◎荒木貞夫と「シベリア出兵」
荒木貞夫の名前が日本の歴史に登場してくるのは、「シベリア出兵」の時からである。
当ブログでは、今月一七日から二一日にかけて、荒木の「日華事変突入まで」という文章を紹介した。荒木は、そこでは、第一次世界大戦当時、「欧州」にいたと述べているだけで、「シベリア出兵」と自分との関わりについては言及していない(「日華事変突入まで」のうち、一七日に紹介した分を参照されたい)。
信夫清三郎の労作『大正政治史』の第二巻(河出書房、一九五一)の第四章「シベリア出兵」には、荒木貞夫の名前が出てくる。本日は、同巻同章の一部を紹介してみよう。
不満をいだいて退いた軍部は、しかし、出兵を敢行するためのあらゆる機会をとらえるため、あらゆる策動を忘れなかった。彼らは、目をロシアにおける反革命勢力にそそぎ、彼らをとおして日本の勢力をロシアのなかに扶植しながら、他日出兵する礎地をつくりあげようと努力した。そのため、彼らはとくにホルヴァート将軍とセミョーノフの活動に注目した。あるいは、彼らは、シベリアにおけるドイツ捕虜の活動を報道し、シベリアの危機を強調して出兵を招きよせようとした。彼らの策動には、おそらくは現地の領事館が協力した。
めざす第一の反革命勢力はホルヴァート将軍であった。領事団によつてよびよせられた中国軍隊にまもられつつ、ボルシェヴィキの脅威からハルピン〔ママ〕を確保した将軍は、〔一九一八年〕一月に中国軍隊か帰還してからのちも、シベリアの首領となる日を夢みて虎視耽々としていた。三月、日本政府はホルヴァート将軍にたいして十分な支持をあたえるから、シベリアに秩序を回復しつつ独立政府を樹立する指導権を単独でとるよう非公式に要請した。参謀次長田中義一〈ギイチ〉は、ハルピン駐屯軍司令官中島(正武)少将をとおし、ホルヴァート将軍にたいして「新シベリア政府が完全組織されたのちに日本政府に暖助を要請されるならば、政府はあらゆる援助を惜しまないばかりでなく、共通の目的を達成するため他の全連合国を共通の仕事に勧誘するであろう」と申入れた。【中略】
中島少将とホルヴァート将軍の会見が行われたのは三月下旬であつたと推測されるが、四月三日、日本は再びホルヴァート将軍に援助の申出をした。将軍は日本の意図をおそれた。将軍は、もし日本とだけ取引したならば、国を売るものとして強烈な反対がまきおこるであろうと憂慮した。日本の申出には、ただアメリカが加わつた揚合にのみ応じられると考えた。将軍はアメリカに接近し、アメリカの領事は好意をしめし、かくてホルヴァート政府の樹立問題はアメリカと日本の深刻な闘争にゆだねられた。
めざす第二の反革命勢力はグレゴリイ・セミョーノフ大尉であつた。コサックを父とし、蒙古人を母とした彼は、軍人として大戦に参加し、累進して大尉となつていたが、革命わずか一週間後の〔一九一七年〕十一月十四日、早くも反旗をひるがえしてボルシェヴィキの討伐を宣言した。彼は、ブリヤート人・蒙古人・中国人およびロシア人を募つて特別マンチューリ支隊とよぶ一部隊を組織し、ボルシェヴィキの影響下におかれた満洲里の第七二〇国民大隊の武裝解除をおこない、同地を占領して全シベリアの同志を糾合しようとする第一歩を踏みだした。〔一九一八年〕一月三十日の報道は、彼が満洲からシベリアに汽車で一八時間のオ口ヴィヤンナヤを占領したことをつたえた。
当時ハルピンに駐在していた黒澤準中佐は、関東都督府を説いてセミョーノフの援助を決定させた。のちには金子因之〈ヨリユキ〉大尉を班長とする教習班が、日本からセミョーノフの軍隊に派遣された。観戦武官としてロシアの戦線にあつた荒木貞夫中佐(のちの大将)や黒木親慶〈チカヨシ〉大尉が帰還し、平佐二郎大尉や酒葉要〈サカバ・カナメ〉大尉とともに参謀指導官という格で活躍をはじめた。満洲里〈マンチュリ〉日本居留民会長安生順一は、満洲各地に在溜していた日本在留していた日本在郷軍人の招募に着手し、日本義勇軍を編成した。四月のころ、セミョーノフ軍に参加していた日本人は、佐藤要造砲兵少尉・橋本柳一輜重兵少尉・松下太一郎歩兵少尉・奥村歩兵大尉・塩谷武次工兵中尉・千葉浩輜重兵中尉・上田浅一歩兵中尉・國澤圓二等主計などの予備軍人をはじめとし、伊藤銀次郎らの特務曹長級から兵士にいたるまでをあわせて全員三四六名であつた。
しかし、ホルヴァート将軍の新政府樹立が日本とアメリカの深刻な闘争の対象となつたょぅに、セミョーノフの運動は日本とイギリスの深刻な闘争の対象となつた。【後略】〈四五二~四五四ページ〉
「シベリア出兵」というのは、きわめて複雑な問題であって、その全貌や本質を把握することは容易でない。
荒木貞夫という軍人が、この問題に対し、どういう言動をしたかについても、知られていない部分が多い。
ところが、最近になって、「荒木貞夫の口述記録――「シベリア出兵」について」という資料が世に出た(『近代中国研究彙報』第四二巻、二〇二〇年)。兎内勇津流(とない・ゆづる)さんによる有益な解題、松重充浩(まつしげ・ゆきひろ)さんによる周到な校註が付いている。これは、たいへん貴重な「史料」であり、同時に、実に興味深い「読み物」である。荒木貞夫という軍人、あるいは、シベリア出兵問題に関心をお持ちの読者に、一読をおすすめしたい。なお、同資料は、インターネット上で閲覧できる。