子を見ました。寸でのところで立花さんが阻止しました。杉山が卒倒したので前川本部長へ連絡し、米の横流しの話で誘導して特別室へ行かせました。いえ、その前に私が一度、特別室へ侵入して工藤に何も知らないフリをして寝たままでいるよう指示しました。それから前川を誘導したのです。事態が発覚して職員らで駆けつけて杉山を起こしましたが、彼女は部屋であったことのすべてを否定して単なる機器の故障として処理しました。その後、配給へ出かけました」

「それから?」と、また吉川が促した。
「私は立花さんの状態を心配しました。本当に大丈夫なんですか?」
「心配しなくていい。それはあとで話すよ」吉川が手短に答えた。
「公園村から対策本部へ戻ると、すぐに杉山が招集した緊急会議がありました。公園村監視体制についてのものです。そこで監視カメラの映像が見せられ、深夜に森を歩く女の姿が映りました。意見を求められましたが売春婦ではないかと答えました。しかし、その写真の数コマの最後で女の姿が忽然と消えており、杉山が幽霊なら有り得ると冗談めいて言いました。これからは公園内の監視を強化するということでした。それから私と深田勝に毎回の監視パトロールを義務付けました」
「その話だが一点抜けていないか?」と吉川が言った。
「あ、そうでした。公園村を監視パトロールしているときに箱根山で谷田部が現れました。女の幽霊が出るという噂があると話ました。ただ、谷田部はその女は何かの目的があって公園内に入っていると言っていました。まるで自分は情報屋気取りでいるみたいでしたよ」
 吉川が表情を変えずに「あの男は情報屋だよ」と言った。「まだ、正体不明だが公安警察かほかの組織の者の可能性がある。調査中だ」
「そうですか。単に欲で動いている男にしか」
「プロはそういうものだよ。で、そのあとは?」

 洋介がまた一杯、水を飲んで話した。
「あとは医務室の香織、いえ工藤を見舞いました。体調は回復しているようでしたが今夜は医務室に泊まると言いました。杉山の指示とのことで私は彼女が心配でしたから帰るように言いました。それでも残るというものですから、つい杉山が公安警察だということを話してしまいました」
 吉川から批難されると洋介は覚悟したが、「そうか」とだけ言った。「それから何か話したか」
「工藤は知っていると言いました。私が知っているということは内密にすると言いました。さらに彼女は自分が情報部員だといい、規則に反すればつまり私が彼女の立場や情報を知っていることなども含めて容疑を掛けられれば二人とも夢の島特別区に投獄されると言いました。私はまた医務室へ戻ると約束してここへ向かいました。概ねの流れは以上です」

「わかった。今の話で幾つか検討しなければならないポイントがあるな」吉川がそう言って、ホワイトボードにキーワードを書き込みだした。
●八階特別室での立花葉子の行動 ●公園村監視体制 ●女の映像と谷田部の関係 ●情報部員工藤香織 
「まず立花の件だがこれは内部問題だから石井君にあとで話そう。公園村監視体制を強化するということは常駐警備員を園内に配置される可能性がある。そうなれば地下本部の出入りがさらに難しくなる。至急、対策を打たなければならない。この件については別に会議を開く」
 高野隆が挙手をして、「この会議に継いですぐのほうがいいと思います」と口早に言った。

「そうしよう。石井君は何時までここに居られる?」
「外出許可証は持っているので一〇時半までは大丈夫です」
「そうか、では残った者で会議をしよう。次は幽霊の件だ。噂があると谷田部が言ったんだな」
「ええ、幽霊には何かの目的があるとも。幽霊の正体は、真理恵さんでしょう?」洋介は黙っていた思惑を口にした。
「違うよ。真理恵は監視カメラに映るような行動は取らない」
「では、誰なんですか」
「幽霊だよ」
「まさか」
「立花葉子といえば納得がいくかね?」
 吉川にそう言われ、話の焦点が合った。霊体で彼女が動き回っているというのか。
「でも、なぜ?」
「その話はあとでしよう。問題は谷田部が先に言ったことだ。幽霊ではなく女の目的をもった行動だと。それから杉山が問題視している点だ。会議では何と言っていたんだ?」吉川が洋介を見た。
「消えているのが問題だと。幽霊なら有り得るという言い方をしました」
「つまり女の正体は幽霊などではなくどこかに消えたことを疑っているということだ。公安警察ならどう類推すると思う? 木の上か、地下だよ」

 そう言われて洋介も気づいた。「それは拙いです」地下に隠れ家があると勘ぐられ、調べられたら本部が発覚する恐れがある。
「出入り口の対策についてはあとで検討するとして、石井君に動いてもらいたいのは幽霊の噂に関してだ。谷田部の正体はわからんが、あの男を使ってもいいからもっと村民に噂を広めてくれ。それから対策本部内、区役所全体へもだ。だが直接、杉山にはしゃべらないでおくこと。あくまでも噂だが村民は怖がっていると流言されれば、それが事実として受け入れられることになる。人間は結構、単純なものなのだ。いいかね、石井君」
「はい。そのようにします」
「では最後に工藤情報部員についてだが」吉川が溜息をついた。「君にとって最も悩む問題だな」
「もちろんです!」洋介の形相が崩れた。「医務室での様子ではもうかなりマインドコントロールが進んでいると思われました。一刻も早く救出させてください」
「いや、まだ出来ない」吉川がきっぱり言った。
「なぜですか」
「いま動けば君のことが真っ先に疑われる。そうなると今後の活動が不可能になるだろう。投獄され、そうなればゼロゼロKYはお終いだ」
「では、いつなら助けられるのですか」
「都庁情報部へ移籍してからだ」
「待てません。彼女のお腹には」
「わかっているよ。だが作戦行動に私情は禁物だ」

 作戦会議室のドアが開き、河口真理恵が入って来た。
「ボス、提案があります」
「まだ動いては駄目だ」
「いえ、もうかなり回復しましたから大丈夫です」真理恵はそう言ったが、顔色は青ざめ、立っているのが精一杯のようだった。
「では、その提案だけ聞こう。話したらすぐにベッドに戻るように」
「はい。そうします」真理恵が空いた席に座り、ゆっくり話し出した。「私が香織さんに接触して救出します。私なら調理室を辞めさせられるだけですから。もう前川からの情報も必要性がなくなっています」
「だが、どうやって?」
「理由は女どうしの同情です。お腹の赤ちゃんが可哀想だから助けたいと。香織さんは断るでしょうが私が無理矢理に連れて逃げるといった状況にして。薬を使って拉致してでも。決行させてください」
 真理恵が息を継ぎながらそこまでを話し終えた。吉川は腕を組んで考え、その提案に回答した。
「いまのところ救出作戦としては最も可能な手と思う。だが、いまの君の状態では無理だ。気持ちはわかるが許可できない」

 真理恵の横に座っている野川典子が心配そうな目で彼女を見て言った。
「河口さん、あなた自分の身体のとこを気遣うときよ。いま無理をしたら元に戻れなくなるわ」
「そうだ真理恵」と吉川が言った。「移転計画が実行される直前で何が最優先されるのかだ。君は回復を待って正常な心身で復帰することだ。さあベッドに戻りなさい」
「真理恵さんありがとう」洋介が腕を取って言った。「あなたの気持ちは受け取ったから、ゆっくり静養してください」

 真理恵が部屋を出たあと、吉川が言った。
「石井君ここは正念場だ。我々には大勢の日本人の命が掛かっているということを忘れないでほしい。いいか、まだ話すつもりはなかったが事態が急変しているからな」吉川が言葉を句切り、「夢の島移転計画とは今後の都民の振り分け作業のことだ。下級民Cまでが生き残れることになる。後は、つまりホロコーストだ」
「ホロコースト?」洋介は口を開けたまま、吉川の話を聞いていた。
「人口コントロールということだ。また、その事実を知った下級民Cはヒツジのように温和しくなる。彼らは今後の世界統一政府が統治する日本区の労働民となるんだよ」
「もう、今の時点でそこまで把握されていたんですか」
「そうだゼロゼロKY。君が観た未来をわれわれも観ている」
「そうなんですか! もっと知りたいことが」
「わかっている。段階を追って教えていくから焦らないことだ」
「ええ。ただ香織を何とかしないと」
「香織さんは必ず救出すると約束する。今夜はもう時間がない。君は帰って彼女の傍にいてあげなさい」
 洋介は無言のまま、ゆっくりと頭を下げた。その目には今にも溢れそうな涙が溜まっていた。

(11章へ つづく)


ドリーマー20XX年 10章(前編)

2011年06月10日 09時06分27秒 | 近未来長編小説『ドリーマー20XX年』
【あらすじ】
新宿で働く安サラリーマン、山田一雄45歳。将来の希望などさしたるものもない独身暮らし。楽しみといえば給料日に歌舞伎町のキャパクラへ行くことぐらいだった。この男がある日、奇妙な夢を見始める。白髭の老人との対話の末に、夢旅行へ誘われ、時空を超えた旅が始まる。やがて辿り着いた世界は、20XX年の新宿だった。

(右下の欄のカテゴリーで、1章から順にお読みください)
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~~10(前編)~~


 戸山公園村から戻り、マンションの部屋で香織の帰りを待っていた。二人掛けの食卓テーブルに座り、二杯目のお茶を飲んでいるとドアの鍵を開ける音がした。時計を見ると六時一五分だった。メールにあったように香織は早めに退社できたようだった。この一週間、ほとんどまともな時間に帰宅できていなかった。

「おかえり。大変だったろう。お茶飲む?」
「本当に忙しくなるのは来週からよ」香織が椅子にバッグを置き、大きく溜息をついた。「はい、おみやげよ。珈琲とクッキー」
 バッグを開き、ビニール袋に入った粉状のインスタント珈琲とクッキーを取り出して、洋介の手に渡した。

「珍しいね。それ闇市で相当な値がするだろう」
「都庁でもらったの。いただきましょ」
「あるとこにはあるんだな」洋介がいいながらひとつ摘んで口に入れ、顔をほころばせた。
「これが会議のテーマになったの。そのサンプルよ。ほかにはお酒や煙草もあるわ」
「どういうこと?」
「例の移転計画の景品って言えばいいかしら」
「何だよ、それ」
「ただ移れって言ってもね。着替えてから話すから」そう言って香織が寝室に入って行った。
 洋介にもおおよその見当が付いていた。配給品目にそうした嗜好品を加えるということなのだろう。珈琲や酒、タバコに誘惑される住民は多いはずだ。

