礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

荒木貞夫と「皇道派」という呼称

2023-02-23 03:59:28 | コラムと名言

◎荒木貞夫と「皇道派」という呼称

 荒木貞夫は、「皇道派の重鎮」と呼ばれることがある。この「皇道派」という呼称は、荒木貞夫が好んだ「用語」に由来するともいう。
 ウィキペディア「荒木貞夫」の冒頭部分を引用してみよう。

皇道派(こうどうは)は、大日本帝国陸軍内に存在した派閥。北一輝らの影響を受けて、天皇親政の下での国家改造(昭和維新)を目指し、対外的にはソビエト連邦との対決を志向した。
名称と概説
名前の由来は、理論的な指導者と目される荒木貞夫が日本軍を「皇軍」と呼び、政財界(皇道派の理屈では「君側の奸」)を排除して天皇親政による国家改造を説いたことによる。
皇道派は統制派と対立していたとされるが、統制派の中心人物であった永田鉄山によれば、陸軍には荒木貞夫と真崎甚三郎を頭首とする「皇道派」があるのみで「統制派」なる派閥は存在しなかった、と主張している。

「皇道派」という呼称は、理論的な指導者と目される荒木貞夫が日本軍を「皇軍」と呼んだことに由来するとしている。はたして、この説に、根拠はあるのだろうか。
 ここで、歴史学者・長谷川亮一さんの論文「十五年戦争期における文部省の修史事業と思想統制政策」(二〇〇七年三月)の一部を引用させていだだこう。

 ところが、1930 年代に入るころから「皇国」の語が盛んに用いられ始める。とりわけ早くから「皇国」を用いていたのが陸軍省であった。たとえば、1933年3月27日、国際連盟脱退にあたって荒木貞夫陸相(在任1931年12月~1934年1月)が垂れた訓示には、その書き出しでこそ「大日本帝国」という表記が用いられているものの、「今ヤ挙国皇国道義ノ意識ニ甦生シ」「皇国ノ自主愈々茲ニ確定シ」「内ニ皇国ノ面目ヲ発揮シ」などといったように、「皇国」が盛んに用いられている(141)。なお荒木は「皇道」「皇軍」「皇謨」「皇威」「皇猷」など、他にも「皇」の字を冠した熟語を多用したことで知られている(142)。
 また陸軍省は、『日露戦後二十八年 皇国は太平洋時代の軸心に立つ』『国際輿論を通して観る皇国日本の立場』(ともに1934年3月発行)(143)といったパンフレットで「皇国」を盛んに用いている。「陸軍パンフレット事件」で悪名高い『国防の本義と其強化の提唱』(1934年10月発行)(144)においても、日本の自称としてはもっぱら「皇国」が用いられている。
 同時期には民間右翼などにおいても、「帝国」を排除し「皇国」を使用すべきだとする主張が強く唱えられた。たとえば大本教の聖師・出口王仁三郎【おにさぶろう】(1871~1948)は、自らの主宰する右翼団体「昭和神聖会」の機関誌『神聖』誌の1934年11月号において、日本には「天皇はあつても皇帝はいない」のであり、天皇は「外国の皇帝や王や、その他の主権者とは根柢から尊卑の区別が違ふ」とし、さらに「帝国議会」は「皇国議会でなければなら」ず、「帝国憲法は皇国憲法でなければならない」と主張している(145)。〈三一ページ〉

 長谷川亮一さんの論文「十五年戦争期における文部省の修史事業と思想統制政策――いわゆる「皇国史観」の問題を中心として」は、インターネットから引用した。非常に優れた論文だと思った(千葉大学に提出した博士論文のようである)。
 荒木貞夫が、「皇道」、「皇軍」、「皇国」といった熟語を好み、これを多用していたことは、間違いない事実である。しかし、そのことを以て、「皇道派」という呼称が、荒木貞夫に由来するとまでは言えない。また、そのことを以て、荒木貞夫を「皇道派」の理論的指導者と捉えるわけにもいかない。長谷川さんの論文にも、もちろん、そういった趣旨の指摘はない。
 長谷川亮一さんには、『「皇国史観」という問題――十五年戦争期における文部省の修史事業と思想統制政策』(白澤社、二〇〇八年一月)という著書がある。おそらく上記の論文を基にしたものであろう(両者の異同は確認していない)。
 なお、今回、引用させていただいた部分に関しては、以下の「註」が対応している(一一六ページ)。

