◎二・二六をぶっつぶしたのは天皇ですよ(末松太平)
昨日に続いて、末松太平〈スエマツ・タヘイ〉が、二・二六事件について証言している対談記録を紹介してみたい。
証言の出典は、島津書房編『証言・昭和維新運動』(島津書房、一九七七)の第一部「証言 私の昭和維新」の「二・二六事件・末松太平氏に聞く」。昨日は、そのうちの「2 北一輝と青年将校」を紹介したが、本日は、「3 天皇と二・二六事件」を紹介する。
聞き手は、鈴木邦男氏、地の文も鈴木氏によるものである。
3 天皇と二・二六事件
あれだけのことをやりながら二・二六事件は成功しなかった。「他の国でならば、あれでクーデターは完全に成功ですよ」と、河野司〈コウノ・ツカサ〉氏(二・二六で牧野〔伸顕〕元内府宿舎を襲った河野寿〈ヒサシ〉氏の実兄)は言う。それも一理ある見解であろう。しかし失敗した。良くも悪しくも天皇(制)があったからである。日本におけるクーデターの、そして革命の難しさもここにある。
明治維新の時ならば、皇居に入り、「玉を奪い」、強引に、成功させていたであろう。木戸孝允などが生きてたらきっとそうしたに通いない。自分達がモデルとした明治維新の忠士連よりも、青年将校の方がより純粋だったからなのか。あるいは幼稚だったからなのか……。
二・二六蹶起の挫折は、天皇が、「人間天皇」になられ、「人間の怒り」を持って蹶起者に対したからだとも言われる。一時は、青年将校のリーダーが失敗を自覚し、全員自決しようとする。その時、栗原〔安秀〕は「せめて勅使をあおぎたい」と言う。しかし、本庄〔繁〕を通して伝えられた天皇の言葉は冷たかった。「勅使などはもっての外だ。死にたければ勝手に死ね」。その言葉が青年将校に伝わらなかったのだけは幸いであろう。
また天皇は、「日本もロシアの様になりましたね」いわれたという。獄中で人伝てにこのことを聞き、磯部〔浅一〕は「私は数日間気が狂ひました」と言い、そして叫ぶ。
「今の私は怒髪天をつくの怒〈イカリ〉にもえています、私は今は、陛下を御叱り申上げるところに迄、精神が高まりました。だから毎月〔ママ〕朝から晩迄、陛下を御叱り申して居ります。天皇陛下、何と云ふ御失政でありますか、何と云ふザマです。皇祖皇宗〈コウソコウソウ〉に御あやまりなされませ」(「獄中日記」)
天皇はもう一度、「人間天皇」になられた時がある。終戦の和平を決める時である。和平に反対し、厚木航空隊の反乱を起こした小園〔安名〕司令は絶叫する。
「天皇陛下、お聞き下さい。あなたはあやまちを冒されましたぞ。あなたの言葉で戦争をお始めになったのに、何ゆえ降伏なさるのでありますか」
そしてこの怨念の声は、磯部、小園、さらに三島由紀夫へと至る。
「天翔けるものは翼を折られ
不朽の栄光をば白蟻どもは嘲笑(あざわら)う
かかる日に
などてすめろぎは人間となりたまいし」 (「英霊の声」)
【一行アキ】
――二・二六の時は、皇居に入って、「玉〈ギョク〉を奪う」というか、そんな計画はなかったのですか。松本清張の「昭和史発掘」などには皇居占拠の計画があったように書いてますが。
末松 そんなものはないですよ。そんなことを考えていたら、年寄りを殺すよりも、先きにそっちをやってますよ。為し得れば、ということで門を押える位のことは考えたらしいけれど。それに今さら、そんなことを推測してみても仕方ないんじゃないかな。磯部なんかを墓から起こして聞いてみるわけにもゆかないし。
――天皇のために蹶起した人間が、天皇の名のもと鎮圧され、裁かれますね。「朕がもっとも信頼せる老臣をことごとく倒すは、真綿にて朕が首を絞むるに等しい行為なり」とか、「これから鎮撫に出かけるから、ただちに乗馬の用意をせよ」と天皇は激怒されたと聞きますが。
