『ソウルボート航海記』 by 遊田玉彦(ゆうでん・たまひこ)

私たちは、どこから来てどこへゆくのか?    ゆうでん流ブログ・マガジン(エッセイ・旅行記・小説etc)

ドリーマー20XX年 10章(後編)

2011年06月12日 21時02分00秒 | 近未来長編小説『ドリーマー20XX年』
【あらすじ】
新宿で働く安サラリーマン、山田一雄45歳。将来の希望などさしたるものもない独身暮らし。楽しみといえば給料日に歌舞伎町のキャパクラへ行くことぐらいだった。この男がある日、奇妙な夢を見始める。白髭の老人との対話の末に、夢旅行へ誘われ、時空を超えた旅が始まる。やがて辿り着いた世界は、20XX年の新宿だった。

(右下の欄のカテゴリーで、1章から順にお読みください)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

~~~10章(後編)~~~

               ○○○

 戸山公園村への出発が二時間ほど遅れ、中央広場での配給が始まったのは午後一時を回ってからだった。村民たちは今日の配給が届くのを温和しく待っていた。もちろん吉川重則は、河口真理恵を通じて事態を掌握していた。洋介が中央広場に現れたのを見届けて、吉川がふだんと変わらない表情で近寄って来た。

「主任さん、また今日はずいぶん遅かったな」
「すみません。ちょっとした手違いがあったものですから」
「手違い? それで二時間も遅れるかい。ま、配給してもらえるんだから文句は言えねえな」吉川が豪快にカカカッと笑った。「そう、そうそう、今日は確かに暑い一日だな」

 取ってつけた挨拶で、真理恵から事情は聞いているという合図だとすぐにわかった。
「そうそう暑いですね。このぶんだと今日は涼しくなるのは日が暮れて八時くらいかな」
「そうだな八時か九時かってところか」と言ってまた笑った。
「じゃあ九時には寝るか。今日はもう疲れましたからね」

 今夜の地下会議を八時に変更してほしいと暗に伝え、吉川が九時で構わないと答えたのだ。洋介には、午前中の騒ぎに対し、区役所に戻ってまだやらねばならいことがあった。まず、香織を保護することが第一優先の課題だ。そのためには、杉山泰子が今後どういう行動に出るかを探る必要がある。戻れば緊急会議が開かれる可能性もあった。とても五時三〇分に退社できそうにはなかった。

 広場での配給が始まれば洋介にはこれといって仕事はない。配給の様子を見守りながら吉川と雑談も気楽にできた。
「ところでシゲさん、最近、顔を見てないけど姪御さんは元気ですか?」
 洋介は真理恵(葉子)の事を心配していた。特別室で杉山泰子と戦い、あれほどのエネルギーを一気に放出して平気なわけがなかった。
「おう、あの子か。まあ元気は元気だが最近の疲れがどっと出て寝てるよ。回復するにゃ当分かかるだろうな」

 命に別状はないが、やはりかなりのエネルギーを消耗しているということが理解できた。身体は真理恵だが、精神の半分は葉子なのだ。しかし、今の話だけでは真理恵と葉子の間に精神乖離が起こったのかどうかまでは判らなかった。洋介はふたりのことが心配だった。
「精神的にも相当に疲れているのかな?」
「そりゃそうさ。惚れた男にふられちまったなら女の子は落ち込むだろうな」
 吉川が意味ありげにそう答えた。

 大勢がいる広場で話せるのはここまでが限界だった。後は地下基地での会議まで待つよりなかった。場違いな話をして、周囲の者に聞かれてもまずい。村民の中に杉山の仲間の公安警察が紛れ込んでいる可能性もあるのだ。

 そう思いながら洋介が見回していると、配給に並んだ列の中に、先日の引っ越しの日に早稲田通りで出くわした男の顔があった。洋介が目を合わせると相手もそれに気づいたのか、こちらを見返し、首をかしげる様子を見せたあと、わかったという表情を返した。それからほどなくして雑炊が入った椀を手にして男が近づいて来た。

