◎日本人のどこに美しく優れたところがあったのか
大佛次郎『終戦日記』(文春文庫、2007)を紹介している。本日は、八月十七日と十八日の日記を紹介する。このあと、二十日までの日記を紹介する予定である。表記は、文春文庫版のとおり。
八月十七日
毎日新聞高松君来たる。小説の件、直江山城と考え承諾。飛行機がビラを撒いて行くのが見える(抗戦の)。少年「楠木正成」を書き上げる。夜門田君、阪田の源さんにビール二本トミモルト一本を持たせ来たる。酔う。磯子〈イソゴ〉あたり水兵が酔って夜半にドラム鑵を叩き、これから戦争だ市民は逃げろと叫び廻る由。なお県で婦女子逃げた方がいいと触【ふれ】したのが誇大につたわり敵の上陸が今明日の如く感ぜられ駅に避難民殺到すと。あさましき姿なり。横浜では警官の持場を捨てて逃亡続出すと。役人からこの姿なのだから国民がうろたえ騒ぐのは当然である。日本人のどこに美しく優れたところがあったのか。絶望的である。味方特攻機土佐沖マリアナの敵艦に突込みしと。停戦命令後の卑怯な闇討である。
八月十八日
敵機来たり高射砲戦時よりさかんに鳴る。午後山田兼次来たる。八時島木健作〈シマキ・ケンサク〉の通夜。雀草【すずめぎさ】虎の尾などの花持ち月光を踏んで行く。朝比奈宗源〈アサヒナ・ソウゲン〉の読経。ビールのむ。宗源、国民を敵襲にさらし自分たちは穴へ隠れる工夫のみしていて何が皇軍かと激しく語る。上森は御大詔をそのままに受取っていられぬと云う。しかしこれは上陸を許すにしろ日本の骨っぽいところを見せてからの方がいいと云う中途半端な過激論である。永井君、満洲の日本人は鴨緑江〈オウリョクコウ〉近くまでさがり古海が新京へ残ったと語る。京城日報は蘇軍に接収せられ、共産派の朝鮮人が入って来て指導していると。政治犯人は既に択放せられた由。
(英霊に捧ぐを二枚半書きしのみ。)
十八日の日記に、島木健作の名前が出てくる。作家の島木健作(1903~1945)は、8月17日に肺結核で死去。18日に通夜。通夜で読経した朝比奈宗源(1891~1979)は、当時、円覚寺管主。当ブログでは、2020年1月2日および3日、朝比奈宗源が敗戦直後に書いた文章を紹介したことがある。
同日の日記の末尾にある「英霊に捧ぐ」というのは、たぶん、1945年8月21日の朝日新聞に掲載された「英霊に詫びる」のことであろう(当ブログ、本年7月1日の記事で紹介済み)。