 香織がトレーナー姿になって椅子に座った。洋介は話を急ぎたかったが平静を装って言った。
「これを配給品に加えるってこと?」
「全員に配るほどの量はないわ。最初だけ。でも配給するって言えば村民も心が動くでしょ」
「そりゃこんな嗜好品なら。でもさ珈琲や酒タバコを配ってもすぐに配給が止まるなら酷ってもんだな。長いこと飲んでないのがいったん口にしたらまた欲しくなる」
「だから珈琲タバコなの」
「戦争中もこういうの統制品って言ったんだろう。兵隊なんか菊のご紋が入った煙草をもらってさ」
「そういう発想と同じかも。移転に協力的な人には配られることになるわ。」
「つまりは飴と鞭政策か。何だか強制収容所のようだな」洋介が冗談めかして言った。

「政策の意味は同じものよ」香織の眼差しが険しいものに変わっていた。「夢の島へ行ったらいろいろルールが与えられることになるわ」
「ルールって。たとえばどんな?」
「それはまだ・・・」香織の顔が曇った。「その中身は言えないことになってるの」
「僕にも話せないものなのかい?」
「でも、これはとても微妙な問題を抱えていて。洋介を信じてないわけじゃもちろんないけどもし部外に漏れたら大変な問題になるから」
「何だか納得がいかないな。僕は絶対に話したりしないよ」
「ええ、わかってるわ。私も思わせ振りな言い方するんじゃなかった」
「そこまで聞かされてそうなので済ませられないよな」
「いい、大まかに話すわね。移転先ではもう自由に外出できなくなるの。生活が統制されることになるわ。だから収容所という意味は間違いではないのよ。いい、この話は絶対に口外しないでね。職場の仲間であっても絶対によ。もし情報の漏れ口が判明したら、私も洋介も首どころじゃ済まなくなるから」
「どうなるっていうの?」洋介が怪訝な顔になった。
「監獄行きになるわ」
「そこまで・・・」
「もしこれが漏れたら必ず暴動が起こるわ。それを先導したということで罪を問われるわよ。だからもう中身については詳しいことを洋介は知らないほうがいいの。細部まで知っていたらさらに刑が重くなるわ」
「そんなに急変しているのか」
「想像以上と思って」香織の表情に冗談の微塵も感じられなかった。「いい、絶対にしゃべっちゃ駄目」

 洋介は目の前の黒い粉を見て、暗雲がたれ込めた東京の街を想った。本格的な戒厳令、統制された国へのステップだ。いよいよその段階に入ったと感じた。この場で本当のことを香織に告げるべきか。いや、吉川重則との約束がある。まだ正体を明かすわけにはいかない。

「わかった。絶対に誰にもしゃべらないよ」
「ええ、そうしてね」香織の表情がいったん和らぎ、すぐにまた元に戻った。「それから私、来週には対策本部から都庁務めになるわ」
「どうして?」
「前川課長が対策本部長に昇進して私は山本本部長と移動なの。都全体の公園村移転計画を担当することになったのよ。来週からほとんど帰って来られないと思う」
「急に決まったのか。僕らの生活は」そこまで言いかけ、洋介は口をつぐんだ。
「私だってそうよ」香織がくぐもった声になった。

 もう、これ以上、彼女に問い掛けることは無理だと洋介は思った。ましてや自分の正体など話せる状態ではないと悟った。母体にいる子どものことが気になった。激務を与えられて胎教に影響はないものなのか。香織は自分が身重であることは上司に明かしてはいないはずだ。明かせば昇進が滞るだろう。洋介との関係を知っているのは前川課長だけだった。ふたりの生活が今、激流に飲み込まれ、すべてが水の泡に消える気がした。

 香織が席を立ち、シャワーを浴びにバスルームへ姿を消した。洋介は目の前にあるバターの香りがするクッキーにもう手が伸びなかった。目では食べたいのだ。しかしそれは黒い味に思えた。珈琲や酒、煙草は大人に、甘い菓子は女こどもへの誘導に使われる餌のようなものなのだ。こんなもので釣って村民を収容所へ閉じこめ、自由を奪われた先には一体どんな世界が待っているというのか。

 一〇年後に見た、あの世界だ。洋介にとっては、わたしの記憶から導き出された脳内の映像だった。居酒屋も商店もない無味乾燥とした街。ABCに区別され、番外民は街からはじき出され、野山で原始人のような生活をしている。街に住む者達は全員がマインドコントロールされ、手の甲に電子チップが埋め込まれている。チップには個人情報が記録され、どこで何をするにも、その認証が必要となっている。また、食べる物はかたちばかりのランチに、夜は栄養剤のようなものが与えられる。音楽を聴く自由もない。

 香織がとしまえん中級民Bタウンに住んで、狭いワンルームにいた風景を思い出した。姿の無いわたしは彼女の部屋でそれを見ていた。シャワー室から工藤ちゃんの鼻歌が聞こえていた・・・今、シャワーの音がバスルームから聞こえ、あのときの光景とダブっていた。

 まてよ、と思った。ワンルームに住んでいたのは香織ひとりだった。ということは彼女は子どもを産むこともなく、どの時点かで洋介と別々になるということだ。今、こうして香織との暮らしも、そう長くはないのかもしれない。事実、来週からはここにほとんど帰って来られないと告げられたばかりだ。

 香織はこのまま都庁職員となり、中級民Bへのステップを踏んでいくのか。このまま放っておけば着実にその道を歩むことになる。都庁へ行かせれば、もう後戻りをさせられない気がした。だが、ここで今、すべてを打ち明けるべきなのか。ドリーマーとしての使命をどう果たせばいいというのか。洋介の判断が揺らいだ。香織が都庁へ移籍する来週まで後、四日しか残されていない。

               ○○○

 翌日、七月一四日木曜日は戸山公園村への食料配給日に当たっていた。洋介はいつものように朝八時三〇分に出勤し、制服に着替えてすぐに食料管理ビルへ行った。二階の調理室へ顔を出すと、真理恵の姿があった。一瞬、目を合わせたが彼女は何食わぬ顔で作業に当たっていた。洋介が傍に寄り、ご苦労さまと声を掛けると、今初めて会ったかのように目を見張って、おはようございますと形式的な挨拶をした。

「今朝は何も問題はないですか?」
「はい。一〇時までには配給食料の準備できますから」事務的に真理恵が返事をした。「整ったら内線で連絡しますので」
「よろしく頼みます。ほかに何かあったらすぐに連絡ください」洋介も事務的な返答をしていた。

 真理恵の態度は、徹底したものだった。ドリーマーとして二重の人格を備えているのが今になって洋介に理解できた。ほんの数日前には思ってもみなかったことだった。
 地下の食料保存庫へ下りた洋介は、そこに前川正太郎がいるのを目に留めた。
「あれ、課長なにか?」
「ああ君か、ちょうどよかった。配給前に三〇分ほど報告会議があるから出席してもらいたいんだが」
「それでわざわざ? 内線で呼び出してもらえれば」
「いや、二階にも調理の事で用があったからものだからね」前川がそう言いながらポケットからハンカチを出し、額の汗をぬぐった。「ああ、今日も暑いな。もう三五度超えてるだろう」
 洋介は前川の心情が読めた。恐らく真理恵の顔が見たかったのだろう。そのついでに自分を探したというわけだ。前川という男が哀れなものに思えた。

 四階の会議室へ行くと、前川や杉本泰子のほかに山本本部長と香織の姿もあった。ほかの配給班のメンバーもすべて顔を揃えていた。洋介がコの字型に置かれた会議机の右側の席に着くと、中央の席で前川が咳払いをし、話し始めた。

「朝の忙しい時間帯にお集まりいただいたのは組織編成に関する報告がありまして」そこでまた咳払いをした。
「来週からとなりますが山本本部長ならびに工藤さんが都庁へ移動されることとなり、よって私が対策本部長に就任することになりましたのでご報告します。これからはいろいろと新しい職務をこなさなければならず、また、みなさんのご協力も仰ぐことになると思います。細かな中身については追って会議を開きますので、よろしくお願いします」

 前川のどこか誇らしげな顔で杓子定規な話を聞かされたが、洋介は驚くこともなかった。香織から聞かされていたとおりの内容だった。ただ、なぜ今、移動があるのかについてはまったく触れられていなかった。
 洋介の右隣に座る配給班主査の原博史が質問をした。
「山本本部長と工藤補佐が出向ということは何か大きな組織改革でもあるということなんですか?」
 それに対して、中央席の杉山泰子が答えた。
「その質問は今朝の会議では詳しく触れる時間がありませんのでまた日を改めてお伝えします。それから私が対策本部の課長となり、都庁との連絡は私が統括します」

 短期間に役職転換が行われるのは前例がなかった。施策が急に進展している証であり、都政レベルの話ではないのだろう。これからどうなるのか一般職員には理解できない話だ。
 だが、洋介にはハッキリ理解できた。新宿区だけでも数万人に及ぶ公園村住民の収容所計画が発令される、その前夜なのだと。

 香織は目線を落とし黙っていた。表情こそいつもと変わらない香織のものだが、その心境は洋介には伝わってきた。また、会議室に集まった配給班の職員たちも今の事態を異常なものとして受け止めているのが、くぐもった空気となって部屋全体を覆っていることで伝わった。原博史以外にそれ以上の質問をしようとする者はいなかった。

 この役職換えで、内部事情を把握している人間が浮き彫りになったと洋介は判断した。配給班主査の原博史以下は誰も何も知らないのだ。公安警察の杉山泰子が最も情報を握っているはずだと洋介は思った。この女と近い将来、戦わねばならなくなると直感していた。そして、その直感はすぐに現実のものとなった。

 報告のみの会議が終わり、その場で今日の段取りを深田勝と話していた洋介に、杉山泰子が近寄り声をかけてきた。
「この後、少し時間いいかな」
「何ですか?」
「私と隣のB室に来てくれる?」
 B号室は数人程度の会議で使われる小部屋だった。傍にいた深田がいつになく硬い表情で一瞥し、その場を離れた。部屋に入ると香織が席にいた。
「あれ、工藤さんも?」洋介がとぼけた物言いをした。
「工藤さんと石井さんのお二方に確認したいことがありますから」杉山がふたりを見比べるようにして言った。
「確認ってどういうことですか?」洋介が口早に言った。
「端的にお聞きします。おふたりは結婚生活同様の関係なのですか?」
「なぜ、そんなことを聞く必要があるんですか」
「工藤さんの今後の職務に影響してくることですから。そうですよね、工藤さん」
 香織が弱い声で、「ええ」とだけ答えた。

 洋介が香織の顔を一瞥して、
「隠していたわけじゃありませんが一緒に暮らしています」ときっぱり言った。「それがなにか問題でも?」
「今、問題というわけでは」杉山の眼鏡が蛍光灯の光りを受けて鈍く光った。「ただし上級職員と一般職員が同じ屋根の下にいるというのは今後、情報管理のうえで問題となるケースも出ると考えられます」
「通常の業務をこなしているだけで何の問題があると?」
「ハッキリ申し上げておきたいと思いますが対策本部はすでに通常の業務ではありません」杉山の声が刺々しいものに変化した。「私が区長室から移籍になったのは情報管理を担当するためです。そこでお訊ねしますが石井さん、あなた一昨日の夜、鶴巻町の交番で職務質問を受けましたね。九時を回ってどこでお酒を飲んでいたんですか?」

 一瞬、沈黙があった。この問い掛けは公安警察のものだとわかった。
「高田馬場の居酒屋で少し飲みました。確かに外出規制の時間は過ぎていましたがほかに何もやましいことはしていませんが」
「職員としてはそれだけでも厳罰処分ものでしょう? 違いますか」
「うかつでしたが反省しています。もうそのようなことは絶対にしません。でも処分されるというのなら仕方ありません」
「いえ、今回に限り処分は控えます。あなたは食料配給班主任としてきちんと職務をこなしてくれていますから。ただし工藤さんとの同棲を認めるわけにはいきませんね」
「それはどういうことか僕には理解できませんが。個人の生活に何の権限があって」
「いいですか。もう一度言いますよ」杉山の口調がさらに厳しくなった。「対策本部は通常の業務ではなくなったんです。権限があるのかという質問ですがあります。場合によっては一九五二年公布の特別刑法、破壊活動防止法つまり破防法が適応されます。近々、都庁舎内に情報部が設置されることが決まっており国家の情報に関する役職に就く人間は厳しく管理されます。よって都庁情報部へ移籍する工藤さんは民間人との接触が規制されます。あなたが好むと好まざるに関わらず」

 香織が都庁情報部へ入るという話を、洋介はこのとき初めて知った。情報部の人間となれば当然だろうと、もうそれ以上、議論の余地はないといった調子で杉山泰子が話し終え、まだ何か言いたいことでもあるのかといった目つきで洋介を見た。

 あんたは公安警察だろうと喉の先まで出かかった。「わかりました。それで僕にどうしろと?」
「工藤さんのマンションから引っ越してもらいます。アパートはこちらで用意しますから心配はいりませんよ」
 強制的に、ということが杉山泰子の口調でわかった。洋介は苦虫を噛みつぶしたような表情となってうつむき、拳を握った。
「おっしゃることは理解しました」
「では来週までに引っ越してください。ご希望ならば戸山公園村でも構いませんよ」そういって微笑んだ。「もっともあんな場所はお好みではないでしょうけど」

 杉山が行動の一部始終を察知しているとまでは思えなかったが、前に吉川と接触しているかと問われたことあった。疑われているのかも知れない。この女は思った以上に手強い相手だということが洋介の頭に刻み込まれた。

 部屋を出る間際、杉山が香織に念を押した「石井さんもご理解いただけたようだから工藤さん、別室での適正プログラムいいわね」洋介から引きはがすように香織を促し、ふたりで先に部屋を出て行った。

 会議室に残された洋介の胸は怒りで張り裂けんばかりに達し、机を叩く腕を必死で堪えた。その勢いで杉山泰子を殴れば即死させるほどのエネルギーだった。だが、杉山ひとりが敵ではないことは洋介にもよくわかっている。ただ、その敵の全容が見えない。都の上層部も、官僚や政治家も敵だらけの気がした。さまざまな局面で見えない敵の圧力がかかり始めているのだ。

                ○○○

 戸山公園村へ配給車で向かう時間まで、もう一時間もなかった。洋介は自分の机に着き、真理恵からの内線を待っていた。香織が受ける適正プログラムのことが気になった。先ほど、B号室で杉山泰子が話した内容には明かされていない重大な情報が多分に含まれていた。そこまで語ったということは、もし、洋介がおかしな動きを見せれば、いつでも処分する用意があると暗に語っているのだ。挑戦状を叩きつけられたも同然だった。それはまた逆に、今まさに阻止すべき局面を迎えているということだった。香織が危ない。そう思った。

 内線電話が鳴った。
「もう、いつでも大丈夫です」真理恵から配給食料の準備が整ったとの連絡だった。
 洋介は、とっさに暗号を口にした。
「そう、そう、そう、今日も暑い一日になりそうですね」と言い、一拍置いて「予定より少し遅れそうなので、準備時間をもう四五分繰り上げてもらえますか?」と続けた。
「そう、そうですか。わかりました」真理恵がその返答の仕方で暗号を理解したと告げていた。
 洋介が、そうそうそうと三度続けたのがレベル3の緊急事態の意味だ。準備をわざと遅らせて時間を引き延ばせという指示である。

 洋介は電話を置き、深田勝に調理室から準備が遅れているので出発は十一時頃になると告げた。それから、腹の具合が悪いのでと言って席を立った。適正プログラムは八階にある特別室で行われているはずだった。エレベーターを降り、廊下の最奥の部屋へ行くと、使用中の札が掛かっていた。廊下には誰もいない。ドアに耳をつけると微かに杉山泰子の声が聞こえた。だが、この部屋は防音設備が施されていて会話の内容までは聞き取れない。香織が未来のあの独房のようなワンルームで唱和していた文句が耳に残っていた。

-----世界統一政府 国はひとつ 地球維持の契約 人民上級民A 中級民B 下級民C 番外民Zは言語道断ぞ

 適正プログラムとは、恐らくマインドコントロールのことだろう。洗脳だけはさせてはならない。人格が破壊されれば、もう元の香織ではなくなるのだ。ドアノブに手をかけ、ゆっくり回したが施錠されていた。特別室は電子ロックとIDカードでの解除が必要となっていた。肩には工具バッグを掛けていた。ミニバールでドアを破って中に入る必要があるかどうか洋介は迷った。自分の思い過ごしかもしれないのだ。

 そのとき、背後に気配を感じた。後ろを振り返ったが廊下に誰もいなかった。だが人の気配があり、頭の中で声だけが聞こえた。
「洋介、私よ葉子よ。真理恵の身体を離れて来たの。私が部屋の中に入るわ。いい、ここを離れてどこか静かな場所へ行って私の意識に同調してね。そうしたらあなたにも中の様子がわかるから。香織さんは守ってあげるから後のことは私に任せて」

 それだけを言って気配が消えた。
「葉子、真理恵が活動中に離れて平気なのか?」洋介が頭の中でそう問い掛けた。ドリーマーにとって、宿った相手が起きているときに離れれば意識の乖離が起こり、それはある種の死を意味した。もう、戻れない可能性があった。
「私は平気よ。もう自分の身体ないもの。幽霊に戻るだけ」
 静かに微笑む葉子の顔が瞼に見えた。
「葉子ありがとう」

 洋介はドアの前を離れ、エレベーターホールに戻り、屋上へ上った。非常口のドアを開けてコンクリートの縁に座り、目を閉じた。葉子へ精神をフォーカスした。
 脳裏に部屋の中の景色が浮かんで見えた。机に向かい合わせた香織と杉山泰子の姿があった。その横にはまるで旅客機のファーストクラスのようなリクライニング式の大きな椅子が置かれていた。

 杉山がいつもより穏やかな声で香織に語りかけていた。
「通常ではこのプログラミングは三段階を三週間コースで行うものですが、今回は特別なので三日間で第一段階まで進みます。二段階、三段階は都庁でやりますが、その前にここまでは終わらせておきましょうね」
「はい。了解しました」香織がゆっくり答えた。すでに何かの薬物を飲まされているのか、緩慢な表情で目がとろんとしている。

「では、そこに横になって」杉山が香織の手を取って促し、リクライニングシートに座らせた。それから、ラグビー選手が被るようなヘッドギアを香織の頭に装着した。ヘッドギアから何本ものコードが機器本体に結ばれている。さらにレシーバーを香織の耳に掛け、目にも大きなサングラスのようなものを当てた。杉山が香織の横に立ってゆっくりと話し始めた。

「軽く目を閉じて、気分を楽にして、リラックスして、あなたは今、広いひろーい草原にいます。そこであなたは本当のあなたに出会う散歩に出かけます。とーっても楽しいお散歩ですよ。はーい、ゆっくり呼吸しながら一〇まで数えましょう。いーち、にーい、さーんのテンポですよ、はい、いーち」
 香織もそれに合わせて声を出しだ。
「いーち、にーい、さーん」
「はーい、ゆっくり草原を歩いていくと、その先に洞窟の入り口が見えてきましたね。そこへ入ってみましょう。洞窟の中はお母さんのお腹の中のようにとっとも温かいですよ。はーい、これからあなたの中に入ってくる音のリズムや光りが導いてくれますから安心して受け入れましょうね」

 杉山が機器のスイッチに手を伸ばしたそのときである。突然、杉山が自分の身体をくねらせ、呻き声を発した。
「うっ、ううう、何よこれ何なの、ううっ」その場にへたり込んで荒い息で胸を膨らませた。杉山は喘ぎながら、それでも何とか機器に腕を伸ばしスイッチを入れた。

 横になった香織のヘッドホンから、ピピピピッと電子音が響き、サングラスに光が点滅し始めた。機器のモニターがアルファー波の波形を映し出している。杉山が機器のボリュームを調整しようと指を伸ばした途端、床にひざまずいた。

「うっ、うう、苦しい」喉を掻きむしり、髪を振り乱して何かに耐えるようにして上半身をガクガク揺さぶった。「誰なの、私の中に、入っているのは。邪魔しないで!□うううううっ」
 香織はクライニング椅子に横たわり、すぐ横で杉山が悶え苦しんでいるのにも気づかない。やがて電子音が波長を変化させながら高くなり、光りのスピードが加速した。香織の口が半開きとなり涎が流れ出て、手足はだらりと弛緩している。

 香織の口から声が漏れだした。
「世界統一政府 国はひとつ 地球維持の契約 人民上級民A 中級民B 下級民C  番外民Zは言語道断」
 単調な言葉を香織が繰り返している。

 リクライニングシートに据えた機器から、バチバチっと青い火花が散り、電源がショートした。
「うううううーっ、うぎゃー!」
 杉山泰子が激しくもんどり打って床に突っ伏し、白目を剥いて悶絶していた。
「洋介、もう大丈夫よ。あなたここに来て香織さんを助けてあげて」弱々しい声が洋介に頭に響き、「護ったわ」と擦れた声が聞こえ、消えた。

 洋介がバールを片手にして、ノブを回すとドアがあっさり開らいた。特別室のドアは電子ロック式だが、システム回路がショートして壊れていた。葉子は相当なエネルギーを使っただろうと思った。

 床に杉山が俯せに倒れていた。微かな呼吸があり、気絶しているだけだった。香織はリクライニングシートで静かな寝息を立てていた。身体をゆさぶっても起きなかった。香織を抱きかかえ、耳元で囁いた。
「香織、聞こえるか。僕だ、洋介だよ」
 何度も耳元で問い掛け、やっと香織が目を開けた。
「大丈夫か。僕がわかる?」
「ああ、洋介・・・どうしたの?」
「シーッ、静かに」そう囁いて振り返ったが、杉山は倒れたままだった。
「私、そう、プログラミング」と途切れ途切れに言い、意識がまだ朦朧としているようだった。
「大丈夫だよ」
「なにが?」
「いいから、君を護るから」そう小声で言うと胸が熱くなった。

 どう行動すればいいのか洋介は迷った。香織を連れて特別室から逃げるかだが今、逃げれば追われるだけだった。
「今から言うことをよく聞いて」洋介が香織の耳元で囁いた。「そのうち杉山さんが目を覚ますから君はそのまま椅子で寝てて。何も知らない顔をするんだよ。いいね」
 香織がゆっくりと頷いた。
「僕は部屋を出るからずっと寝たふりだよ」念を押して洋介が足を忍ばせ部屋から出て行った。

 洋介は何食わぬ顔で四階の職場に戻った。配給出発時間まで後一五分ほどだった。深田勝が「腹の具合大丈夫ですか?」と言った。
「下痢がとまらなくってね。今朝、食べた昨日の雑炊が腐ってたみたいだな」
「昨日の残りを食べたんですか、そりゃマズイでしょ」深田が顔をしかめた。「そろそろ時間ですよ。そうだ、調理の河口さんが連絡ほしいって」
「何だろう? まずい。また腹の調子が」洋介がそう言って、すぐに戻るからと席を立った。

 トイレに行くふりをしながら、廊下から非常階段に出て携帯で真理恵に電話を掛けた。
「ひとまず問題ない。君は大丈夫か?」
「ええ、ただ、ちょっと調子が戻らないだけ」
「あんな無理をして。早退したほうがいい」
「そうします」
「やっぱり今日は暑い一日になったよ。ありがとう。気をつけて」

 手短な電話を済ませ、非常階段から出て、今度は前川正太郎のいる本部長室へ行った。ノックをしてドアを開けると書類に目を落としていた前川が顔を上げた。
「何だね。まだ出かけていなかったのか?」
「ええ、調理が少し遅れてまして。それで一応ご報告を。杉山課長にと思ったんですが姿が見えなかったもので」
「杉山さんは八階へ行ってるよ。報告は私からしておくが」
「実はそれがですね、調理用の米袋の数が一袋合わないんですよ。倉庫から追加で間に合わせましたがそれで調理も遅れてしまって。もしもですが横流しなどあってはマズイと思いまして、こういった件は情報管理の杉山さんに直接お伝えしておいたほうがいいことですよね?」
 洋介が淡々とした口調でそう言うと、前川の表情が明らかに変化した。
「いや、そういう話は直接、私でいいよ」
「でも、杉山さんからどんなことでもすぐに報告するように念押しされてますから八階に行って話してきますよ。あの人、恐いですし後で怒られたくないですからね」
「杉山さんには伝えておくから君は仕事に戻っていい」強い口調で前川がそう言い、受話器で内線を押しながら、洋介に早く部屋を出ろと指でドアを指した。
「杉山課長にちゃんと事情をお伝えくださいね」
 受話器を耳に当てたまま、前川がわかったという表情をした。

 米袋が不明だという話は洋介のとっさの作り話だ。後で数え間違いだったで済む。だが、前川正太郎には効果てき面だった。棚卸し前の今、洋介が直接、米の不足を杉山泰子に報告されるのは不利になると考えたはずだ。すぐに自分から杉山へ連絡を入れると読んでいた。

 何としてでも特別室の現状を第三者に発見させる必要があった。杉山が目覚めて後処理をすれば、何事もなかったことにされるだろう。恐らく、適正プログラムの中身は前川も知らない極秘のもののはずだ。職員の誰かが現場を発見すれば事件となる。それが香織を守る唯一の方法だと洋介は踏んでいた。

 五分後に八階特別室で騒ぎとなった。前川が内線で呼び続けても応答がなく、自分で急いで八階へ行き、ドアを開けると床に倒れた杉山泰子とリクライニングシートに工藤香織が横たわっていたのだ。四階へ事態が伝わり、洋介たちも特別室に駆けつけた。

 香織は洋介が指示したように何も知らない顔で目覚めたふりをした。救命訓練を受けている主査の原博史が脈を取って杉山泰子に人工呼吸と心臓マッサージを施すと、ギャーッと大声を張り上げて原の顔を引っ掻き、何かから身を護るように身体をまるめて縮こまったままブルブルと震え続けた。原が大丈夫かと声を掛け、身体を起こそうとして杉山の肩に触れると、何かに抵抗するかのように手足を激しく揺すって、ヒーッと、か細い声を上げた。まくり上がったスカートを洋介が直してやり、バスタオルを下半身に掛けてやった。前川は、何か奇妙な生き物でも見るかのように眺め、その場に呆然と立ち尽くしていた。

 間もなく救急隊員が駆けつけたが、平静さを取り戻した杉山が救急車を断った。前川正太郎が、いったいここで何が起こったのかと問うたが、杉山はただ、プログラム機器の故障だと答えただけだった。
「それにしてもプログラムを受けていたのは工藤さんでしょう? どうしてあなたが倒れていたんですか」
「貧血です。珍しいことではありません。女性なら誰でもあることです」
「でも、あなた何かとても恐い夢でも見たかのように震えてましたよ」
「私は何も覚えていませんが?」杉山が無表情でそう答えた。
 救命処置をしていて引っ掻かれた原博史が心配そうにして、「本当に大丈夫ですか?」と言った。彼の頬は赤くミミズ腫れになっていた。

 洋介が今気づいたかのように「あれ、電子ロックが壊れている」とボタンを押して言った。「これ作動しないみたいですよ。まさか、誰か進入して来たのでは?」
「電子ロックは私が部屋に入ったときには壊れてました」
 杉山泰子は我々の質問をことごとく否定した。突然、自分の身に起こった事実を認めたくなかったからだろうと洋介は思った。また、その怪奇な出来事を話したところで、気が狂っていると思われるだけだ。

 洋介が声を和らげて言った。
「杉山さんがそう言うおっしゃるなら警察へ通報する必要はなさそうですね。僕はてっきり何者かが侵入して襲われたのかと思いましたよ」
 それを聞いて、杉山泰子の顔が一瞬こわばったのを洋介は見逃さなかった。

(10章 後編へ)


災い転じて福と成す

2011年06月09日 23時56分34秒 | 航海日誌
3.11以降、この日本の世が変転して、今まで暢気でいたことが嘘のように変わって行きました。あの3月中の、関東以北の人々のストレスは酷かった。しかし、今は大分、落ち着いています。

とはいえ、事態が改善された訳ではありません。依然、どうなるか未然です。けれども、ここが正念場。災い転じて福と成すの、その狭間に居ます。渦中。災いを転じることのエネルギーがもの凄い。ピーク。その先に福がある。これ運動法則の原理です。

今泣いたカラスがもう笑ろうた


負けるな

2011年06月08日 22時57分18秒 | 航海日誌
明後日から、広島へ帰郷してきます。
広島は、そう、原爆の地です。
死の灰が降って黒い雨が降って、
何十年も放射能が消えないで草木も生えないといわれて、復興した町です。
人が生きている限り、復興するのです。
負けるな、おまえ。
そう、広島が言ってます。

人間が試されています。


しきい値

2011年06月07日 07時56分41秒 | 核の無い世界へ
敷居をまたぐの「しきい」とは何か。廊下と、座敷を仕切る障子・ふすまを滑らせる溝をつけた板木である。不相応の者は、ここをまたぐことはできない。武士の時代ならば、勝手にまたいだら狼藉者として主に斬られても文句はいえない。許されたとしても「二度とこの敷居をまたぐでない」の、あれである。

だから、しきいとは、ある種の安全域の境目と解釈できようか。またがなければ何事もないが、またげば命も取られかねない境である。

さて、学術用語に「しきい値」というものがある。

今もタラタラと放出し続けている福島第一原発の放射能は、避難域の外では数値が数ミリシーベルトであり、すぐに健康被害はないので安心してくださいとなっている。

ところが、放射能には、ここからここまでは、という境目の値となる「しきい値」が無いのだ!

このことを京大原子炉実験所助教・小出裕彰氏の記事を読んで知った。

放射能というものは、たとえ微量であっても細胞破壊の影響があり、ここまでは安全という「しきい値」がないという。線量の多さで癌の発生率が高まるという話であり、しきい値が無いのだから、どの値であっても「安全」という表現は使用できないそうである。

たとえ国際基準値の1ミリシーベルト(年間)であっても、浴びないほうがいいわけで、いわんや、児童の安全基準値を20ミリシーベルトとした文部科学省は、まったく科学的思考を欠いた集団ということになる。文部省と科学技術庁を合体させて、言葉の使い方が解らなくなったのだろう。

放射能が高かろうが低かろうが、「しきい値」が無いなら、敷居の内も外もなく、どこで斬り殺されるのかわからないのだ。

どこが安全ってんだ!?


今日は短く

2011年06月06日 21時24分29秒 | 歴史の断層
今日、たまたま「たけしのテレビタックル」緊急番組というのを観たら、内閣官房付が出て、東電の力というのは政治家も官僚も企業も皆、言いなり構造なんですといった発言をしゃあしゃあと言っていて。ああ、そうかと思った。

完全に、シフトしたのだ。東電解体に。だから、9時の番組で、バラしているのだ。ということは、この次の巨大な動きが始まったということだ。それがなにかは、今はわかりません。が、いよいよ大政奉還。またぞろ、西洋列強が裏で動いての、胎動である。

日本は変わる。だが、どう変わるか。

日本解体である。


思考停止より原発停止

2011年06月05日 18時41分12秒 | 核の無い世界へ
人間というものは・・・そう、私も人間だ。その人間としてもの申す、のだが。脳シナプスが明滅して色々の言葉が脳内に飛び交っているのを、なんとか捉えて、指先に持ってきて書いているという状況。

考えることが、そういうことである。考えなければ言葉は浮かんで来ない。その考えがなければ行動が起こらない。起こっても、本能的に動いているだけである。動物と余り変わらない。

ここに今、「原発」という巨大な考える要素がある。
これをどう考えるか。
大変なことが起こってしまった・・・あってはならないことだ・・・何十年も警告されたことだ・・・責任は誰にある・・・電気は現代生活に不可欠だ・・・最近テレビも余り福島を報道しなくなった・・・なに、心配しないでも・・・半減期が8年とか30年とか2万4千年とか色んな放射性物質が出てるって・・・夏は電気が止まるのか・・・この先どうなるのだろう・・・

これくらいは小学6年生でも考えるだろう。
責任ある大人なら子ども達の行く末を考えるだろう。
成長の止まった自分らはいいが・・・子どもは大変だ・・・10年後にはガンが増えるのでは・・・民主党も終わりだ・・・どの政党も駄目だ・・・仕事はどうなる・・・日本はどうなる・・・

そのくらいで考えが止まる。考えてもどうしようもないからと。考え続けると疲れる。生活も仕事も忙しいのだ。それよりも今、目の前にあることをしなければならない。こんなことばかり考えていても楽しくない。

脳内が明滅して、スイッチが切れる。考えなくなる。思考停止。

それにしても、毎日毎日、原発問題ばかり口にしている奴がいるが、聞いているこっちが気が滅入る。理屈はわかるが、だったらおまえが何とかしろよ。署名したって政府は動かないじゃないの。え、どうするってんだよ。

わかりません。わからないけど、考えるのをやめるわけにはいかない。そもそもどうしてこんな世の中になっているのか。知らぬ存ぜぬといってられない。白神山地奥で仙人生活しているわけじゃない。社会参加しているのですから。東京に住んでいるのですから。

考えているうちに、ああ、なるほどとわかってきたこともある。この国の代表者たちも、原発当事者も、周辺もろもろも、精神分裂を起こしているのだ。正しいこと、即刻やらなければならない事々と、不誠実と、我良し精神がバラバラに分裂して動けない状態なのだ。だから動ける者らに、何とかしてくれろと祈っているならまだマシで、嘘ばかりついてごまかそうとしている連中は、煉獄で自分を罰することになるだろう。そんな観念もないだろうが。

ハイ。すぐに健康調査を開始します。状況が判り次第、早急に福島第一原発100キロ圏内の住人を移住させます。福島県には国で保障金を出します。放射能の飛散地(ホットスポット)にも相応の保障金を出します。何より、福島第一原発の廃炉処理を国家で敢行します。ほかの原発も停止後、緊急補強して、原発電力政策を見直します。これらをすべて国の責任においてやり遂げます。

これを言うのが正常だろう。
誰が言うのか。言えるのか。

今日、東武デパ地下で、千葉県産の天然ブリの半身(大さく)が650円で売られていたのが何とも痛々しく、悲しい事実だった。ガラスケースに山盛り。夕方の買い物時間で客がごった返す。これを風評被害というな。大量の放射能汚染水を海に流して、誰が安心と思うか。本当のデータを開示しない東電を誰が信用するか。誰も買わない新鮮魚の身が訴える。


縦割り解体

2011年06月04日 13時21分05秒 | 核の無い世界へ
震災以後、福島の原発問題が刻々と深刻な状態になるにつれ、国の対応が「混乱」し、首相以下国会議員も目前の対応と、「保身」が入り混ざる精神状態の中で、後手後手どころか、住民の生命の安全を護れない現下の事態が露呈している。これは事実だろう。ことに、東日本住民にとってはもう待ってはいられない状況である。

福島県二本松市では、市民の健康調査に乗り出した。また、東大医療チームが結成され、福島の被爆健康調査ならびに対応に当たるようだ。こうした動きは国の要請ではなく、独自の判断に基づいての行動という。そのほか、数多くのボランティア団体も動いているだろう。もう、国や縦割り行政の判断を仰いでいる場合ではない。良識・良心ある人々の堪忍袋の緒が切れたといっていい。

20ミリシーベルトが子どもを守るかなどといった数値を討論している場合ではなく、地方行政や公的機関が独自に動き、大本営発表ではなく、リアル情報を伝えれば、現況がさらにもっと明確になり、チェルノブイリのように避難エリア半径100キロ単位の可能性も高い。先祖代々の土地も家財も大事だが、命あっての物種はいうまでもないのだ。

これまでの縦割り行政のあり方が、放射能汚染という危機的状態に対応でいないことがここまで解れば、独自に動き、機能しないものは解体しかない。これこそを「大幕末の大政奉還」と呼べばこそだが、さて、民主も自民も他党も、その力がない。一体、なにが動くのかだが、当面は「良心党」とも呼べる団体の連携活動しかないだろう。


ドリーマー20XX年 9章

2011年06月04日 11時07分43秒 | 近未来長編小説『ドリーマー20XX年』
【あらすじ】
新宿で働く安サラリーマン、山田一雄45歳。将来の希望などさしたるものもない独身暮らし。楽しみといえば給料日に歌舞伎町のキャパクラへ行くことぐらいだった。この男がある日、奇妙な夢を見始める。白髭の老人との対話の末に、夢旅行へ誘われ、時空を超えた旅が始まる。やがて辿り着いた世界は、20XX年の新宿だった。

(右下の欄のカテゴリーで、1章から順にお読みください)
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~~9~~


 暑さのあまりタオルケットを跳ね除け、洋介は目を覚ました。つい今し方まで何か夢をみていたのだが、よく思い出せなかった。隣の布団に香織の姿がなかった。時計を見ると八時五分前だった。慌てて身を起こし、台所へ行くとテーブルにメモが置かれていた。

-----お酒には気をつけて 香織
 と、あった。
 急ぎ着替えようとして、今日が非番だったことを思い出した。香織にメールを打った。彼女とはこの数日、行き違い、顔を合わせていなかった。

 身体じゅうに疲れがまとわりつき、吐く息が自分でもわかるほど酒臭かった。昨夜の記憶が薄ぼんやりと蘇った。

-----そうだ、俺は、あの女と・・・
 だが、その先で記憶が途絶えていた。真理恵と話をしているうちに怪しい雰囲気になってそこで途端に酒がまわり、あとの記憶がなかった。

 その前の記憶はあった。真理恵と前川課長の関係を知り、それから杉山泰子が実は公安警察だと聞かされたのだ。米の横流し事件か、もっと大規模な何かがあるに違いないと思った。その何かに自分は巻き込まれようとしている気がした。
-----巻き込まれていい、それが突破口になる。
 とわたしが思った。
 覚悟は出来ている・・・
 パチンと頭を叩いた。乾いた音が頭蓋骨に響いた。

 洋介が武者震いして洗面台へ行き、蛇口からほとばしる水を飲み、頭にかぶった。しぶきが飛んでTシャツを濡らした。ジーンズを履き、スニーカーに足を入れ玄関から飛び出した。

 交番のある道を避け、夏目坂を足早に歩いた。遠回りになるが警察官に出くわすよりはマシだった。職務質問を受けただけですぐに帰されたが何らかの記録が残されているに違いない。夜間外出禁止の条例を破ったことは罪とまではいかないが、注意人物としてリストに記載されているかも知れない。

 やがて森に囲まれた戸山公園村が目に入った。ゲートで係員に身分証明書を見せて中に入った。夜間外出規制が施行されてからは出入りに注意が払われるようになっていた。園内にある標高四十四メートルほどの箱根山に添った遊歩道を回り、吉川重則のテントへ向かった。

 テントまで行くと、作業服姿の吉川がゴミ袋を片手にテントに戻ってくるところだった。
「珍しいな、こんな時間に」吉川が日に焼けた顔をほころばせた。珍しく無精髭がさっぱり剃られている。
「今日は非番なので散歩がてら来たんです」
「こんなところへ来ないで彼女とデートでもしろよ」
「香織は仕事なんで」
「まあ、そこのベンチに座れや」ゴミ袋をテントの脇に放り投げ、吉川が先に座った。
 頭上の樹でセミが賑やかに鳴いている。
 「ここは日が出たら寝てらりゃしない」上を見上げて舌打ちした。

 洋介は、話をどこから切り出そうかと迷っていた。それを見透かしたように、吉川が「真理恵のことか」と言った。
「えっ?」
「会ったんだろう?」
「ええ、会いました」そう洋介が答え、堰を切ったようにしゃべり始めた。「いろいろ聞きました。もしかして吉川さん知ってたじゃ?」
「ああ、俺が真理恵に教えてやれって言ったんだよ」
「なぜ」
「もう、あまり時間がないからな。あんたにいずれ伝えようと思っていたことだ」吉川の表情が硬くなっていた。
「というと?」
 吉川が周囲を見渡し、声をひそめて「おまえさんの素性は調べてわかったからな」と言って「職員といっても、やつらの仲間じゃないってな」と続けた。

「やつらって誰ですか?」洋介も声を落としていた。
「公安調査部ならびに内閣情報調査室ってところか。しかしな今はそれらとは別組織として作られた国家安全保障局情報部だ」そう小声で言い、かき消すように大声で笑った。
「国家って?」
「国全体の問題だってことだ」
「シゲさん、あなた何者なんですか?」
「俺か、俺は仲間を守るタダのおっさんだ」と言い、吉川が見せたいものがあると言って立ち上がってテントの右奥の森へ歩いていった。洋介もそれに付いて足早に進んだ。

 鬱蒼と茂る森の奥にホームレス達が使っているのと同じ災害用のテントがあった。その前で吉川が口を開いた。
「いいか、これから見せるものを見たらもう後戻りはできないぞ。その覚悟はあるな」と念を押して周囲を見回し、頭をぼりぼり掻いた。

 洋介が黙ってかぶりを振った。
 先ほどまで晴れわたっていた空が暗くなり、ポツポツと大粒の雨が降り出した。
「参ったな。またゲリラ豪雨か」
 吉川が急いでテントの入り口のシートをたぐり寄せた。ゴザが引かれ、その上に座卓や段ボール箱などが整然置かれていた。ほかの住民たちが暮らすテントとさして変わりのない部屋だった。違うと言えば、仄かにコスメの残り香があった。
「ここが真理恵の別荘だ」
「え、ここに住んでるんですか」
「ゆうべ、おなえさんもここでしばらく寝てたが覚えていないだろうな」
 そう言われ、洋介は狐につままれたような気分になった。
「うそでしょ。歌舞伎町で酒飲んだ後、僕はマンションで寝てて一時間ほど前に起きたんだから」
「闇酒場からここに運んで夜が明ける前に運んだんだよ。リヤカーでな。ドアの前に担ぎ降ろしてベルを鳴らせておいた」
「それで香織がメモだけ残して」洋介が途端に困った顔になり、「何でそんなことを。それになぜ記憶がないんだ?」と独り言のように言った。

「まあ、そこに座れよ。これから説明してやるから」段ボール箱の中から何かを取り出し、一つを洋介に渡した。缶コーヒーだった。今では簡単に手に入らない品だ。
「珍しい物があるんですね」甘いミルク味の液体が洋介の喉に懐かしさを呼び起こした。
「ここにはもっといい物もあるぞ。桃缶や蟹缶もな」
「その段ボール箱に?」
「いや、ここだ」と吉川が膝元のゴザを指さした。

 テントを激しく雨粒が打っている。風が幌をバタバタと鳴らせ、隙間から湿った風が吹き込んでいた。
「さあ降りるぞ」
「どこに?」

 吉川が洋介の目を一瞥し、ゴザを剥がすとベニヤ合板が露出した。板を半分持ち上げ、つっかい棒で固定した。その下は土くれだった。ミミズがノタ打つ湿った表面の土を吉川がスコップでかき分けた。スコップの先が何か固いものに当たる音がし、土を払いどけるとステンレス製の頑丈そうな板面が露出した。端に電子ロック式のキーが埋め込まれており、吉川がいくつかのボタンを押すと鉄板の端でカチャリと音がした。吉川が両腕で鉄板をスライドさせると、人ひとりが降りられるほどの隙間が口を開け、地下へ続く鉄製階段が見えた。

 洋介は口をポカリと開けたまま、その光景を見守っていた。
「さあ降りるぞ」そう言われたが、洋介は立ちすくんでいた。鉄階段の下は暗くて見えないが相当の深さがありそうだった。
「何なんですかこの穴」
「下りたら話す。普段この非常口は開けないんだよ。長い時間、扉を開けておくことはできんからな」
「下りたらってどこに?」
「さあ、行くぞ」吉川が先に穴に入っていった。それに続いて洋介はモグラにでもなった気分で穴にもぐり込んだ。

 地下は思った以上の深さに達し、ビルでいえば三階ほど階段を下りただろうか。地階には赤錆びた鉄製の扉があった。
 吉川が扉を解除すると洞穴のような手掘りのトンネルが続いていた。背を屈めながら穴を数十メートル進むと右手に鉄の扉があり、鍵を開けた吉川がライトを照らすと、赤レンガがアーチ状に組まれた大きな部屋だった。
 天井からポタリポタリと水滴がコンクリートの床に落ち、あたりに黴くさい臭いが立ち込めていた。洋介にはそこが古い牢獄かなにかのように思えた。

 吉川が部屋奥の鉄扉をトントン、トトンとリズムを付けて叩いた。中からそれとは違ったリズムで叩く音がして、また、吉川がトントン、トトン叩くと、鉄扉が軋む音を響かせながら開いた。
 「うわっ」洋介が声をあげ、身をこわばらせた。
----日本軍の幽霊。
 扉の中に軍服姿の男が立って敬礼した。

 吉川が「この男は七十年間、地下に潜んだまま未だに米兵に備えているんだ」と低い声で言った。
「隊長。お待ちしておりました」その男が口を開いたので洋介は身構えた。
「幽霊じゃないぞ。本物だ」吉川がそう言って笑った。「石井君、われわれの作戦本部へようこそ」

 その赤レンガの大部屋の隠し扉から、さらに地階へ降りると、コンクリートに囲まれた通路に出た。
 また、扉だった。

「この中がわれわれの司令部だ」
 明かりが漏れているその中はコンクリート壁に囲まれた天井の高い大部屋だった。十名ほどの男女がそれぞれの机に着いてコンピューター画面に向かい、何人かがこちらを一瞥した。一面の壁には東京都の大地図が貼られていて、新宿区は戸山公園村、新宿御苑村、ほかの区も公園村がグリーンに縁取られていた。さらに東京湾の埋め立て地が赤く縁取られている。壁には日本地図や世界地図も貼られていた。捜査本部か何かそういった雰囲気があり、部屋の奥にはまた別の扉があった。

「驚いただろう」
「驚いたってもんじゃないですよ」洋介は夢をみているのかと思った。山田一雄であるわたしにとっても全く予想外の光景だった。
「ここは何なんですか」と洋介がまた先ほどと同じ質問をした。驚きは最初に地下への入り口を見たときの数倍のものに膨らんでいた。
「旧日本陸軍の地下基地を再利用した作戦本部だよ」
「地下基地?」
「戸山は陸軍学校跡だが参謀本部の最後の砦でもあったんだ」
「それを再利用って? その作戦って何の?」
「直面している夢の島移転計画阻止だ。最終的には世界統一政府を阻止するためのだ」
「エッ!」洋介が素っ頓狂な声を上げた。わたしの頭の中でパッと灯りが点いた。
「さあ、こっちの部屋へ」

 吉川に言われて入ったのは会議机が並んだ部屋だった。そこに女が座っていた。真理恵だった。
「いらっしゃい。ようこそ本部へ」洋介を眺めて微笑んだ。
 吉川が「そこに座りたまえ」と先ほどとは違う口調で言い、自分も椅子に座った。真理恵が吉川の隣に座り直した。
「ハイ、石井さん深呼吸をして」と真面目な表情で真理恵が言った。

 吉川が話の本題に入った。
「まず君が石井洋介であると同時にゼロゼロKY、つまり山田一雄であるということを明らかにしておきたい」
「知っているんですか?」わたし(洋介)が固唾を呑んだ。
「もちろんだ。なぜならわれわれも君と同じ立場のドリーマー、つまり夢次元からのエージェントだからだよ。そう数は多くないがね」
「えーっそうなんだ! だったら話は早い。俺は20××年へ飛んであんな世界を見て工藤ちゃんに惚れて。また戻ってきて洋介の協力を得てここまで何とかやってきて」興奮を隠せず、わたしは口に泡を飛ばしてしゃべった。

「まあ、落ち着いて山田さん」真理恵が言い、「私も最初はそうだったから」とやさしい目で洋介を見た。
「真理恵はゼロゼロYTだ。私はゼロゼロKN。ともに河口真理恵と吉川重則の身体を借りている者だ。ただし、もう同体化しているから精神に分裂は全くない。君の場合はまだ少しそのきらいが残っているが、もう少しすれば慣れるだろう」

 それを聞いてわたしは納得した。洋介との行動がどうしてもギクシャクしていたからだった。それよりも、その先で聞きたいことが山のようにあった。どれからどう聞こうか頭が混乱していた。
「その、あんたらもM師の世話になってるの?」とわたしである山田一雄が発言した。
 それには真理恵が答えた。
「いえ、私たちに関わっている存在は皆それぞれよ。なんと言えばいいのか守護霊みたいなものかな。英語ならガーディアンね。でも、この言い方ってオカルトっぽいけど。とにかく次元の違う知的生命体ってこと」
「そんな凄い存在なら直接行動すればいいじゃないの。何で俺たちを使ってこんな大変な目に遭わせるんだ!」わたしはひどく興奮していた。
「そうじゃないの。直接干渉はできないのが次元間の法則なのよ。今、人間として地球に生まれている者どうしで解決するのが約束。でもね、今回の場合はちょっと特別かな。だって他人に乗り移って行動してるから。ふうつならコレ憑依ね。ただこれはあくまでも特例で、この度の地球は最後の正念場を迎えることになるから」
「最後? 地球が?」

 真理恵が話を続けた。
「これまでも何度か地球は大文明を築いてきたけれど今いよいよその大転換期を迎えたのよ。ただのタンパク質だったものがミトコンドリアになって人まで進化して、もう何百万年も文明圏を育んできたけど、それをすべて破壊してしまおうとする集団が出現して世界統一政府として自滅の道を進んでいるわ。あなたが見た未来の二〇××年はその序の口なの。人類を残すのと殺すのとのふたつに別けて今の人口六五億人を三〇億人までに減らし、三〇〇人で統治して三万人に監督させ三千万人に管理させて残りの人間を奴隷化しようと考えているの。彼らはスムーズに事が運ぶように計画を進めているけど世界経済の破綻が起こってしまって予定が狂ったのよ。土壇場で核戦争となる可能性があるわ。そうなったら彼らは地下都市へ逃げ込んで残った人間は見捨てるわ。だから、その前に計画を阻止するのがわれわれ夢次元エージェントの使命なのよ」
「M師はそんな話までしなかったけど、いずれ解るとだけ言ってた。真理恵さん、いやゼロゼロYTか。君も仲間だったなんて・・・」

 わたしはこの悪夢が早く覚めないかと思った。しかしすでに、これはわたしの現実だった。

「では私は持ち場にもどるので真理恵、基地内を案内してあげてくれ」と吉川が言って席を立ちドアから出て行った。
 先ほどまでのシゲさんとはまるで人が違ったように感じられたが、格好は薄汚れた作業服で、髪の毛を後ろで束ねた顔の黒いただのホームレスだった。真理恵は薄いクリーム色のスカートを履き、小綺麗な格好だ。

 ふっと昨夜のことを思い出した。
「あのさ、ゆうべのことなんだけど。密造酒飲んで気分よかったけどその後のことを覚えてないんだ。確か・・・」
 真理恵が笑いながら、「あんなことしておいて」と悪戯な目で洋介を見た。
「記憶がないんだよ」頭を振って洋介が言った。
「そうね、お酒にちょっと薬を入れたから。でもそのお陰でちゃんと予定通りになったわ」
「じゃ、僕がここに来ることが?」
「ええ、あなたの潜在意識に、つまり山田さんゼロゼロKYに働きかけておいたの。起きたらここに来たくなったでしょ?」
「何をしたんだ?」
「催眠術よ」
「誘導催眠ってやつか」
「いいえ、誘惑催眠」真理恵がそう言って笑った。

「ところで君、本当は誰なんだ?」
「それはまだ内緒よ。いっぺんに全部を話したらあなたの頭が混乱してしまうわ。それにまだほかにも知っておかないといけないことが沢山あるのよ。物事は順番があるから焦らないことが大事だと思ってね、いいかな」
 真理恵の言い方は、まるで幼稚園児を扱う保育士のような諭し方だった。わたしである洋介あるいは洋介であるわたしは、ほんわりとした気持ちになって、うんと頷いたのだった。
「じゃあ基地内を案内しましょうね」と真理恵が言って椅子から立ち上がり、洋介を促した。

 会議室を出て隣の扉に入ると、古レンガで組まれたトンネルが奥へと続いていた。薄暗いトンネルの中はひんやりと涼しく、天井から水滴が滴り落ちていた。歩く靴音がコツコツと穴に響いた。まるで迷路のような長い回廊を進み、幾つかの扉を開け、最奥の扉の前で真理恵が電子ロックを解錠した。

 そこは一見してボイラー室のような部屋だった。中央に置かれた貯水タンクからパイプ管が出ていて、大きなモーターのようなものに繋いであった。装置から腹に響く低い回転音が唸っている。
「ここは地下基地の動力源よ」
「へえ、ひょっとして原子力かなにか?」
「違うわよ。もっと進んだシステム」
「もっとすごい?」
「いいえ、もっとシンプルな水を燃やすシステムなの」
「水が燃える?」
「信じられないかもしれないけど地下基地の電力、動力はすべてこのブラウンガスでまかなっているのよ」