「お兄さんって、この前、引っ越しのときに会った人でしょ」親しみを込めた表情で微笑んだ。「黒砂糖うまかったな。ありがとさん」
「どうですかその後ここでの暮らしは?」
「お陰さんで餓死しないで生きてますよ。あんときは三日も何も喰ってなかったからね。俺は谷田部っていいます。今後ともよろしく」
 その谷田部と名乗る男が、隣にいる吉川のほうをちらりと見て話を続けた。
「シゲさん、この人にね、ここに来る日に偶然会ってね」と言った。
「石井主任は俺たちに親切にしてくれるから大事な仲間ってところだ。谷田部さんも彼に協力してやってくれな」
「そりゃもう何かあったらすぐ手伝うから言ってくださいよ」そう言いながら傍を離れていった。その後ろ姿を見ながら吉川が言った。
「谷田部って新入りだよ。早朝のゴミ集めも積極的にやってる。好奇心旺盛なのか何にでも首を突っ込みたがるところがあるがな」
「そうですか。まあ、よく働いてくれるならいいじゃないですか」何食わぬ調子でそう答えた。
「働きにもいろいろあるさ」斜を向いたまま、吉川がそう言った。

 吉川と洋介が立ち話をしていると、同僚の深田勝が配給トラックから戻ってきて対策本部から連絡が入ったと告げた。
「杉山さんがですね、配給が終わったら公園村を念入りに巡回してくれって。不審人物や不審物がないかを見届けてどんなことでも帰ってきてから報告するようにということです」
「報告って何をだ?」
「公園村の監視態勢を強化するんだそうですよ。本部に帰ったら緊急会議だそうです」
「じゃあ、ふたりで回るか」
 洋介はそう言って、吉川を一瞥して深田と園内パトロールに出た。

 公園村の林の中には幾つものテントが張られていて昼間でも静まりかえっている。大抵の住民は配給食料を食べた後は昼寝しているか、街中へ出ているかだ。村内を歩き回っている者の姿は殆ど見当たらない。
「不審者って言ったってねえ」と深田が無駄骨だと言いたげにして枯れ枝を蹴った。「やっぱり今日の騒動で杉山課長、頭が変になったんだな」
「杉山さんは何事もなかったと言ってたがとてもそうだとは思えないな。何か隠している気がするけど」洋介は深田に同意を求めるような口調でそう言った。
「僕もそう思うんですよ。だいたい電子ロックが壊れているってのも変ですよね。チーフが言ってたように誰かが進入して騒ぎが起こったとしか説明が付かないでしょう?」
「それはそうなんだが」洋介がいつものクセで鼻の頭を掻いて言った。「情報管理ってつまり対策本部のセキュリティ担当ってことだからな。その本人が事件ではないとハッキリ言うのをこれ以上疑うこともできないしな」

 二人が話しながら箱根山の登り口に辿り着いた。山といっても四四メートルほどの丘程度のもので、頂上へと登る階段状の遊歩道がある。今夜、九時になれば、またここへ来て吉川重則と落ち合うことになっていた。付近には地下基地へと通じる入り口があるはずだが、今の洋介にはその場所がわからなかった。

 洋介は何気ない顔を装いながらも、箱根山の周辺に注意を傾けながら歩いてみた。入り口らしき気配のする場所があるかどうか。もし、今の自分にそれがわかるようなら、むしろ問題なのだ。どんなことでも報告せよという杉山の命令が頭の中で交錯していた。このまま杉山泰子に従い体制側につけば、香織の安全も心配しないですむのかもしれない。ふと、そんなことを考えていた。

 箱根山の頂上に登り、あたりを眺めた。周囲の森が見渡せ、東京の真ん中にいることを忘れさせる景色だった。
「なあ深田。移転計画の問題だけどおまえどう思う?」
「どうかって聞かれてもそりゃもめるでしょ」
「おまえならどうする」
「どうするってどの立場で?」
「ここの住人としてなら」
「それならここに立て籠もって戦うかも」森を眺めながら深田が真剣な表情を見せた。
「俺はそんな日が来そうな予感がするんだ」洋介がそう言い、腕組みをした。「もし、仮にそうなったら深田はどっちの味方につく」