(141) 『各種情報資料・陸軍省発表』「訓示」(国立公文書館蔵、JACAR ref. A03023787900)。
(142) 秦郁彦『軍ファシズム運動史』増補再版(河出書房新社、1972年。初版 1962年)73頁、高橋正衛『昭和の軍閥』(講談社学術文庫、2003年。初版 1969年)243頁。
(143) 『大日記乙輯』昭和9年「「昭和8年に於ける関東軍の行動に就て」及「皇国は太平洋時代の世界軸心に立つ」発行の件」(防衛庁防衛研究所蔵、JACAR ref. C01006571200)、同「「国際輿論を通して観る皇国日本の立場」発行の件」(JACAR ref. C01006572000)。
(144) 「『大日記乙輯』昭和9年「国防の本義と其強化の提唱」発行の件」(JACAR ref. C01002049000)。
(145) 出口王仁三郎「肇国皇道の精神」(池田昭〔編〕『大本史料集成 II 運動篇』三一書房、1982年、所収)721~722頁。

*このブログの人気記事 2023・2・23(9・10位に珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラクエル・ウェルチさんと映画『ミクロの決死圏』

2023-02-22 03:00:14 | コラムと名言

◎ラクエル・ウェルチさんと映画『ミクロの決死圏』

 インターネットの時事通信ニュース(一六日配信)で、女優のラクエル・ウェルチさんが、今月の一五日に亡くなったことを知った。同ニュースによれば、『ミクロの決死圏』など三〇本以上の映画に出演し、代表作『恐竜100万年』では「野性的でセクシーな衣装」が話題となったという。
『恐竜100万年』という映画は、まだ観たことがない。しかし、「野性的でセクシーな衣装」のことは知っている。映画『ショーシャンクの空に』(ワーナー ブラザーズ、一九九四)において、その「野性的でセクシーな衣装」をまとったラクエル・ウェルチさんの「ポスター」が、非常に印象的な形で登場していたからである。
『ミクロの決死圏』(20世紀フォックス、一九六六)は、以前、何度か観たことがある。訃報を聞いて、DVD(20世紀フォックス ホーム エンターテイメント ジャパン)を取り出した。以前、観たときは、不自然な部分が気になって、あまり感心しなかった。しかし、今回、改めて鑑賞してみると、なかなかの労作であり、また傑作だと思った。
 困難なミッションを与えられて、潜水艇に乗りこんだ五人のクルー。予期せぬ事態、予期せぬトラブルが、次から次へと発生する。視聴者をハラハラさせながら、最後まで引きつけてゆく。そうした魅力、そうしたサービス精神が、この映画にはある。
 ラクエル・ウェルチさんが演ずるのは、「手術」を担当するデュヴァル博士の助手コーラである。知的にして冷静な助手という役であって、ことさら「肉体美」を強調しているわけではない。クルーの中で唯一の女性として、男性クルーと対等な立場で、命がけで危機的状況に立ち向かっている。最もおいしい役どころを彼女はもらった、と言えるかもしれない。

*このブログの人気記事 2023・2・22

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日華事変は拡大の一途をたどった

2023-02-21 00:02:28 | コラムと名言

◎日華事変は拡大の一途をたどった

 雑誌『別冊知性』第五号「秘められた昭和史」(河出書房、一九五六年一二月)から、荒木貞夫の「日華事変突入まで」という文章を紹介している。本日は、その五回目(最後)。

