礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

日本人の多くは戦争すれば勝つと思っていた(つださうきち)

2024-07-13 02:47:50 | コラムと名言

◎日本人の多くは戦争すれば勝つと思っていた(つださうきち)

『八月十五日と私』(角川文庫、1995)から、つださうきち「八月十五日のおもいで」を紹介している。本日は、その四回目(最後)。

 ついでに書きそえておくことがある。十六日であったか次の十七日であったか、村の或る人が訪ねて来て、全く思いがけないことになって驚いている、これは一たいどういうわけなのか、あまりに意外な結末になって、だれもみな迷っている、どうして急にこんなことになったか、何か知っていることがあったら聞かせてもらいたい、という話をした。いや、わたしにも何もわからぬ、一般に国民はほんとうのことを知らされていなかったと思う、ただかなり前から、戦争をこのままつづけてゆくならば日本は破滅の外は無い、何とかして戦争をやめさせなくてはならぬ、ということを、一部の人々ではあろうが、考えていたことはたしかである、鈴木内閣の初めてできた時にも、そういう意味でこの内閣に望みをかけていた人たちがあったようである。わたしどもが新聞を見ているだけでも、戦争の大体の様子は想像せられた、それに最近には、総理大臣の告諭にもいってあるような新しい事情が生じたので、どうにもならなくなったらしい。しかしそういうことが無くても、つまるところ、こうするより外にしようが無いような有様になっていたであろう、こういう風な答をした。そうして更に、一部の軍人が満洲事変を起したそもそもの初から今日まで、日本は、してはならぬことをし、むりなことをして来た、むりなことをしてうまくゆかないから、ますますしてはならぬことをする、それが重なり重なって事変はむやみに大きくなり、そのはてはこんなことになった、勿論、事変を大きくしないように、ひろげないように、しようとした人たちが当局者の間にあったことは、いうまでもなく、その他にも、戦争をしたことを初からよくないと思って、心配していた人々も少なくなかった、けれどもそういう考やしごとは実際には力が無く、戦争は次ぎ次ぎに、思いもよらぬ方向に、ひろがってゆくし、戦争をしているという事実が大きな力となって国民を支配し、その多くは、日本人は戦争すれば勝つ、と何となく思っていたようでもある、いわゆる「大東亜戦争」となって後、日本の旗色が全体にわるくなって来てからも、しっかりしたあても無いことながら、何とかなるだろうという気もちでいたらしい。ところが戦争というものは妙なもので、戦争したことをよくないと思っている人、どうかすると、この戦争は徹底的に敗けるほうがよいくらいだ、さもなければ日本人の眼がさめぬ、などという場合さえあった人でも、戦争の調子がよいと幾らか安心し、日本軍がどこかで失敗したことがわかると快い感じはしないらしい、その上に、戦争をしている以上、何とかしてひどい敗けかたはさせたくない、という考も生ずるし、その間には、甚しい困苦にあいながら、或はいわゆる軍部または一部の軍人の横暴な行動や、軍隊の内部の腐敗や、気ちがいじみた宣伝や、そういうことに対して憤慨したり軽蔑したり反感をもったり、または困ったものだと心配したりしながら、なお純真なこころもちで、戦場にもその他の方面にもはたらいた人もある、学生などで召集せられた人たちの気もちにも、かなり複雑なものがあったと思う、しかし、もともとしてはならぬことをし、むりにむりを重ねたことであり、特に、全体からいうと、日本人の気風がすさんでも低調にもなっていたので、戦争が起ったのもひろがったのもつまりそのためであるから、戦況のよくなるはずはなく、前にいったように、かなり前から戦争はつづけられない状態になっていたと思われる、戦争が起ったのもそれがひろがったのも、複雑な事情のためであるから、日本の内部のことばかりでなく、外部のことをも考えなくては、ほんとうのことはわからぬが、日本だけについていうと、大体こんなありさまではなかったろうか、こういうような話を、一時間か二時間か、かかってしたようにおぼえている。
 それからもう一つ、その人が日露戦争の時に召集せられて出陣したといって、話がそのころのことに移ったので、日清戦争日露戦争と今度の戦争とは、その起った原因にも、戦争の性質にも、その時の政府や軍人の心がまえにも、大きな違いがある、ということをいったように思うが、あまり長くなったから、それはここには書かないことにする。ただこの二つの戦後の結果として合法的に日本が得たもの、世界のどこからも、長い間、その正当性が承認せられていたものを、今度日本が失わねばならぬようになったのは、戦争をして敗れたからであって、それを得たことに合法性正当性が無かったからではない、ずっと前の明治八年のロシヤとの条約で決定せられたことの合法性正当性が無くなるはずの無いことは、なおさらである、これは武力などを少しも用いず、平和な外交的交渉によって、きめられたことである、こういう話をしたことだけを、記しておく。
 その後には、村の人たちとこのことについて特に語りあうような機会は無かったと思う。どうなることかと心配していた人たちも、日が経つに従って次第におちついて来たようであった。わたくしもまた静かなこころもちで机に向うようになり、ひまひまには東山をながめたりキタカミ川の橋の上から鮎つり舟の幾艘も並んでいるのをおもしろく見たりするのを毎日の仕事にしていた。
             *出典『世界』一九五〇年八月号

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