「何だかそれ戦国時代の話みたいだな。負けるとわかって山城に立て籠もって味方する武将になるか敵方に寝返るかって。歴史ドラマなら覚悟を決めた武将がカッコいいですけどね」
「おまえ今、立て籠もって戦うって言っただろ」
「それはここの住人ならって話ですよ」と深田が笑った。
「なら、俺に付いて戦うか」洋介も笑った。

 だが、それは腹の中では真剣な問い掛けなのだ。洋介より上背があり、頑丈そうな体躯の深田は立派な武将になれると思う。真理恵は武器で戦うのではなく、民衆を集めて非武装での戦いだと言ったが、局面では肉体での戦いを避けることはできない気もするのだ。現に今日、香織を守るために杉山泰子と戦うことも辞さない覚悟でいる自分がいた。真理恵(葉子)の助けがなければ、ドアを破って力ずくで阻止していたはずだった。だからこそ、自分の傍に心強い味方が欲しかった。深田勝に今、全てを打ち明け、味方になってもらいたい。洋介の心が動いていた。

「あれ、お二人さん」そう声がした方を向くと、先ほど広場で顔を合わせた谷田部が登山階段から姿を見せた。「こんなところで休憩ですか。配給とっくに終わりましたけど」
「休憩ってわけじゃ。公園内を視察していたところですよ」
「そりゃご苦労さまです。ところで主任さんにちょっと相談があるんですがね」と、にやけた顔で言った。
「何ですか相談って」
「いや相談ってわけじゃないんですがね、この公園村に変な噂があるもんで、ちょっとお伝えしといたほうがいいかなと」そうもったいを付けて話を止めた。
「噂ってどういう?」
「いや、単なる噂だからやめときましょう」と自分で切り出した話の腰を折った。「聞いても気味が悪いだろうから。そうそうまた何かうまいもん喰いたいな」

 そういうことかと洋介は理解した。この男は情報を提供するから、その見返りをくれと要求しているのだ。それならそうで男の使い道がないわけではない。洋介はそう思い、背中のリュックからクッキーの袋を取り出し、男にやった。
「ほう、さすが主任さんだ。いいもん持ってますね」
「で、その噂って?」
「いやね、幽霊が出るってんですよ。女の幽霊が夜中に森をさまよってるのを見たって。しかもね、その幽霊が美人なんだって」声を落としてしゃべっていたのが、急に話っぷりを変えた。「でもね、ありゃ幽霊なんかじゃありませんぜ。きっと歌舞伎町の売春婦くずれだろうってね。でもね、俺の考えじゃ、こんなところで商売もなにも。何か別の目的でもあるんじゃないかと読んでるんですが、まだ正体が突きとめられないんで。もちろんそれがわかったらお伝えしますよ」
 谷田部が一方的にしゃべり、したり顔を見せた。

「そうですか、そんな噂がね。公園村の管理は責任がありますから、またどんなことでも教えてください」
「ええ、もちろんですよ。いつでもお知らせしますんで」そう言った切り、さっさと階段を下りて姿を消した。
 すかさず深田が「何か調子のいい奴だな。あんな奴にクッキーもったいないな」と言って舌打ちした。
 洋介が返して言った。
「餌だよ。これからは情報が色んな意味で重要になるさ」

            ○○○

 その日、夕方五時から開かれた緊急会議には、対策本部の部課長以下、公園村担当者が全員、出席していた。いつものコの字に置かれた会議テーブルに顔を連ねているが、その中に工藤香織の顔だけがない。香織は、あの特別室の騒ぎの後、体調が悪くなり医務室で療養していた。公園村から戻った洋介が医務室に行くと、香織は点滴を打ったまま眠っていた。洋介は彼女の傍を離れたくはなかったが、会議に出席しなければならなかった。

 中央席に座った杉山泰子が開口一番で、今日の騒動を謝った。
「午前中はお騒がせして申し訳ありませんでした。調査した結果、器具の故障は電圧に問題があったことがわかりました。私のほうは何ももう問題はありませんのでご心配なく」
 そう述べた後、まずは資料映像を見てほしいと言い、室内の灯りを落としてモニター画面に写真を映した。戸山公園村の広場での配給場面や、森の中のテント村の様子などか映されたあと、航空写真による空からの公園村全体が映った。それを見せながら杉山が話し続けていた。
「現在、戸山公園村には二五一八人の住民がいます。写真でご覧のように見た限りではふつうに暮らしているようですし、今のところ大きな問題も起こっていません」
 そう言いながら次の写真を映した。

「しかし監視カメラによると夜間にはこのような映像が記録されています」
 その連続写真には森の中を歩く若い女の姿がコマ送りで映っていた。次のコマにはその女の姿が木の陰に消え、その先のコマには姿が映っていなかった。どう見ても、忽然と姿を消しているのだ。すぐに洋介は谷田部が話した女の幽霊の噂を思い出した。

「石井さん、これは何だと思いますか?」唐突に杉山がそう聞いた。
「その写真だと顔はよくわかりませんが若い女の姿のように見えますね」
「ではなぜ深夜に公園内に若い女がいるのか。どう思います?」
 戸山公園村の入所は、風紀管理のため若い女性は居住を認めてはいない。二〇歳までの独身女性は家族居住者と同じく新宿御苑村に住むことになっていた。
「私には理解できませんが想像で言えば夜中に若い女が現れたのなら売春婦ということも考えられるかもしれません」

 洋介がそう答えると、深田勝が隣で相づちを打った。
「深田さんもその意見ですか?」
「ええ、そんな噂があるみたいで」
 深田がそう答え、洋介はまずいと思った。谷田部の話は止めて置きたかったのだ。洋介が口を挟んだ。
「噂というのは幽霊が出るとかなんとか誰かねなくしているものですよ」
「そうですか。その幽霊というのは恐らくこの女のことでしょう。しかし、この最後のコマで消えているのが問題です。幽霊なら有り得ますが」杉山がそう言って、珍しく笑った。「そこで今日、お二人に見回りをお願いしたのですが何か不審な点はありませんでしたか?」
 会議テーブルの下で深田の靴を洋介が踏んで置き、すぐに答えた。
「とくに変わったことは見当たりませんでした」
「公園内の全体を回りましたか?」
「ええ、ほぼ大体は」

 そう洋介が答えると、杉山がプロジェクターのリモコンを押し、次の写真が映し出された。それは深田と一緒に洋介が箱根山へと続く遊歩道を歩いている姿だった。
「この写真に特別な意味はありません」と杉山が断り、話しを続けた。「このように要所要所に監視カメラが設置してあり、村民の行動は概ね監視しています。今のところ問題はお見せした女のものだけです」

 杉山泰子が室内の灯りを点けさせると、明るくなった室内で参加者同士の話し声がざわざわと響いた。ほとんどの職員は、監視体制について何も知らなかったのだ。
 来週、都庁へ移籍する山本対策本部長が口を開いた。
「来月から公園村移転が始まるため、都庁情報部で公園内ならびに村民の調査をおこなってきました。お見せした写真は情報部資料によるもので本部職員の皆さんにも認識していただきたいものです。それから来週から私は都庁情報部へ移籍しますが、杉山さんとも密に連携を取り管理体制を強化してまいりますのでよろしくお願いします」
 そのあと、杉山泰子が話を継いだ。
「今後も公園内の調査を進めますが何か問題点があればご報告ください。とくに石井さん深田さんは戸山公園村の担当ですから、今後は配給後に公園内を巡回して調査報告をお願いします」
 深田がそれに対し、職務外の仕事なのではないかと問い掛けた。
「調査は情報部でおこなっているのなら配給班の私たちがそこまでする必要があるんですか?」
「監視の目は少しでも多いほうがいいのです。それにお二人は村民と顔なじみだから、情報を得やすいということもあるでしょうから。そうですよね、石井さん」
 いきなり話の矛先を洋介に向けられた。
「ええ、何かわかったらお伝えします」と洋介が短く答えた。
 杉山が「ほかに何かご質問はありますか?」と言ったが、いつも率先して質問をする配給班主査の原博史も、昼間に杉山に引っ掻かれた頬を撫で、黙ったままだった。