  支那事変処理の失敗から南進、
  そして戦争へ
 満州事変の勃発を、日本が仕掛けたとか、いや満洲側だとかいうが、私は昭和四年〔一九三九〕の春陸大学生を率いて満州視察にでかけたときこんな話がある。奉天城外を、馬で一時間ばかり行つた地点に、一人の満人が行き倒れて死んでいた。私は付近の農夫に注意して「どうしたのだ」ときいた。するとこの農夫は、平然とこう答えた。
「あの男は、昨夜私のところへ鶏を盗みにきた。だから殺したのだ」
 殺した? それだけではない。片付けろ、というと「なに三日もああしておけば、野良犬がきれいに片付けてくれまさア」という。このくらい満州というところは無秩序なのである。おして知るべしというのが私の結論で、排日、抗日のスローガンを掲げる彼らがどんなことをやつたかぐらいは想像がつく。居留民は生命からがら、奥地から逃げてくる。これを守る満鉄沿線の関東軍は僅かに一万。一方抗日に燃える張学良軍は二十五万の大軍では、ぼんやりはして居れまい。遂に衝突したのである。
 政府も軍首脳も口の上での平和方針、外交交渉だけで、当時日本の対支抗議は解決しないものが三百数十件もたまつていた。それがたつた一発の銃声で拡大してしまつたのである。しかし戦争にはならず、とにかく昭和八年〔一九三三〕五月には一切の問題が片づき、平和を回復することができた。
 私はその後の半年は、これを機会に国際孤立化から脱出すべく東奔西走、東洋平和会議を関催すべしと力説して幾多の会議を開き政府の討議をすすめたが、不幸病のために、第一線を退くことになつてしまつた。
 ところが満州事変が比較的順調に片づいたのに慢心した政府は、ちようど日露戦争後の自惚〈ウヌボレ〉で時局を見くびり、無気力に終始した。このためにせっかく満州事変後安定していた大陸に支那事変を誘発してしまつた。そして不拡大方針にもかかわらず、底知れぬ泥沼へはまりこんで行つた。私たちは満州を固めてソ連の将来の進出に備える主張だつた。ところが軍部の首脳及幕僚はすべて拡大派。不拡大派は多田〔駿〕、石原〔莞爾〕、東郷〔茂徳〕で、柳川〔平助〕、小畑〔敏四郎〕等、及び政界では近衛〔文麿〕公等であつた。
 不拡大派は事変拡大には強硬意見で反対した。
「断じて戦火を中国本土に拡大してはならない。現下の日本の最も重要な国策は、全国力をあげて、新興満州国を育成することである。満州国の建設がうまくゆけば、期せずして、中国の民心は日本になびいてくる。そうすれば世界列強といえども、満州を承認せざるを得なくなるにきまつている。東洋の新秩序は、戦わずして招来することに越したことはない」
 極力杉山〔杉山元陸軍大臣〕らに反省を要望した。しかし、不拡大派は何分にも権力ある位置にいなかつた。そうしている間に、事変はみるみる拡大の一途を辿つていく。私たちはやきもきした。
 政府(〔第一次〕近衛内閣)も、情勢判断ができず、拡大派によつて「華北に反乱が起きた。居留民保護のため出兵する」といわれると、出兵費用をだすだけで、サッパリわからない。近衛内閣の弱さにつけこんで、軍部は〝軍機の保護〟を理由に、事変を独断で処理していこうとした。しかも処理の上にはなんら一貫した成算も計画もなかつたかに見えた。これが太平洋戦争に一億を叩きこんだ最大の原因であり、くり返し云うが、政府と統帥部の不一致という日本最大の欠陥が、このときも歴然とあらわれた。
 その後も軍部の拡大派、不拡大派の意見対立は統いた。支那事変八年にわたる間、絶えずくり返されていた。「重慶工作」にも数々の意見となつてあらわれ、長期戦に堪えられない内幕をバクロしたのである。
 こうした事変処理につまづいた惨たんたる失敗をくり返しながらも、和平の端緒をつかむべく工作したのであるが、多年の軍部の悪評で、肝腎の蒋介石が信用しない。ようやく昭和十三年〔一九三八〕一月十四日にいたつて、国民政府駐華独大使トラウトマンを通じて「日本の和平条件、詳細を提示されたし」の回答までこぎつけた。ところが十二月に南京を陥落させた余勢をかつて、いよいよ熾烈化した軍部の主戦論者は「なにをいうか」という慢心ぶりで鼻息が荒かつた。もつとも中国側にも主戦論は多く〝徹底抗戦〟のスローガンはまだ下していなかつた。それにしても国民政府を否認するような声明(一月十六日)「以後国民政府を相手にせず」は早やすぎた。絶好のチャンスを逸したばかりでなく、軽率なこの声明は、以後の事変処理工作の一大障害となつて残つたのである。なにしろ相手にしなかつたはずの国民政府を相手に交渉するのだから骨である。
 そして、ついに蒋介石を動かすことはできなかつた。
 しかし、和平の可能性は絶無ではなかつた。少くとも、大東亜戦争勃発までは、まだいくらかあつたのである。ところが対重慶工作に失敗すると、血路打開をあせる余り、海軍の南進論と結びついていつた。
 これがアメリカのルーズベルト大統領の野心と謀略に正面衝突して、かつてない大戰争へと突入していつたのである。

 荒木貞夫「日華事変突入まで」の紹介はここまで。このあと、荒木貞夫という軍人について、若干の補足をおこないたいと思っているが、明日は、いったん、話題を変える。

*このブログの人気記事 2023・2・21(8・9位に極めて珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宇垣一成の出馬を希望する声が大きくなった

