礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

意想まとまらず筆を擱くやへとへとなり(大佛次郎)

2024-07-26 00:04:30 | コラムと名言

◎意想まとまらず筆を擱くやへとへとなり(大佛次郎)

 大佛次郎『終戦日記』(文春文庫、2007)を紹介している。本日は、八月十五日の日記を紹介する。このあと、二十日までの日記を紹介する予定である。表記は、文春文庫版のとおり。

 八月十五日
 晴。朝、正午に陛下自ら放送せられると予告。同盟二回〔同盟の原稿二回分〕書き上京する夏目君に托す。予告せられたる十二時のニュウス、君ヶ代の吹奏あり主上親【みずか】らの大詔の放送、次いでポツダムの提議、カイロ会談の諸条件を公表す。台湾も満洲も朝鮮も奪われ、暫くなりとも敵軍の本土の支配を許すなり。覚悟しおりしことなるもそこまでの感切なるものあり。世間は全くの不意打のことなりしが如し。人に依りては全く反対のよき放送を期待しありしと夕方豆腐屋藤崎来たりて語る。午後感想を三社聯盟の為書く。岡山東取りに来たる。昂奮はしておらぬつもりだが意想まとまらず筆を擱【お】くやへとへとなり。夕方村田宅を訪ね工場の様子を尋ねる。啞然とせるもの多しと。健ちゃん熱をおして出勤せるもの、長広大佐以下全然知らずにおりしと話す。大佐少将級で何も知らずにおり報道を聞き愕然とせしらし。篠崎を相手に残りいる酒飲む。床に入りてやはり睡れぬなり。未曾有の革命的事件たるのみならず、この屈辱に多血の日本人殊に軍人中の一途の少壮が耐え得るや否やを思う。大部分の者が専門の軍人も含めて戦争の大局を知らず、自分に与えられし任務のみに目がくらみいるように指導せられ来たりしことにて、まだ勝てると信じおるならば一層事は困難なるらし。特に敵が上陸し来たり軍事施設を接収する場合は如何?
 夜の総理大臣放送も大国民の襟度〈キンド〉を保ち世界に信義を失わざるようと繰返す。その冷静な良識よりも現実は荒々しく、軍には未経驗のことに属す。阿南〔惟幾〕陸相責を負い自刃と三時の報道あり。杉山元も自刃したと伝えられしが虚報らし。
〔山本惣治立ち寄る。〕
〔市中に入りおりし海軍水兵原隊復員にてトラックで続々立去りおる由〕
〔今日出海夕方来たり。放送局に将校現れ十二時前に我々に話させろと強要。放送せしも空襲中にてスウィッチ切れおりしと。〕

 敗戦時、杉山元〈ゲン〉は、第一総軍司令官。8月15日に自決を決意し、当日付の「御詫言上書」をしたためたが、実際に自決したのは、9月12日のことであった。8月15日の段階で、杉山が自決するらしいという噂が広がり、大佛次郎も、この日、どこからか、その噂を聞きつけたということか。

*このブログの人気記事 2024・7・26(8・9・10位に極めて珍しいものが入っています)

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いよいよ降服ときまったので記事書いてくれ

2024-07-25 02:14:04 | コラムと名言

◎いよいよ降服ときまったので記事書いてくれ

 大佛次郎『終戦日記』(文春文庫、2007)を紹介している。本日は、八月十三日と十四日の日記を紹介する。このあと、二十日までの日記を紹介する予定である。表記は、文春文庫版のとおり。

 八月十三日 晴
 早天六時から艦上機の大举侵入があり関東から新潟長野と広範囲に夕方まで連続的に行動。門田君も電車が動いていないことで駅から迴って来る。数回高射砲が鳴りとどろき爆音が聞えた。敵もここを最後と暴れまわっている。夕方硯雲山房へ祝辞を述べに行き焼酎〈ショウチュウ〉馳走になり広安宅へ寄りここでビール二本、帰りて村田(兄)と日本酒のみ、置きざりにして寝室に上り寝て了う。

 八月十四日
 蒸暑い日が続く。敵襲も依然としてやまず。夕刻、岡山東(三社聯盟)来たる。いよいよ降服ときまったので記事書いてくれという。書けぬと答えたが遂に承知。木原門田来たる。九時のニュウス明日正午に重大発表があると報道す。村田宅に呼ばれ行き酒を馳走になる。何となく仕事に手がつかず飲まずにいられぬような状態。吉野君は娘さんを置きに高崎へトラックで行ったそうである。

 十三日の日記に「硯雲山房」とあるが、書家・小野鐘山の住まいを指す。「研雲山房」と表記されることもあったようだ。
 十四日の日記に「岡山東」とあるのは人名であろう。三社聯盟(北海道新聞、中日新聞、西日本新聞)の岡山東から記事を頼まれたのであろう。今月22日の当ブログで、大佛次郎の「大詔を拝し奉りて」という文章を紹介した。8月17日の三社聯盟紙に掲載されたものだが、十四日の日記によって、この文章は、同日に執筆依頼されたものだったことがわかる。

