◎柳田博准尉は捕虜殺害の事実を明らかにしなかった
『日本憲兵正史』から、第三編第二章「憲兵の服務」にある「広島及び長崎へ原爆投下と憲兵」という記事を紹介している。本日は、その四回目。
昨日、紹介した部分のあと、一行あけて次のように続く。
最後に原爆下の憲兵隊に関する後日談を紹介してこの項を終る。
終戦後、最も問題となったのが連合軍捕虜の処遇問題である。終戦前、中国地方一帯の捕虜は全員広島に集結していたが、将校以上は参謀本部の命令によって直ちに東京へ送られ、下士官、兵三十三名が広島に残されていた。
被爆当日、二十三名の捕虜は殆ど爆死したが、数名の生存者は怒り狂った市民および兵隊によって殺害されている。終戦後、広島の捕虜について虐殺の噂が広まると、連合軍総司令部は柳田〔博〕准尉を招致して取調べた。だが、柳田准尉は約一年間にわたって、ついに捕虜殺害の事実を明らかにしなかった。捕虜数名は確かに殺害されているが、そうでなくとも、被爆した捕虜が果たして助かったかどうかはわからない。原爆によって一瞬に壊滅した広島の市民や兵隊たちが、その怒りの炎を捕虜に向けたその心情は、当時の広島で原爆に遭った人々以外には、到底理解できないと信じたからである。柳田准尉が無罪放免となったのは、これから約一年後のことである。
【一行アキ】
また、当時、広島に吉田白竜子という異色の人物がいた。吉田は若い頃に早くから満州にわたり、満洲事変のときには奉天特務機関の花谷正〈ハナヤ・タダシ〉少佐とは特別な関係にあったりして、憲兵とは格別縁の深い人物であった。しかも、張学良に媒殺された楊宇霆〈ヨウ・ウテイ〉の甥楊虎城〈ヨウ・コジョウ〉と、張学良への復讐戦を計画するなど、当時の政界右翼とも接触が深かった。満州において活躍した吉田白竜子には、このように軍の要人および憲兵に知己が多かった。この吉田白竜子が、米軍の本土上陸を予期して、広島憲兵分隊の柳田准尉に一案を提していた。それはいかにも血気の吉田らしい着想で、民間の快速艇を集め、これに魚雷や爆弾を積んで、上陸作戦を展開する米軍艦船に、体当たりをするという特攻作戦である。吉田白竜子はこれを広島刑務所の囚人を動員し、自ら先頭に立って決行しようというわけである。
柳田准尉はこの案に対して、吉田の意気を壮としながらも、それは憲兵隊の職分を越えるものであるとの見地から、軍司令部に紹介した。吉田白竜子はこの案を軍司令部の幕僚に申入れてその返事を待っているうちに、運命の八月六日となった。
この日、早朝、子供の疎開先へ行くため、午前七時頃、広島駅に来た吉田白竜子は、駅付近で新劇俳優の丸山定夫一行〔移動演劇さくら隊〕に会った。丸山定夫とはかねて面識があったので、何気なく拶挨して別れた。吉田が芸備線で現地に向かい約三時間余りたつと、途中の釈で広島の大災害を耳にした。もちろん、まだ噂の段階であるから原子爆弾とはわからない。そこで吉田白竜子は直ちに広島へ引返した。時間は午後四時頃であったという。広島駅の手前から歩いて市内へ入ると、駅付近で再び丸山定夫らに会った。今朝会ったばかりなので特に印象に残ったのだ。丸山定夫らの新劇団員一行は、広島の原爆で死亡したが、これで即死でなかったことは確認されたことになる。【以下、次回】
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