 ブラウンガスについて真理恵が説明した。
 ブラウンガス、またはHHOガスとも呼ばれ、ハンガリーのユール・ブラウン博士が研究開発した特殊なガスで、ただの水に周波数一八メガヘルツの電磁パルスを与えると、水素と酸素の混合ガスになるのだと言った。またこのガスは不思議な性質を帯びていて、発火すると爆発ではなく「爆縮」して真空化し、しかも対象物によって温度が変わる。通常の温度は二八〇度だが、例えばガラスに当てると八〇〇度の温度になり、タングステンに照射すると三四〇〇度を超えて溶かし始めるとも言った。

「そんな話、初めて聞いたよ」
「自由自在に変化する熱エネルギーなの。これでタービンを回せば発電ができるの。二〇世紀の終わりには発見されていたんだけどエネルギーの既得権に関わる問題だから隠蔽されて、世間には発表されなかったわ。ネットでは話題になったけど、ほんの一部の人間が知っているだけのトンデモ話でしかなかったの。ブラウンガスだけじゃねくて、常温個体核融合という新技術も生まれたけど無視された。放射能物質を使わない画期的なシステムなんだけど、これはもろに原子力発電に抵触するから徹底的に隠蔽されて。だから、私たちはシステム化が簡単なブラウンガスを選んだのよ。水があればいいから」
「石油もウランもいらないって? 水だけで?」
「そのとおりよ」
「驚いたな」
「でしょ」
「これが普及すれば世の中が一変に変わるな」
「でもそうならないのが世の中の仕組みよ。もっといろんな新技術が開発されているけどすべて隠蔽されているわ」
「なるほど。革命的技術が表に出たら、それこそ革命だな。旧型がいらなくなっちゃうから大損する連中が必死になるってわけか」
「そうよ。じゃあ洋介さんがもっと目を剥くものを見せてあげるわ」

 発電室を出て、またレンガ回廊を進むとさらに地下へ降りる階段があった。頑丈そうな鉄の大扉があり、今まで見た部屋の扉を開けるのとはわけが違う重々しい雰囲気があった。実際、真理恵が扉のロックを解除するのに手間取っていたので、最新兵器が格納されている場所に違いないと興味がそそられた。

 洋介も手を貸して左右に押し開けた大扉の中は、暗くてよく見えないが小学校の体育館くらいだろうか相当な広さがあるようだった。真理恵が柱のスイッチを押すと天井のLED照明が次々に点灯し、広い空間にずらりと並べられた鉄製の棚と、整然と積み上げられた無数の段ボール箱が目に飛び込んできた。

「これ、爆薬?」
「まさか。ここ食料備蓄倉庫よ。段ボール箱は缶詰類やフリーズドライ食品、真空パックした米、蒸留水などが入ってるわ。それから医薬品の箱もあるし、その左奥には穀類や野菜類の種を保存する部屋もあるの。その種は遺伝子組み換えされていない安全なもので今後の世界で人類にとって何より重要なものになるわ」
「種が?」
「ええ。F1って聞いたことあるでしょ」
「ああ、一世代しか実のならない種だよね」
「そう。世界はその種でコントロールされるのよ。もう、かなりそうなっているけど。種を支配する者が人類の命を支配することになるわ」
「じゃあ、この種を公園村に植えるってことか」
「いえ。もっと先の話。ここの食料も緊急事態までは手をつけないことになってるのよ」
「でもすごいな。こんなに食べ物があるなんてさあ。どれくらいあるの?」洋介の腹が鳴った。
「そうね、ここだけで一万人で三年分かな」
「ほかにも?」
「都内に何カ所かこういう地下倉庫があって、そこには食料が備蓄してあるの。わたしたちが何年もかけて蓄えたものよ。でも、もう一年もすればこれが必要になるときがくるわ」真理恵がそう言って、うずたかく積み上げられた段ボール箱の山を見上げた。

 それを聞き、洋介は都内で飢えに苦しむ大勢の人間たちの修羅場を思った。今はまだそれでも何とか食べ物はあるが、タイ米もいつまで輸入できるか知れたものではない。野菜類は不足してきているから畑地化の計画も進められているが、供給が間に合うかどうか懸念されていた。しかし、いざ食糧難となって、これを供出したところで今でも五〇〇万人からいる都民を養うことは無理だろう。

「この食料って誰のために?」洋介が率直にそう聞いた。
「都民のためって言いたいけど、私たちの目的は食料ボランティアではないわ。世界統一政府に対抗する仲間のためよ」
「その仲間ってどのくらいいるの?」
「私たちのような夢次元エージェントはそんなにいないわ。まだ接触していないドリーマーが増えるとしても東京で五〇人くらいかな。でもね、ホームレスの仲間を合わせると現状三万人ってところかな」真理恵の物言いは、調理場で話していたときのものと明らかに違っていた。
「ドリーマー?」
「そう、私たちはそう呼ばれるのよ。ドリーミングのドリーマー。夢が次元の突破口でしょ」

 ドリーミングという表現がわたしは気に入った。確かに、わたしは夢の窓口から移動して、自分の時代から二年後の今に飛んで来ているのだ。それにしても、真理恵に溶け込んでいるゼロゼロYTとは誰なのか。彼女が言ったようにいっぺんに解ろうとしても混乱するだけだろう。

「とにかくその三万人で立ち上がるってわけだね」と洋介が言った。「で、どうやって戦うの? 武器はあるの?」
「戦争をするわけじゃないのよ」と、真理恵が諭すように言い、話を続けた。「知恵で戦うの。民意を増やすことが武器。三万人がどんどん増えて東京で三〇万人が三〇〇万人になれば、世界統一政府に従おうとする日本政府の一部の政治家や官僚も無視できなくなるわ。三〇〇万人が伝播して全国規模になって数千万人になればもっとよ。もちろん日本だけの問題ではなから、ほかのアジア諸国とも連動する必要があるでしょう。中国にも夢次元エージェントはいるわ。ほかの国にも。だからまずは自分たちの国民に気づいてもらうことが先決よ」

 そこまで話して、真理恵が溜息をついた。
「何か大きな問題でも?」
「ええ、あなたも気づいているでしょ。夢の島移転計画」
「君たちも知っていたのか」
「もちろん。もっと知ってるわ」
「どんな?」
 扉が開き、吉川が入ってきて、「もう一度、会議室に来てくれないか。もう少し説明しておくことがある」と言った。
 洋介は、今聞いたばかりの疑問をすぐに吉川に問うた。
「夢の島移転計画の先って何なのですか?」
「それもこれから話そう。これからの重要事項だからな」
 わたし(洋介)は胸の高まりを感じながら吉川と真理恵の後ろに続き、巨大な地下倉庫を出て会議室へと続く薄暗いトンネルを歩いた。

                ○○○

 会議室の扉を開けると、中央の部屋で先ほどまで作業をしていたメンバーがテーブルに並んで座っていた。吉川と洋介(わたし)は前面の席に座った。
「皆に紹介しておこう。本日から正式なドリーマーとなった石井洋介さんと山田一雄さん、ゼロゼロKYだ」

 席に着いたメンバーから拍手が沸き起こり、わたし(洋介)は、気恥ずかしい気分になった。
 すぐ正面に座っていた四〇代の男が口を開いた。
「私は高野隆こと多田和彦ゼロゼロKTです。河口真理恵さんこと立花葉子さんはゼロゼロYT。右後ろにいる野川典子こと北村明子さんはゼロゼロAKです。もっとも本名もエージェント名もふだん使いませんけどね」

 ふたりの名前とエージェント名まで含めると、その紹介は複雑となった。つまり、わたしの場合で言えば石井洋介こと山田一雄ゼロゼロKYだ。
 部屋を見渡し数えると、吉川と真理恵を含め、そこには十二名のドリーマーが座っていた。ということは、この部屋で自分は十三番目のドリーマーということだろう。

 わたし(洋介)に向いて吉川が言った。
「私は吉川重則こと長瀬謙三ゼロゼロKNだ。名前というものはその世界に帰属する証明だが、どの立場にフォーカスするかで変わるものでもある。君は山田一雄だが、この時代では石井洋介なのだよ。だからそろそろ石井君に全面的に任せて、山田さんはガイド役に徹するドリーマーにならねばならない。そのほうがスムーズにことが運ばれる。石井君にとって山田さんは霊的存在とも言えるからね。ここにいるメンバー達はすでにその域に達して使命に当たっているんだよ」

 話を聞きながら、わたしはじっと考え込んだ。自分としても洋介に任せている気でいた。
「わたしもそう思ってましたが、どうも自分が全面に出ることがあってどうしたらうまくいくかと悩んでて」
「その感触は自分で掴むことなんだが」吉川がそう言い、一呼吸おいて続けた。「M師はもう君に話しかけないだろう。でも静かに見守っている。君を信頼しているからだ。その感覚だよ。ここでメンバーの秘密を知ったから、もう君もここを出る頃にはそうなっているよ。知るということはそういうことだ。みんなそうだったからね」
「まあ、わかりました」わたしは深呼吸をして、ゆっくり頷いた。

「では、本題に入ろう」吉川がそう言って、わたし(洋介)を高野隆の横に座らせた。
 吉川が正面のボードに貼られた東京都の地図を指で示した。戸山公園村から東京湾の埋め立て地へ指を滑らし、夢の島移転計画が予想よりも早まっていると言った。それにどう対処しなければならないかを話し合いたいと皆の意見を促した。

 洋介の隣の高野隆が口を開いた。
「真理恵さんからの情報によると八月から移転が開始されるということですが、それに伴って都がどういう動きをするのか、さらに具体的な情報が必要だと思います。移動勧告を出したところでホームレスが素直に応じるとは彼らも考えていないでしょうから、なにか強制的な方策を練っていると思います」
 高野隆の話に真理恵が応じた。
「おっしゃるとおりそこがまだ判らないんです。前川課長からもまだ何も。たぶん、もう数日で掴めると思いますけど。今度の週末に外で会うことになっています」
 吉川が「では、そのときにできるだけ詳しく探ってほしい。今回はかなり食い下がってでもな。君の正体がバレるぎりぎりの線まで迫ってでもね」と言い、眉間に皺を寄せた。「ところで石井君。彼女、工藤香織さんから何か聞いていないかね?」