 この会議を終え、洋介は香織がいる医務室へ向かった。ベッドで休んだ姿を見て洋介は安心した。ひょっとしてベッドにいないのではと思っていたのだ。どこかへ連れ去られ、ふたたび洗脳プログラムをされているのではないかと心配していた。

 目を閉じていた香織に声を掛けると、ゆっくり目を開けて微笑んだ。
「頭がズキズキしたりしない?」
「もう平気よ」
「そうか良かった。なら、これから一緒に帰ろう」
「帰りたいけど、今夜はここにいて安静にしろって」
「誰が指示を?」
「杉山さん」
 洋介が溜息をついた。「だってここ夜間は看護士もいないだろう? こんなところに君を置いていけないよ」
「杉山さんが看護士に夜勤を頼んでくれたわ」香織が微笑んだ。「だから洋介は心配しないで」
「香織、君は知らないんだよ」洋介の表情が硬くなり、間を置いて言った。「冷静に聞いてほしいことがあるんだ。実は杉山さんは内部調査のために潜入している公安警察なんだよ」
 すると、香織が首を小さく振って言った。
「ええ、知ってるわ」
 その言葉を聞き、洋介は一瞬、身がこわばった。
「知ってるって、いつから?」
「杉山さんが本部に移籍して私が都庁へ呼ばれてから」
「知ってること隠してたのか」
「だって、あなたが知っていること今、知ったから」
 洋介は二の句が継げなかった。洋介は頭が混乱していた。ここで何をどう問い質せばいいのかわからなかった。ベッドの横に立ったまま、呆然としている洋介に香織が言った。
「あなたは心配しないで家に帰って。あなたが知っていることは黙っておくわ」

 洋介はそれに何と答えたらいいのか解らなかった。杉山の指示に従うという香織は、もうすでにある程度はマインドコントロールされているのか。今の発言から、そうとしか思えなかった。
「香織、お腹の子ども平気だよね?」洋介がやさしい声で囁くように言った。
「ええ、明日は検査日よ」
「杉山さんは知ってるの?」
「ええ、話してあるわ」
「何か言ってた?」
「何も」
 それを聞いて、洋介に悪い予感が浮かんだが、すぐに打ち消した。脳波を刺激するプログラムが母体に影響しないはずがないのだ。胸が張り裂けそうな感情が湧き起こった。
「やっぱり香織、帰らないか」
「駄目よ。規則違反になるから」
「そんな規則、誰が作ったんだよ」
「情報部よ。私その情報部員だもの。規則に従わなければ処分されるわ。あなたもよ。夢の島に拘置されるの」
 香織がそこまで話し、静かに目を閉じた。

 洋介は一気に脱力感に襲われた。時計を見ると、七時を回っていた。
「わかった。僕も朝まで君を見守る。それならいいだろう?」
「無理しないで」と香織が目を開けて言った。「でも、必ず杉山課長の許可をもらってね」
「一度、出かけてくるから。十一時には戻るよ」
「どこへ行くの?」
「大事な約束があって」洋介は咄嗟に理由をこじつけた。「米の横流し情報を提供してくれるっていう人間に会うんだ。ほら、密造酒を飲ませる闇酒場で。杉山課長に僕も協力しなくっちゃな」
「そう、その話も課長に報告しておいて」
「もちろんだよ。じゃ、行ってくるね」
 洋介はもう、成るようにしかならないと、半ばヤケになっていた。

              ○○○

 時間がなかった。区役所の公用自転車を飛ばして戸山公園村へ一〇分余りで着き、自転車は公園村裏の路地に隠した。そこで用意してあった汚れた作業服に着替えた。顔はつばの広い帽子とマスクで隠していた。監視カメラはLED灯に取り付けられている。姿が映らない場所を選びながら、わざとびっこを引き、さらに猫背で歩いて箱根山の登り口に辿り着いた。運悪くモニターされても、ホームレス村民にしか見えない演技だった。

 登り口の裏陰に人の気配がした。それに気づかないフリをしながら、ふらふらと近寄り、「腹へったな、何か食い物ないかなあ」と独り言を吐きながら裏陰に身を潜めた。吉川重則が目くばせして、着いて来いと顎で指し示す先に周りを草で囲まれた一角に古い石地蔵があった。台座は朽ちかけたコンクリート製で、吉川が手にした小さなリモコン装置をかざすと、音もなく台座がスライドして暗い穴が現れた。吉川がその中にすっと身を入れたのに続いて洋介も同じようにして身体を滑り込ませると、瞬間で入り口は閉まっていた。吉川が暗い穴蔵にハンディライトを照らすと、細い階段が地下へと続いていた。

 前に地下へ降りたときと同じくらいの深さを感じ、地面に足を着けると、古いレンガで組まれた地下トンネルだった。ライトを持った吉川の後ろに着いてトンネルを三〇メートルほど歩いた先に錆びた鉄製の扉があった。握り拳ほどの頑丈そうな古い鍵が掛けられていたが、リモコン装置をかざして扉を押すと留め金がギイギイと鳴って開いた。その奥は、やはり古レンガで組まれた広い空間で、そこでやっと吉川が口を開いた。

「ここは旧陸軍の地下基地跡だ。東京の地下にはこんな場所がいくつもある」吉川の低い声がレンガの壁に響いた。「ここまでくれば、もう電波も届かないだろう」
「携帯電話は置いてきましたから心配はないと思いますが」
「携帯のGPS追跡だけじゃない。君の身体にマイクロチップは埋め込まれていないだろうが、その前段階に来ているから用心に越したことはない。ゼロゼロKY、君が想像しているよりももっと情報管理がおこなわれているんだよ」
「ええ、公園内の監視カメラも思った以上に細部が撮影されているのを会議で知りましたから」
「都庁情報部は国家安全保障局情報管理部の直轄で動いていて、丹念な調査をおこなっているよ。さすがに我々がドリーマーだということまでは知らないだろうが、秘密裏に行動しているということはある程度は察知しているはずだ」
「香織も情報部員にされる直前なんですよ。どうすればいいか指示をください」
「さあ、奥へ入ろう」
 そう言って吉川が右奥のレンガの壁に近づき、携帯モバイルをかざしてそのまま壁を押すと、ドア一枚分の壁が奥へと引っ込み、横へスライドした。また、その奥にスチール製のドアがあり、電子ロックのボタンを押して、やっと地下本部の部屋に入ることができた。

 会議室へ入り、今日の事態の対策を練ることになった。会議室には、河口真理恵を除く十一人のメンバーが顔を揃えて二人を待っていた。
「まず、石井君から状況説明をしてもらいたい」と吉川が言った。「大筋の流れから頼む。細部についてはそのあとでいい」
「はい。今朝、配給出発前に河口真理恵さんと顔を合わせたあと地下倉庫で前川正太郎と会いました。その後すぐに報告会議があり人事異動が伝えられました。山本本部長と工藤補佐が都庁へ移籍になり、前川が本部長、杉山が課長になるとのことです。この会議のあと杉山から別室に呼ばれました。部屋には工藤香織がおり、私との関係についての話でした。工藤は都庁の情報部員となるため私との接触が規制されると言われました。その後、工藤は特別室で適正プログラムを受けるということでした」
 そこまでを話し、洋介がテーブルに置かれた水を飲んだ。

「その先を続けてくれたまえ」と吉川が促した。
「私は工藤香織の危険を感じ、河口さんに暗号で調理仕上がり時間を延長してくれと指示しました。すぐに八階特別室へ行き中の様子を探ろうとしましたが鍵が掛かっていて入られませんでした。そのとき、河口さんのドリーマー、立花葉子の声が聞こえました。代わりに中へ入って阻止してくれるということでした。私も立花さんの意識にフォーカスして内部の様子を見ました。寸でのところで立花さんが阻止しました。杉山が卒倒したので前川本部長へ連絡し、米の横流しの話で誘導して特別室へ行かせました。いえ、その前に私が一度、特別室へ侵入して工藤に何も知らないフリをして寝たままでいるよう指示しました。それから前川を誘導したのです。事態が発覚して職員らで駆けつけて杉山を起こしましたが、彼女は部屋であったことのすべてを否定して単なる機器の故障として処理しました。その後、配給へ出かけました」

「それから?」と、また吉川が促した。
「私は立花さんの状態を心配しました。本当に大丈夫なんですか?」
「心配しなくていい。それはあとで話すよ」吉川が手短に答えた。
「公園村から対策本部へ戻ると、すぐに杉山が招集した緊急会議がありました。公園村監視体制についてのものです。そこで監視カメラの映像が見せられ、深夜に森を歩く女の姿が映りました。意見を求められましたが売春婦ではないかと答えました。しかし、その写真の数コマの最後で女の姿が忽然と消えており、杉山が幽霊なら有り得ると冗談めいて言いました。これからは公園内の監視を強化するということでした。それから私と深田勝に毎回の監視パトロールを義務付けました」
「その話だが一点抜けていないか?」と吉川が言った。
「あ、そうでした。公園村を監視パトロールしているときに箱根山で谷田部が現れました。女の幽霊が出るという噂があると話ました。ただ、谷田部はその女は何かの目的があって公園内に入っていると言っていました。まるで自分は情報屋気取りでいるみたいでしたよ」
 吉川が表情を変えずに「あの男は情報屋だよ」と言った。「まだ、正体不明だが公安警察かほかの組織の者の可能性がある。調査中だ」
「そうですか。単に欲で動いている男にしか」
「プロはそういうものだよ。で、そのあとは?」

 洋介がまた一杯、水を飲んで話した。
「あとは医務室の香織、いえ工藤を見舞いました。体調は回復しているようでしたが今夜は医務室に泊まると言いました。杉山の指示とのことで私は彼女が心配でしたから帰るように言いました。それでも残るというものですから、つい杉山が公安警察だということを話してしまいました」
 吉川から批難されると洋介は覚悟したが、「そうか」とだけ言った。「それから何か話したか」
「工藤は知っていると言いました。私が知っているということは内密にすると言いました。さらに彼女は自分が情報部員だといい、規則に反すればつまり私が彼女の立場や情報を知っていることなども含めて容疑を掛けられれば二人とも夢の島特別区に投獄されると言いました。私はまた医務室へ戻ると約束してここへ向かいました。概ねの流れは以上です」

「わかった。今の話で幾つか検討しなければならないポイントがあるな」吉川がそう言って、ホワイトボードにキーワードを書き込みだした。
●八階特別室での立花葉子の行動 ●公園村監視体制 ●女の映像と谷田部の関係 ●情報部員工藤香織 
「まず立花の件だがこれは内部問題だから石井君にあとで話そう。公園村監視体制を強化するということは常駐警備員を園内に配置される可能性がある。そうなれば地下本部の出入りがさらに難しくなる。至急、対策を打たなければならない。この件については別に会議を開く」
 高野隆が挙手をして、「この会議に継いですぐのほうがいいと思います」と口早に言った。

「そうしよう。石井君は何時までここに居られる?」
「外出許可証は持っているので一〇時半までは大丈夫です」
「そうか、では残った者で会議をしよう。次は幽霊の件だ。噂があると谷田部が言ったんだな」
「ええ、幽霊には何かの目的があるとも。幽霊の正体は、真理恵さんでしょう?」洋介は黙っていた思惑を口にした。
「違うよ。真理恵は監視カメラに映るような行動は取らない」
「では、誰なんですか」
「幽霊だよ」
「まさか」
「立花葉子といえば納得がいくかね?」
 吉川にそう言われ、話の焦点が合った。霊体で彼女が動き回っているというのか。
「でも、なぜ?」
「その話はあとでしよう。問題は谷田部が先に言ったことだ。幽霊ではなく女の目的をもった行動だと。それから杉山が問題視している点だ。会議では何と言っていたんだ?」吉川が洋介を見た。
「消えているのが問題だと。幽霊なら有り得るという言い方をしました」
「つまり女の正体は幽霊などではなくどこかに消えたことを疑っているということだ。公安警察ならどう類推すると思う? 木の上か、地下だよ」

 そう言われて洋介も気づいた。「それは拙いです」地下に隠れ家があると勘ぐられ、調べられたら本部が発覚する恐れがある。