末松 その天皇の御言葉によって全ては、つぶれてしまうんですよ。この天皇の御意思がわかったから、皆将軍連中も手の平を返した。二・二六をぶっつぶしたのは天皇ですよ。そのウラミは私にもありますよ。真崎〔甚三郎〕や荒木〔貞夫〕などばかりせめてもかわいそうです。
――しかし、真崎、荒木、山下〔奉文〕なんていうのはずい分と将校をおだてておきながら、いざ奉勅命令が出ると、彼らを裏切っていますね。
末松 まァ、大体に於て革命する人間が、革命される側の人間を信頼するというのが間違いの因〈モト〉ですよ。僕は真崎、荒木等は前からハシゴだと思っていた。屋根に上ってしまえば、もういらないんですよ。だから別に裏切ったとも思っていません。
――しかし真崎や荒木将軍達のみならず、天皇にも裏切られた磯部の叫びは凄惨ですね。
末松 いゃア私はそうは思わないがね。あれは赤ん坊が泣いて、「お母ちゃんのバカ、バカ」って言って胸をたたいているようなもんですよ。それだけにまた悲しいことともいえるが。
――そうですか。ところで今の問題と関連しますが、北〔一輝〕は、あまり、天皇のことなど考えていなかったという説もありますが。
末松 あの頃読まれていた本で、遠藤無水の「天皇信仰」〔先進社、一九三一〕という本がありますが、それには、北の改造法案を「赤化大憲章」だと書いてある。また、北の思想を共産主義だという人も、ずい分いた。僕なんかは北からはそんな話はあまり聞かなかったが、ただ、東郷〔平八郎〕大将の「天壌無窮」というと、青銅でつくった明治天皇の像をいつも部屋にまつっていた。僕らよりも、北の方が、ずうっと天皇を崇拝してましたよ。
――ただ北の思想の中には、社会主義的なものはずい分あったんじゃないですか。
末松 それは確かにありましたよ。しかし社会主義だろうと共産主義だろうと、日本の国の思想とは矛盾しないと思うんだな。何故なら虐げられた者が幸福になるということでしよう。これは大御心〈オオミゴコロ〉と同じですよ。マルクスの考えたことも大御心にかなうことですよ。金持ちだけがいい目を見、働くものがバカを見るのは大御心じゃないでしょう。ただ、日本の天皇は外国の帝王のようにブルジョアになってはならないというのが北の考えなんですよ。ヨーロッパの帝王は、狩りをする時、ウサギの味が落ちるから、畑に肥料をやるのを禁じたなんてのがある。百姓が困ろうと一向に構わない。そういう王室とは全然違うんだと言ったんですよ。皇室財産はいらないという北の主張もそこから出て来るんですよ。西田〔税〕が笑って言ってましたよ。「日本でブルジョアといったら、天皇陛下が一番ブルジョアだよ。木曽の御料林に行って御覧。(当時の金で)一本何万円もする杉や桧〈ヒノキ〉が、ぼんぼん立っている。百万長者じゃきかないよ」ってね。我々が当時、そんな事をいうと不忠者と思われたが、マッカーサーによってそれがやられた。青年将校がやり残した事ををマッカーサーがやり遂げたなんて全く皮肉ですがね。
鈴木邦男氏が、松本清張のいう「皇居占拠の計画」について尋ねたのに対し、末松太平は、言下に否定している。事実、そういう計画はなかったと考えてよいだろう。
松本清張の「昭和史発掘」と言えば、だいぶ前(半世紀ほど前である)に、昭和史をドラマで再現するテレビ番組があった。松本清張の監修で、毎回、清張本人が画面に登場して、いろいろと解説していた。二・二六事件を扱った回のとき、清張は、蹶起部隊が皇居を占拠していれば、クーデターは成功していただろうと語っていた。それが、いかにも残念そうな口ぶりだったことを、今でもよく覚えている。
松本清張(一九〇九~一九九二)と三島由紀夫(一九二五~一九七〇)とは、世代も違うし、生育した環境にも差がある。もちろん作風も異なっている。しかし、二・二六事件の将校らにシンパシーを寄せていた点において、共通するところがあったのかもしれない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます