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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

宇野十郎少佐は爆撃機操縦の名手、陸軍航空の花形であった

2020-08-10 03:04:59 | コラムと名言

◎宇野十郎少佐は爆撃機操縦の名手、陸軍航空の花形であった

『日本憲兵正史』の第四編第三章「憲兵の服務」から、「日本降伏特使機の不時着」という記事を紹介している。本日は、その四回目(最後)。
 文中、誤っていると思われる部分には、下線を引いておいた。

 ところが、このときに空襲で殆どの建物を焼失した浜松飛行場の一角で、天幕を張って悠々と泊込んでいた一人の将校があった。重爆の鬼才といわれた陸軍航空の花形宇野十郎少佐(陸士四十四期)である。
 宇野少佐は宇都宮教導飛行師団のベテランで、富山飛行場で終戦を迎えたが、八月十六日、宇都宮の師団司令部からの電話連絡で、直ちに上京することになった。その命令とは次のようなものである。
 敗戦後、マッカーサー司令部の命令で、憲兵隊と飛行一個隊は残されることになるらしい。そこでその飛行隊長に命ぜられたので、直ちに東京の憲兵司令部へ出頭せよ、というものであった。
 この命令が何処から、どうして流布されたかはわからないが、宇都宮教導飛行師団の幹部はそう信じたのである。
 翌十七日、宇野少佐は航空機で立川に飛び、憲兵司令部に出頭した。すると司令部には、すでに操縦士と整備員のベテラン約三十名が待機していた。宇野少佐は日本最後の飛行隊長か、これが最後のご奉公だ、と笑いながら命令を待っていると。憲兵隊も飛行一個隊も残されるというのは、不可能であることがわかった。そこで再び連絡のため、宇野少佐は十九日に浜松教導飛行師団へ行って別命を待っていたのである。そして二十一日の暁を迎えた。宇野少佐はかって第六飛行師団隸下の白城子〈ハクジョウシ〉教導飛行団のべテランとして、ラバウルを基地に、数々の作戦に出動した爆撃機操縦の名手であった。そこで師団の新原秀人中佐らは協議のうえ、特使一行の操統士を文句なく宇野少佐と決定した。空輸する機は九七式重爆Ⅱ型であった。
 宇野少佐は飛行場司令と上原大尉に、
 「それでは行って参ります」
 と挨拶して飛び去った。このときの模様を上原憲兵大尉はその著書「ある憲兵の一生」で次のように結んでいる。
 「飛び立つと間もなく、東京方面から輸送機一機が飛来したが、宇野機の発航を見て、宇野機を護るように二機並んで東の空へ去った」
 夜はようやく明けて、明るい夏の太陽が強い陽差〈ヒザシ〉を投げかけていた。見送る上原大尉は、ほっと安堵の胸を撫でたが、操縦士の宇野少佐の緊張振りは大変なものであった。 そこで機内の模様は宇野少佐の回想を入れる。
 「幸い天候に恵まれ、機は無事に立川に着陸しました。けれども、この間、機内の川辺中将以下の特使一行は、窓から外を眺めるわけでもなく、話をする者も全くなかった。敗戦の重みと、マッカーサー司令部の苛酷な要求に、暗澹たる気持だったのでしょう。大変な使命を帯びてマニラから帰る一行の精神的負担は、私が想像するより遥かに重いものだったでしょう」
 こうして、宇野少佐は特使一行を無事に立川飛行場へ降ろし、再び浜松へ帰ったのである。

 本日、紹介した部分は、典拠が不明である。最後の、「宇野少佐の回想」も典拠不明である。
 上原文雄著『ある憲兵の一生』(三崎書房、一九七二)は、「宇野少佐」に言及しているが、フルネームは示されず、所属などについての記述もない。岡部英一著『緑十字機 決死の飛行』(静岡新聞社、二〇一七年六月)もまた同様である。
 なお、文中、「九七式重爆Ⅱ型」とあるのは、「四式重爆撃機」(キ67「飛龍」)の誤りと思われる(『緑十字機 決死の飛行』一六五ページ参照)。「立川に着陸」、「立川飛行場へ」とあるのは、それぞれ、「調布に着陸」、「調布飛行場へ」の誤り。「川辺中将」とあるのは、「河辺中将」(河辺虎四郎中将)の誤りである。

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