「出入り口の対策についてはあとで検討するとして、石井君に動いてもらいたいのは幽霊の噂に関してだ。谷田部の正体はわからんが、あの男を使ってもいいからもっと村民に噂を広めてくれ。それから対策本部内、区役所全体へもだ。だが直接、杉山にはしゃべらないでおくこと。あくまでも噂だが村民は怖がっていると流言されれば、それが事実として受け入れられることになる。人間は結構、単純なものなのだ。いいかね、石井君」
「はい。そのようにします」
「では最後に工藤情報部員についてだが」吉川が溜息をついた。「君にとって最も悩む問題だな」
「もちろんです!」洋介の形相が崩れた。「医務室での様子ではもうかなりマインドコントロールが進んでいると思われました。一刻も早く救出させてください」
「いや、まだ出来ない」吉川がきっぱり言った。
「なぜですか」
「いま動けば君のことが真っ先に疑われる。そうなると今後の活動が不可能になるだろう。投獄され、そうなればゼロゼロKYはお終いだ」
「では、いつなら助けられるのですか」
「都庁情報部へ移籍してからだ」
「待てません。彼女のお腹には」
「わかっているよ。だが作戦行動に私情は禁物だ」

 作戦会議室のドアが開き、河口真理恵が入って来た。
「ボス、提案があります」
「まだ動いては駄目だ」
「いえ、もうかなり回復しましたから大丈夫です」真理恵はそう言ったが、顔色は青ざめ、立っているのが精一杯のようだった。
「では、その提案だけ聞こう。話したらすぐにベッドに戻るように」
「はい。そうします」真理恵が空いた席に座り、ゆっくり話し出した。「私が香織さんに接触して救出します。私なら調理室を辞めさせられるだけですから。もう前川からの情報も必要性がなくなっています」
「だが、どうやって?」
「理由は女どうしの同情です。お腹の赤ちゃんが可哀想だから助けたいと。香織さんは断るでしょうが私が無理矢理に連れて逃げるといった状況にして。薬を使って拉致してでも。決行させてください」
 真理恵が息を継ぎながらそこまでを話し終えた。吉川は腕を組んで考え、その提案に回答した。
「いまのところ救出作戦としては最も可能な手と思う。だが、いまの君の状態では無理だ。気持ちはわかるが許可できない」

 真理恵の横に座っている野川典子が心配そうな目で彼女を見て言った。
「河口さん、あなた自分の身体のとこを気遣うときよ。いま無理をしたら元に戻れなくなるわ」
「そうだ真理恵」と吉川が言った。「移転計画が実行される直前で何が最優先されるのかだ。君は回復を待って正常な心身で復帰することだ。さあベッドに戻りなさい」
「真理恵さんありがとう」洋介が腕を取って言った。「あなたの気持ちは受け取ったから、ゆっくり静養してください」

 真理恵が部屋を出たあと、吉川が言った。
「石井君ここは正念場だ。我々には大勢の日本人の命が掛かっているということを忘れないでほしい。いいか、まだ話すつもりはなかったが事態が急変しているからな」吉川が言葉を句切り、「夢の島移転計画とは今後の都民の振り分け作業のことだ。下級民Cまでが生き残れることになる。後は、つまりホロコーストだ」
「ホロコースト?」洋介は口を開けたまま、吉川の話を聞いていた。
「人口コントロールということだ。また、その事実を知った下級民Cはヒツジのように温和しくなる。彼らは今後の世界統一政府が統治する日本区の労働民となるんだよ」
「もう、今の時点でそこまで把握されていたんですか」
「そうだゼロゼロKY。君が観た未来をわれわれも観ている」
「そうなんですか! もっと知りたいことが」
「わかっている。段階を追って教えていくから焦らないことだ」
「ええ。ただ香織を何とかしないと」
「香織さんは必ず救出すると約束する。今夜はもう時間がない。君は帰って彼女の傍にいてあげなさい」
 洋介は無言のまま、ゆっくりと頭を下げた。その目には今にも溢れそうな涙が溜まっていた。

(11章へ つづく)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