◎「おばさん、日本は負けたんだ」山田風太郎
井上ひさし他著『八月十五日、その時私は……』(青銅社、1983)から、山田風太郎の「戦中派不戦日記(抄)」を紹介している。本日は、その二回目。
御放送は終った。みな凝然と佇立〈チョリツ〉したまま動かない。……
じっと垂れて動かない黒い覆いに煤のたまった電燈。油があちこちにこぼれて黒びかりしているテーブル、棚に並んでいる茶碗どんぶり、色あせたポスターを貼りつけた壁。……冷え冷えとする町の大衆食堂の中に、四人の学生は茫然とうつろな眼を入口の眩しい日光にむけ、主人は端座して唇をかみ、おかみさんは脅えたような眼を天井に投げ、娘は首を垂れ、両腕をだらりと下げたまま立ちすくんでいる。……
「とうなの? 宣戦布告でしょう? どうなの?」
と、おばさんがかすれた声でいった。訴えるような瞳であった。
これはラジオの調子が極めて悪く、声がときどき遠ざかり、用語がやや難解で、また降伏などいう文字は一語も使用していないこと――などによる誤解ばかりではない。
信じられなかったのである。
日本が戦争に負ける、このままで武器を投げるなど、まさに夢にも思わなかったのである。
「済んだ」
と、僕はいった。
「おばさん、日本は負けたんだ」
「どうしたんだ? え、どうしてだ?」
と、驚いたことに柳沢もいった。
しかしその眼の色は、彼がすでに真実を知っていることを示していた。あの悲痛を極めた音調のみからでも、どうしてそれが悟らずに居られようか。しかし頭はなおこれを否定しているのである。いや、否定したいのである。
「共同宣言を受諾する、という言葉が真っ先にあったろう」
と、僕は答えた。
「あれはポツダム共同宣言だ。米国、英国、蒋介石の日本に対する無条件降伏要求の宣言をいっているんだ」
「く、口惜しい!」
と、一声叫んでおばさんは急にがばと前へうつ伏した。はげしい嗚咽の声が、そのふるえる肩の下から洩れている。みな、死のごとく沈黙している。ほとんど凄惨ともいうべき数分間であった。【以下、次回】
山田風太郎が玉音放送を聞いたのは、「大安食堂」という大衆食堂だったという。安西・柳沢・加藤・山田という医学生四人が、その食堂で放送を聞いた。中華民国留学生の呉は、放送が始まる前にラジオの前を離れた。
安西・柳沢・加藤・呉が大安食堂にいたのは、たぶん、そこを下宿先としていたからであろう。山田風太郎は、寮に帰る途中、大安食堂に立ち寄ったのである。今日、飯田市主税町(ちからまち)に「ホテル大安」というホテルがあるが、あるいは、大安食堂の後身か。
インターネット情報(信濃毎日新聞デジタル)によれば、主税町に現存する満津田(まつだ)食堂も、やはり戦争末期、疎開医学生の下宿を引き受けていたという。