 その質問にどう答えたらいいのか迷った。対策本部に身を置く香織の立場を考え、彼女が不利な状況に追い込まれることが心配だった。まだ、香織は洋介の正体を知らないのだ。
「ここ数日まともに顔を合わせていないんです。彼女、都庁に詰めていて何か進展があるんだとは思いますが」
 吉川が首を立てに振った。事情は理解しているといった表情だ。
「とにかくだ、どんな情報も漏らさず記録して報告してほしい。石井君にも専用の携帯モバイルを渡しておく。ちゃんねるCO2というサイトがあるから、そこも使って極秘メールをやり取りするんだがその件はまた詳しく説明しよう」

「質問なんですが」と洋介が言い、「香織にいったいどう話せばいいんでしょうか。彼女はまだ何も知らないんですが」
 洋介の問い掛けに吉川が一瞬、考える表情を見せた。「まだ知らせないでおいてほしい。君には気苦労を掛けるが今のままの状態をキープしていたほうが情報を得やすいはずだ。仮に今、君の正体を話して彼女を信じさせられる自信があるかね?」
「かなり混乱するでしょうね。それに彼女のお腹には赤ん坊もいて・・・」
「まだそっとしておいたほうがいいよ」
「ええ、わかりました」

 後列に座る三〇代後半の野川典子が口を差し挟んだ。
「本部長付きの工藤香織が最も正確な情報源になるわけですよね」
「そうだ」と吉川が答えた。
「だったら石井さんがエージェントの中で最も情報に近いところにいるんだから、今週中に探るべきだと思います。それと工藤香織がまだ味方と考えないほうがいいんではないでしょうか。その点を石井さんに念を押しておくべきです」と、野川典子が淡々と話した。

「そうだな」と言って吉川が洋介の顔を見た。「エージェントに重要な要素はそこだ。敵を欺くにはまず味方からということだよ。騙してでも工藤さんをうまくコントロールすることだ。石井君、出来るかね?」
「ええ、まあ何とか・・・」
「私は地上ではシゲというホームレスだ。君も疑うことなかっただろ?□しかし、君は統括係長になった杉山泰子に対しては疑っただろう。彼女も公安警察が正体だが、われわれのほうが一枚上手をいかなければならないんだよ。なぜなら彼らは体制側だからだ。立場的に不利にいるのはわれわれなんだ。それをよく理解しておいてくれたまえ」

 洋介の頭の中には、これまでに読んでいたスパイ小説の数々の場面が浮かんでいた。最後の最後まで誰がスパイなのか、誰がテロリストなのか、誰が味方なのか、判らないのだ。ときに自分さえ欺かなければならないことさえある。今、吉川から使命のために愛した女を裏切ることができるかと問われていた。正直な感情には、香織を裏切ることはできないとという答えがあった。であれば、彼女を味方につけるしかない。そのタイミングはいつか。それは判らない。

「まだ質問があるんですが」と洋介が言った。「夢の島移転の先で一体何があるんですか?」
「それは改めて話すことにしよう。とにかく君は今夜、工藤香織さんから都庁会議の中身を聞き出してほしい。それを明日、報告してもらいたいんだ」
「できるだけ」と洋介は答えたが、まだ心の中では悩んでした。

 吉川が次の会議は明日の七時からにしたいと言った。「石井君も、その時間なら出席できるだろう?」
「ええ、終業時間は五時半ですから大丈夫です」
「何かあったらメールで知らせてくれ。暗号コード表は後で真理恵からもらっておくように。それから地上での行動は単独で。真理恵と一緒に動くときは特命行動のときに限りだ。上に出たら食料配給班主任、石井洋介。いいかね」
「はい大丈夫です」
「では、また明日の七時によろしく。一〇分前に公園村の箱根山の登り口に来てくれ」

                ○○○

 洋介は武者震いをして席を立った。会議室を出て指令室で真理恵から携帯モバイルを受け取り、使い方と暗号チャートのレクチャーを受けた。時計を見ると昼を過ぎていた。自分の携帯に香織からのメールが入っていた。今夜は早めに帰られそうだからと短いメッセージがあった。こんな地下深くでメールが受信できるのは、独自の電波管理がなされている証拠だった。作戦本部とは単なる穴蔵の隠れ家などではなく、本格的な施設であると思われた。

 真理恵に誘われて入った食事室に昼食が用意されていた。公園村でホームレス達が食べているものに比べ豪勢な弁当だった。
「体力勝負だからちゃんとした物を食べてね」と真理恵が言ってお茶を注いでくれた。
「サバの味噌煮もハム入りのポテサラも旨いな。味噌汁もちゃんとした味だし、この梅干しの酸っぱさも久しぶりだな」洋介が白い飯を頬張った。
「缶詰だけど美味しいでしょ」真理恵が母親のような目で洋介を見ていた。
「いつもこんなご馳走を食べているのかい?」
「エージェントの特別食よ。これからはさらに身体を張って頑張らないといけないから」と真理恵が笑った。

 だが、その笑いにはどこか陰りがあった。これからどうなるのか何もわからない。味噌汁を啜る洋介にはその先がポッカリ空白だ。今夜、香織からどんな話が聞けるだろうか。不安が入り混ざって胃のあたりが重かった。弁当へ伸ばした箸の動きが鈍くなっているのを真理恵が見て言った。
「私もね、最初のころはそうだったわ。いったいどうなちゃうのって」いつもの真理恵の口調に戻っていた。「でもね、この仕事が多くの命に関わることだって理解してからは勇気が出て何だってできるようになったの」

 洋介の脳裏に前川課長の顔が浮かんだ。好きでもない男と身体の関係を結んで、この女は情報を得ているのだ。キャバクラ時代に夜の世界を知ったといっても、性風俗のように身体を売っていたわけではないだろう。気に入れば客とも寝ただろうが、それは身を売ったのではない。使命ならば身も売るのがエージェントというものだ。いや、時には人の命も取らねばならないかも知れない。

「真理恵さん、君はとても強いね」
「そうね、私は気丈なところもある反面、寂しがり屋。立花葉子がサポートしてくれてるから頑張れるの」
 その名前を聞いて、洋介の胸中に小さな嵐が巻き起こった。
「あの、もしかして立花さんって、葉子?」
「やっと気づいてくれたようね。そう葉子よ」
「ほんとなの・・・」

 洋介が大学のゼミ時代にいっしょだった立花葉子なのだ。あの引っ越したアパートで同棲した相手だった。洋介は同時に複雑な心境になった。
「私ね、あなたにこうしてまた会えたのとっても嬉しい。一緒に心理学を勉強してた時代が懐かしいわ。でも複雑よね。だって真理恵だもの」そう言って静かに笑った。
「いや、僕だって複雑だよ。山田一雄だもんな。でも僕は僕だしさ」
「そうよ私は私。私も真理恵も繋がっているからもう何も違和感ないわ。ほら心理学で習ったでしょ。多重人格っていうのはね、科学的には解明できないでいたけど本当はこういうことなのよ。一人の人間にパーソナリティがあるでしょ。そこにほかの人格が現れると精神分裂として扱うけど、そうではなくてもうひとつの人格はもう一人の人格だってこと。精神そのものは有機体ではないの。電磁的な不可視の存在なの。ほら、オカルト的には憑依現象で説明してるでしょ。あれ、科学的な現象なんだけどそうとは理解されていないだけ。今だったら私、学術論文書けるけど学会からは受け入れられないかな」
 そう言って真理恵が静かに笑った。その笑い方は葉子のものだった。あの頃も葉子はおかしな話をすると、静かに笑ったものだ。
「そうかその感触はこうして体験していると理解できるね。僕は山田一雄でもあるわけだけど、その人格と繋がりバランスしていてもうほとんど違和感ないし、山田一雄も黙って静かに溶け込んでいるからなんか姿のない親みたいな感じだ。ときどき頭の中で会話してさ。自問自答みたいにね。最初はこの考えってどこから来るんだろうって不思議だったけどさ」
「洋介には私の姿が真理恵に見えるでしょ。私からはあなた洋介よ」
「おかしいねこれって」洋介が笑った。「でもさ、葉子自身はどの時代のどこにいるの? 神奈川県の実家かい?」

 真理恵は黙っていた。テーブルのお茶を一口飲み、「あのね、私はもう肉体を持っていないの」と静かに言った。
「え、ということは」
「そういうこと」
 葉子が過去の出来事を語った。
 洋介と別れて大学院まで進み、心理カウンセラーを目指した。そこまでは洋介も知っていた。まだ付き合っていたころ、それが二人の目標だった。卒業後、専門訓練を受けて東京都の施設で働き始めたころ、体調を崩して寝込みがちになった。過労のせいだと思ったが担当医の指示で精密検査を受けた。白血病だった。通院生活が始まり目眩が度重なるようになって入院した。早く復帰してカウンセラーの仕事に復帰することを望んでいた。だが、回復への希望も叶うことなく、五ヶ月後に葉子は亡くなった。入院中に書いた洋介への手紙を出すことはついになかった。
「私ね、あなたにもう一度、会いたかった。その夢がこうして叶ってる。ねえ洋介、不思議でしょ?」
「ああ・・・」あのころの葉子の顔が浮かび、目の前には真理恵がいた。
 洋介がゆっくり真理恵の肩を抱き寄せ、やさしく抱いた。真理恵の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちていた。

 わたしは黙ってその光景を眺めていた。そして、わたしから見れば、どの人格存在も愛おしいものに感じられた。繋がっている者たちには愛が巡り合い隔たりがなかった。人は人を肉体として見て、その肉体をつうじて愛を感じているのだということがわかった。だが、愛しているのは不可視な人格存在だ。肉体はまとっている衣服と変わらない。この感覚はまさしく霊的視野と呼べるものなのだ。

 真理恵である葉子が言った。
「今話したこと忘れることにしましょうね。私はあなたからすれば幽霊って」
「いや、そんなことはないよ。君は実在するんだから」
「そう言ってくれるだけでいいの」葉子が静かに微笑んだ。
「わかった。じゃあひと言だけ言っておきたい。葉子のこと好きだったんだよ。ただ、別れた後それがうまく言えなかった」
「そうね、人間の心って思うようにならないわね。でも、その言葉が聞けて嬉しかったわ。ありがとう」葉子がそう言って真理恵の中で静かになった。

「私もこのことが言えてすっきりしたわ。だって、気持ちがずっと引っかかったままだったんだもの」と言った。
 もう彼女は真理恵の眼差しに変わっていた。

(10章へ つづく)


おついたち

2011年06月01日 07時59分01秒 | 航海日誌
月初めとなりました。気分を一新して参りたいと思います。

世の中で気づきが始まっています。やはり、今回の原発は相当の精神ショック療法になっていると感じます。隠されていた「嘘」が表出し、それが余りにあからさまなものですから、嫌でも気づかされる。それでも気づこうとしない人もいる。それは原発当事者かもしれません。いちばんマインドコントロールに陥っている人々です。気づいた人は幸いです。