礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

本土決戦よ、早くはじまれ(小松左京)

2024-07-17 00:54:15 | コラムと名言

◎本土決戦よ、早くはじまれ(小松左京) 

 角川文庫『八月十五日と私』(1995)の紹介に戻る。本日は、作家・小松左京(1931~2011)の「昭和二十年 八月十五日」を紹介したい。ただし、かなり長いので、その後半のみ。これを何回かに分けて紹介する。

 昭和二十年 八月十五日    小 松 左 京

【前半、約5ページ分を割愛】
 八月七日の新聞――タブロイド版といって、いまの新聞紙一ページの半分の大きさだった。――は、広島でおちた「新型爆弾」の記事が一面にのっていた。八月九日には、一面焼け野原になった中で、焼けただれてガイ骨みたいになった市電と道ばたにゴロゴロ石のようにころがっている頭蓋骨の写真がのっていて、米国のこの暴虐!とうたっていた。
「これはどうも、原子爆弾らしいぞ!」
 と名古屋大の動員先からかえってきていた兄貴はひと目みていった。
「へえ! 原子爆弾?」
 マッチ一箱の大きさで、富士山をふっとばせるとつたえられた原子爆弾の事は、私たちは戦争がはじまるころから知っていた。――アメリカがとうとう、そいつを完成させたか、と、兄と私は興奮して語りあった。妙な事だが、そのものすごい兵器を、アメリカが完成させたという事についての敗北感はなかった。かえって敵が完成させたのなら、日本も、 もうじき完成させられるはずだ、というおかしな確信があった。
 その翌日の新聞の下隅に、ソ連が、まだあと一年の期間がのこっている「日ソ中立条約」を一方的に破棄し、宣戦布告して攻撃を開始した記事がのっていた。――しかし、私たちはちっとも動揺しなかった。どっちにしたって、もうじき決着がつく。アメリ力でもソ連でも中国でもやってこい。本土決戦よ、早くはじまれ――そんな、妙に軽々とした気分だった。むしろ、決定的に動揺したのは、動員先で銀行屋の息子の友人から、「日本は、もう負けた」
 という話をきいたときだった。――日本は、無条件降伏することにきめ、銀行の上層部では、いま資産をかくしにかかっている……。そのショッキングな「秘密ニュース」を、私たちは昼休みの工場の物かげで、息をのんできき、きくだけきいてから、その友人を、「日本が敗けたなんて、きさま、非国民だ」といって、みんなでぶんなぐった。【以下、次回】

 小松左京は、本名・小松実(みのる)。敗戦当時十四歳で、神戸第一中学校の生徒だった。

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