礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

まあよかった、日本は破滅を免れた(つださうきち)

2024-07-10 04:53:33 | コラムと名言

◎まあよかった、日本は破滅を免れた(つださうきち)

 本日も、『八月十五日と私』(角川文庫、1995)からの紹介。本日は、津田左右吉(つだ・そうきち、一八七三~一九六一)の「八月十五日のおもいで」を紹介する。これは、何回かに分けて、全文を紹介したい。

 八月十五日のおもいで    つださうきち
 
 五年まえの八月十五日に戦争のやめになったことを知ったのは、イワテ県のヒライズミに於てであった。その年の六月の末からそこに立ちのいていたが、トウキョウにいた時で すら、戦争が実際どんなありさまであるかというようなことは、たしかには殆どわからなかったのであるから、ヒライズミにいってからはなおさらであった。ただこの東北の農村では、どこにそんな戦争があるかと思われるほどに、全体の空気がのんびりしているように見えた。戦闘帽をかぶっているものはあっても、ものものしい鉄兜などをしょっているものは無く、防空壕というようなものがそこらには見あたらなかっただけでも、いくらか気を軽くした。勿論これは、この土地のことをよく知らぬものが、外から見た一応の感じに過ぎないものであり、トウキョウとくらべてのことでもあるので、土地の人たちの一人一人についてよく聞いてみるならば、戦争のために受けているいろいろの苦しみがたれにでもあることは、わかったであろうがしかしその土地の或る人からも、戦争だというのに申しわけが無いほどのんきです、ということを聞いたことがあると思う。それでわたくしも、おちついてしかけたしごとを続けることもでき、中尊寺見物をしたり、雲がかかった り消えたりする東山の美しいながめに見とれたり、そういうこともできた。けれども、新聞やラジオであちこちの空爆が毎日報道せられ、本土決戦だとか、死中活を得るとか、竹槍をどうかするとかいう、気ちがいじみた宣伝が騒がしい調子で叫びたてられているのを、見たり聞いたりするだけでも、そんなことで日本をどうしようとするのかと、気が気でな いこころもちになることも多く、ほの聞いたことのある、早く戦争をやめさせようとする或る方面の人々の動きが、その後どうなったかと思うこともあった。そのうちにソ聯が日本に対して宣戦したという噂が伝わった。散歩の途中で或る人からはじめてそれを聞いた時には、ほんとうかどうかわからない気がした。いよいよほんとうだとわかった時には、どうしてだしぬけにこんなことをすることができたのかと、ソ聯のやりかたに驚きもしたが、またそれがソ聯のやりかただとも思われた。それには他からのはたらきかけもあったであろうが、そのことがソ聯の思うつぼにはまったのであろうと想像せられた。内地では 空爆がますますはげしくなって来た。ヒライズミのようなところでも、爆撃をうけてかなりの数の家が焼けた。たしか八月の十一日か十二日のことであったと思う。トウキョウの大空爆にあっているのだから、これにはさいて驚かなかったが、あちこちの都市のひどい爆撃をうけていることを思うと、またしても、政府は日本をどうするつもりかと思わずにはいられなかった。そこへあの十五日が来たのである。
 天皇陛下の御放送がありますと、二階の間がりをしていた家の階下から、その家の人が知らせてくれた。階段を下りて見ると、近所の人たちも幾人か集まっていて、頭を下げて聴いていた。放送はもう始まっていたのである。はっきりしないことがところどころあったが、大体の意味はわかった。終るとすぐに二階に上がって、すこしのうちはぽんやりしていたように思う。そうして、初めて明かに意識せられたことは、ほっとした気もちであ った。まあよかった、日本は破滅を免れた、という感じである。次には、なさけない日本のあわれな姿が今さららしく目に浮んで来た。さて戦争はやめることに決ったが、これからどんなことが起るであろうか。これはその時には全くわからず、見当もつかなかった。【以下、次回】

 文中、「トウキョウの大空爆にあっている」とある。津田左右吉が平泉に疎開したのは、1945年(昭和20)6月であり、それ以前、東京で同年3月の東京大空襲を体験している。

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