*このブログの人気記事 2024・7・25(8位の山本有三、10位の福沢諭吉は、ともに久しぶり)

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開闢以来のことで何が突発するか予測し難い

2024-07-24 04:40:12 | コラムと名言

◎開闢以来のことで何が突発するか予測し難い

 大佛次郎『終戦日記』(文春文庫、2007)を紹介している。本日は、八月十二日の日記。このあと、二十日までの日記を紹介する予定である。表記は、文春文庫版のとおり。

 八月十二日 日曜
 朝の内、前々日から書き続けている「白猫」の筆を取ろうとしていると津村君が彌生ちゃんを連れてやって来る。麻布随筆、冬の蝿その他を貸す。思いのほか読んでいないらしい。津村君帰り仕事にかかろうとすると松浦良松が伊那谷から出て来る。毎日をやめたという。久振りで出て来て世間が大したことになっているので驚いたという。伊那の松島にもと料理やだった家に間借りしているのだが百姓が物をやらぬと野菜も米も売ってくれぬ。それに疎開人と百姓の間に立つブローカーが出来ていて(もと小商人〈コアキンド〉)悪くなるばかりである。都会人だとあるところまで行くと気持が通じるが百姓には全然そういう性質がなく慾で突張る。元来物々交換の如き取引だったところへ都会人の金にたよる経済が入って来たので混乱し、疎開の人はやたらに金を出すので土地の者に迷惑だという非難が起っている。蜂蜜一升が三百五十円である。二升買うのに現金二百円に地下足袋と手拭地一反に古着類をつけてやると云った状態である。百姓の慾しがるのは第一に塩(塩一升に対し米二升くれる、)地下足袋、はんてんの類の作業着、硫安。食用油は田舎になく慾しがっているが、東京で百八十円から二百円すると云っても決して本統と信じないからそれだけの米も麦も出してくれない。砂糖はないし欲しがらぬ。酒は火をとおしてない腐敗し易いものだが、もと三十円のが八十円から百円に近づいて来た。義勇隊などはきびしく隊長が自分の云うことは天皇陛下の仰有る〈オッシャル〉ことと聞き反対は許さぬと云うそうである。朝鮮の義勇兵が入っているが脱走が多く道筋に平服で憲兵が見張っている。脱走の原因は食事の不足である。上方あたりの部隊で芋畑ばかり作っているのがある。これが米や野菜を強制的に村から供出させて生活し芋を作っているのである。矛盾を極めた話だし土地の迷惑である。国民義勇隊は山地に焼畑〈ヤキハタ〉を作り蕎麦など蒔くのである。松浦君帰り一睡り〈ヒトネムリ〉して原稿を書いていると今日出海〈コン・ヒデミ〉がブウちゃんと云う日大哲学出の男を連れて来る。この男が夕食の天ぷらをしてくれ小暮君の持って来た酒を飲み時局を憂いつつお互いにしっかりやろうという話。軍隊の暴動が起らぬかという不安、武装解除など如何なる形で行わるるにや、開闢〈カイビャク〉以来のことだし他に及ぼす迷惑を考えぬ血気の徒が多いことで何が突発するか予測し難いのである。食料の欠乏、必然のインフレエションのことなど前途は困難のみである。ただそれにしても今日までの希望のまったくない月日とはやや異ったものが生れつつある。門田君から電話、男の子が安産の由、これにはほっとした。今ちゃん酔って終電におくれ、また提灯をつけて歩いて帰って行く。酒を飲んでいる時だけ慰められているようなものである。不健康の感じがとれぬ。
○重臣会議で東郷〔茂徳〕外相が最も強硬で陸軍がいろいろ条件を出して来たのをこんなものは今更容れられるわけがないとはねつけたという。敵は近衛〔文麿〕を交渉相手に指名して来ているという。もろい性格に決して充分な期待は持てぬ、いやな小姑〈コジュウト〉に苦しめられることであろう。

*このブログの人気記事 2024・7・24(10位の福沢諭吉は久しぶり)

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噓に噓を重ねて国民を瞞着し来たった後に……

2024-07-23 04:45:20 | コラムと名言

◎噓に噓を重ねて国民を瞞着し来たった後に……

 本日も、大佛次郎『終戦日記』(文春文庫、2007)の紹介。本日は、八月十一日の日記。このあと、八月十一日から二十日までの日記を紹介する予定である。表記は、文春文庫版のとおり。

 八月十一日
 またひどく暑い日である。朝の内から道路に水を撒く。習慣になったと云うより水を撒いて何かしているような気になって慰めている趣きがある。やけな仕事のようで可笑しい〈オカシイ〉。珍らしく静かな御前〔ママ〕であった。二三機断続的に一機ずつ入って来ただけである。しかしこの一機が入って行った地方は新型爆弾のことを思い平気ではいられぬのだ。疎開に逃げ廻っているのか味方機の濁った爆音が空を通って行く。むしむしと暑い。遅ればせながら田の水が煮え米にはよいのであろう。
 午後木原君が来る。夕方、門田君が東京からの帰りに寄り昨朝七時に瑞西【スイス】瑞典【スウエーデン】公使を介し皇室を動かさざるものと了解のもとにポツダムの提議に応ずると回答を発したと知らしてくれる。結局無条件降服なのである。噓に噓を重ねて国民を瞞着し来たった後に遂に投げ出したというより他はない。国史始って以来の悲痛な瞬間が来たり、しかも人が何となくほっと安心を感じざるを得ぬということ! 卑劣でしかも傲慢だった闇の行為が、これをもたらしたのである。山本さんに電話をかけると今日は藁谷大佐も来たりいよいよ活溌に仕事を始めるという。電話で話せぬからちょっと小暮君をよこしてくれと云う。小暮君来たる。米の配給由比ヶ浜〈ユイガハマ〉になく、五日続けて一家は馬鈴薯ばかり喰べているという話。
○朝刊に重臣論というのが出た。調子の変化がやや表面に出ようとした形である。国家の重臣たるものは単に内閣の首班だったとだったというのでは足りぬというのである。
〔夜さかんに敵機が来た。しかし何となくただ覗いて帰って行くという工合てある。〕

 文中、「門田君」というのは、当時、鎌倉に住んでいた朝日新聞社社員、門田勲(かどた・いさお)のことであろう。

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起とう、やり直すのだ(大佛次郎)

2024-07-22 02:48:37 | コラムと名言

◎起とう、やり直すのだ(大佛次郎)

 本日は、大佛次郎が敗戦直後の8月17日に発表した文章を紹介してみよう。出典は、大佛次郎『終戦日記』(文春文庫、2007)。表記は、文春文庫版のとおり。

  大詔【たいしよう】を拝し奉りて      大 佛 次 郎

 御大詔を拝し奉り日本人の誰か涙をおぼえなかった者があろうか、言葉はない、もっと深い苦悩を背負わされている方が畏【かしこ】くも上御一人〈カミゴイチニン〉だという事実に恐懼〈キョウク〉し戦慄せざるものがあったろうか、われわれは不幸と苦難を約束せられている、しかしこれが何で問題であろうか。
 われわれの周囲は焼野だ、また祖先の前に立たせても恥しからぬ美し〈ウマシ〉若者たちが数多く死んだ、われわれが仆【たお】れる代わりに実に彼らが血を流したのである、神州の不滅を信ずるとその人々の声は繰返し伝えられた、その人たちを戴いたきのうときょう、われわれは別れねばならぬ。
 起とう、やり直すのだ、父祖の百年の努力を破壊したおのれらがより堅固な日本を築きあげて、今上陛下の御代〈ミヨ〉を後代に輝くものとせねばならぬ、戦争以上の勇気と犠牲とが需【もと】められている、男らしくわれわれは立直ろう、今日からはおのれ自身との戦争おのれ自身との対決である、何が足りなかったか? 何が間違っていたか? 冷静にこれを見届けるのだ。
 感傷は抜きだ、私意に溺れてはならぬ、己との対決は外国相手の戦争以上に苦しく我慢の要るものだということも今更覚悟しよう。
 若い人、小さい人たちには一層高い矜持【きようじ】をもってもらいたい、日本民族は君たちによって生かされる、不幸にしてわれわれは敗れた、しかし、この不幸を民族を育て上げる基盤として生かすのだ、堪え難きを忍び冷厳に次代に期待しよう、日本は歴史は古いが民族としては若い、若々しい力に溢れている、最近の百年の歴史を見ても如何に若く柔軟の活力に富んでいるかの証明を幾らでも見出すことができる、また若いから今日躓【つまず】いたのである、しかし転【ころ】びはしない、若い筋肉は直ぐ平衡を取戻す、ベルリン陥落後のドイツ国民は意志力をなくして虚脱状態に陥っていたという、そうなっては滅びるよりほかない、日本は若いいま生れたばかりの赤ン坊のように新鮮に未来のみを見つめてこの若さを発揮しようではないか、勉強しよう、腕まくりをして働こう、立派に起ちなおって見せようではないか。(三社聯盟・現三社連合――北海道新聞、中日新聞、西日本新聞の三紙――昭和二十年八月十七日)

*このブログの人気記事 2024・7・22(2位・9位に極めて珍しいものが入っています)

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