礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

大佛次郎「英霊に詫びる」1945・8・22

2024-07-01 01:07:52 | コラムと名言

◎大佛次郎「英霊に詫びる」1945・8・22

 先月、某古書店の均一台から、井上ひさし他著『八月十五日、その時私は……』(青銅社、1983)という本を拾いあげた。この手の本は、これまで何種類も読んできたが、そうした諸書に比べて、セレクションが優れているという印象を受けた(惜しいことに、編集者の名前が記されていない)。 
 この本には、二十八人の作家による二十八の文章が収められているが、本日は、大佛次郎(おさらぎ・じろう)の「英霊に詫びる」という文章を紹介してみたい。

  英霊に詫びる      大 佛 次 郎

 御大詔を拝承した八月十五日の夜は、灯を消して床に就いてからも眠れなかった。闇に眼をあいていて夢のようなことを繰返し考えた。
 その闇には、私の身のまわりからも征いて護国の神となった数人の人たちの面影が拭い去りようもなく次から次へと泛んで〈ウカンデ〉来た。出版社の事務机から離れて行った友もいる。平穏な日に自分の行きつけた酒場で、よく麦酒を飲みかわし、愉快な話相手だった新聞記者の若い友人もあった。僕を見ると、目顔で笑って庖丁を取り註文はしないでいても私の好きな鯒【こち】に手際よく庖丁を入れてくれた横浜の「出井」の主人もいた。六大学リーグ戦の時だけ、スタンドで顔を合せ、仲善く喧嘩相手になって、シイズンが去るとともに別れて了う不思議な交際の人もいた。和歌に熱心な町のお医者さんもいた。その人たちとのお互いの心の交流が如何に貴重なものだったかという事実は、失って見てから切実に知ったことである。皆が静かな普通の町の人であった。その人々が前線に鉄と火の飛び交う境に立って後見せぬ兵士の、たくましい姿と成り了ったと云うことが、私【ひそ】かに焼かれるくらいの強引な変化であった。
 いつの日にかまた会う。人なつこげな笑顔が、今も目に見える。毒舌を闘わせながらも目もとは優しかった人々。この次会う時は真心からつかみたいと願っていた手の体温も、死者の冷やかさを覚えしめるのである。白い明け方の空に、一つずつ星が消え去って行くように、一人ずつ君たちは離れて行った。身のまわりに幾つかの空洞が出来、耐え難い寂寥の底からも、私どもは歯を喰いしばって勝つ為にと呻く〈ウメク〉のみであった。君たちは還らぬ。私の知っている君たちの他に、無限に地平に続く影の行進がある。その一人一人の父親がおり、妹や弟がいる。御大詔の発せられた日の午後、靖国神社の前で若い男女の学徒が一人ではなく人目も顧みず泣きむせび、立ちすくんでいるのを見たと友達が来て話してくれた時、言葉もなく私も涙を呑んだことであった。
 切ない日が来た。また、これが今日に明日を重ねて次から次と訪れて来ようとしている。生き残る私どもの胸を太く貫いている苦悩は、君たちを無駄に死なせたかという一事に尽きる。これは慰められぬことだ。断じて、ただの感傷ではない。はけ口のない強い怒りだ。縫いようもなく傷をひらいたまま、私どもは昨日の敵の上陸を待っている。冷静にせねばならぬ、我々自身が死者のように無感動にせねばならぬ。しかも、なお、その時、君らの影を感ぜずにはいられようか?
 古い外国の画報で、私は一枚の写真を見たことがある。世界大戦〔第一次世界大戦〕の休戦記念日に、戦死者の木の十字架が無限の畑のように立っている戦跡に立ち、休戦が成立した深夜の時間に、昔の戦友のラッパ手がラッパを吹奏して、死者に撃ち方止めを告げている写真であった。地下に横たわってからも敵に向って銃をつかんで睡らずにいる戦友に、莞爾として銃をおろさせ安らかな睡り〈ネムリ〉につかせる為であった。私は思う。その時の仏蘭西〈フランス〉は勝って停戦したのである。それに引代えて私たちは、君たちの御霊〈ミタマ〉を鎮める為に何を支度せねばならぬかと。
 畏【かしこ】くも御大詔は、その道を明かに示し給うた。私どもの前途の闇に、荒涼としたものながら、一条の白い路が走り、地平に曙の光さえ見える。傷ついた日本を焼土から立ち上らせ、新生の清清【すがすが】しいものとして復活させる。過去の垢をふるい落して、新しい日本を築き上げる。その暁こそ私どもは君たちの御霊に、鎮魂曲を捧げ得るのではないか? 君たちの潔よい死によって、皇国は残った。これを屈辱を越えて再建した時、君たちは始めて笑って目をつぶってくれるのではないか。三千年来日本の歴史は決してすらすらと平坦な道を進んで来たのではない、幾多の断層があって飛躍を必要とした。西洋流の計算や合理主義では解決出来ぬものを、私共の祖先は自分たちでさえ説明の出来ぬ方法で、苦しみながらも無雑作に乗越え、健実な後代を我々に遺してくれた。明治の門を開いた維新の世直しもそれであった。政治の技術は下手糞で、余計な犠牲を出しながらも、向う道は誤らずに日本の大を成したのが不思議なくらいである。恵まれた国といわざるを得ない。それにしても累代の国民の刻苦と労働の果実が国を支えて来たのだ。毀すのではなく作り生む努力が――
 歴史は未曽有の大断層に逢着し聖断が下された。目をつぶって、我々は昨日から飛躍する。君たちが遺して逝った神州不滅の愛国の信念を、日本の再建に連結する。昨日まではなかった希望は焦土にも生れつつある。日本人は未曽有の試煉にも耐え、屈辱と見えるものも雄々しく乗越える。敵がまだ昨日の心持でいる間に先へ出て明日を生きて見せるのだ。待っていて欲しい。目前のことは影として、明日を生きよう。明日の君たちの笑顔とともに生きよう。その限り、君たちは生きて我らと共に在る。この大道を行く限り、死も我々の間を引裂き得ない。私はそう思い、そう念じる。 (「朝日新聞」昭和二〇・八・二一)

*このブログの人気記事 2024・7・1(8位になぜか斎藤謙三)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする