『ソウルボート航海記』 by 遊田玉彦(ゆうでん・たまひこ)

私たちは、どこから来てどこへゆくのか?    ゆうでん流ブログ・マガジン(エッセイ・旅行記・小説etc)

メメントモリ2

2010年10月17日 16時17分16秒 | 未知への扉
記憶とは、面白いものです。久しぶりに食べた鰻丼が旨いと感じつつ、食べ終わると忘れていますが、ちゃんと記憶されていて、ふとまた鰻丼が食べたくなる。これと同じように、生活中のどんなことも、記憶していますが、ふだんは忘れています。その繰り返し。嫌なこと辛いことも、喉元過ぎれば熱さを忘れるです。忘れてまた、リフレッシュできます。

人により、この記憶のリピート度合いは差がありますが、基本的には同じパターンです。経験は記憶され、その時の喜びや辛苦は、継続しないようにできている。なぜ、そうなるのか? そこに時間というものが介在しているからです。私たちは生まれて来て、死に至るまで、何度もいろいろなことを味わえる「恩寵」をもらっている。それが「時間」というものの成せる技のようです。

昨日、書いた私の体験談では、身体を離れると、時間感覚が在りませんでした。精神だけが思考する感覚です。空間も時間もなく、ゆえにその精神を圧迫する要因がない。ただ、思考があるだけです。時空間が介在しないので、過去や未来からも完全に独立しています。悩みも何もありません。いっけん素晴らしいことのように思えるかもしれませんが、そんなことではなかった。ああ、また鰻丼が食べたいなどという思いも湧いてこない。第一、身体がないのだから腹も空かない。暑くも寒くもない。精神に影響を与える要素が何もない。

それはまるでコンピュータの中にいるデータのようなものといえるかもしれません。そのデータをもとにすべてが思考できるが、実態がないので何も感じないのです。無味乾燥。でも、データ上のすべてがわかる。面白くもなんともありません。ですから、「生」というものは、「時間」という「もの」の内で、精神がさまざまな体験を謳歌できる約束となっているのでしょう。身体は、そのための乗り舟なのです。だから、この貴重な期間を味わえる身体を与えてくれた親に、先祖に感謝するのは当然のことです。死を体験して想った、忘れていたこととは、このことでした。