2023-02-20 02:46:52 | コラムと名言

◎宇垣一成の出馬を希望する声が大きくなった

 雑誌『別冊知性』第五号「秘められた昭和史」(河出書房、一九五六年一二月)から、荒木貞夫の「日華事変突入まで」という文章を紹介している。本日は、その四回目。

  政府と軍部との歩調乱れ
 一方蒋介石は、ソ連の援助指導をうけて広東の軍官学校で機の熟するを待つていた。ところが昭和六年〔一九三一〕、ソ連から派遣されていたガロン、ボロージンの両指導官を従えて、北伐の行動を起した。ところが北上の途中南京で事件を引き起した。つまり揚子江に到達すると蒋介石は、突如共産党弾圧にでた。ガロン、ボロージンはほうほうの態で脱出したがその他のソ連人、共産党とおぼしき市民の多くは虐殺された。ソ連の支那大陸赤化政策は蒋介石によつて裏切られた。このとき日本軍は居留民保護のため一個師団を済南〈サイナン〉に出兵した。日本国民の眼が大陸にそそがれるようになつたのは、実にこのときからである。間もなくこの事件もおさまつたので、日本軍は引揚げた。するとこんどは済南事件が起つた。居留民保護の出兵に間に会わなかつた蒋軍は日本恐るに足らずというなめ方である。
 この済南事件は、南京事件の翌年、つまり昭和三年〔一九二八〕五月のことである。虐殺されたのは百二十名(実は十二名だつた)の報に、旅行中の参謀総長(鈴木〔荘六〕大将)に連絡すると、直ちに三個師団出兵の準備をせよとの電話があつたが、総長の帰京を待てという命令だつた。仕方なしに待つと軍事参事官及び元帥会議にもかけるという。ようやく居留民保護という名目で決定し、政府にだしたところが、いつになつても返事がない。そのうちに政府は、張作霖を抑えるために、当時は蒋介石援助方針をとるつもりだから、無事北進せしむるように、と指令してきた。しかし、その頃蒋介石は反日の宣伝をさかんにやつている最中だつた。それはまだいいとしても、先遣の第六師団と、蒋の先鋒軍と衝突して、射ちあいがはじまつた。わが方の政府と軍部とはかくのごとき不徹底ぶりだつたのである。
 けつきよく、こんな体裁のわるい格好でようやく了解がついて、蒋介石は黄河を越え北進をつづけた。ところで天津でまたまた事件を起し、ついには張作霖爆死事件にまで発展してしまつた。

  満州の人心は日本を離れた
 残念ながら政府も軍首脳部も、世界の変転、とくにソ連と支那大陸の新しい動向によつて生ずる体勢を知らなかつた。さながら大浪に任せている小舟のごとき感があつた。これは幾度も云つている通り、統帥権が確立していないからで、度重なる失敗にその威信はいよいよ失墜していつた。
昭和六年〔一九三一〕二月六日、第五十九議会開催中、幣原〔喜重郎〕首相代理の統帥権問題に端を発した議会は、全く混乱状態に陥り、乱闘にまで及んで負傷者をだす有様。今日の議会乱闘どころの騒ぎではなかつた。
 こういう有様を眼〈マ〉のあたりに見た軍部及び大衆は、政府に愛想をつかし、大川周明〈シュウメイ〉始め一部の軍人間に、宇垣一成〈ウガキ・カズシゲ〉の出馬を希望する声が、次第に大きくなつた。こうした要望もだしがたく〔黙し難く〕宇垣首班の政府樹立を画策したのがいわゆる三月事件である。多年鬱積した爆弾の第一発は、ついにこらえきれず点火されたのである。
 この三月事件は不発に終つたが、大川の計画によれば、大規模な内閣糾弾のテロ行為だつた。つまり労働法案上程の日に、左翼および右翼一万人を動員し、八方より議会にデモを行い、政、民政党本部、首相官邸を偽砲を以て脅威する。軍隊は議会保護の名目で包囲し、一切の交通の遮断、各大臣に対して「国民はいまや現内閣を信任しない。宇垣大将を首班とする内閣のみ信頼する。国家のためよろしく善処してほしい」と幣原首相〔ママ〕以下の辞表を提出させる計画であつた。
 こうした内容は不発のために外部へは洩れなかつたが、軍内部にはいちはやく知れ渡つてしまつた。現状に不満を抱く心ある人々を刺激し、その後に起きた数々のテロ行為の導火線となつたのである。
 私は当時熊本の連隊長として、地方にいたのでこの事件は知らなかつたが、四日の連隊長会議に上京して病気になり、入院中見舞にきてくれた大川周明から事の次第をきかされた。退院後小磯〔国昭〕、建川〔美次〕、永田〔鉄山〕などに会つてきかされた話は、想像していたよりもずつと複雑だつた。私は事件そのものよりも、将来を憂えた。そして熊本へ帰る前に宇垣大将を四谷の私邸に訪ね、今後の対策を問い訊した。私は時局の急切なるを説き確とした国策樹立の必要を力説した。ところが宇垣大将は「お前なんかに心配してもらわなくてもわかつとる」といつた態度、一向に私の持論と主張には耳を藉そうとしない。とうとう私は大将にサジを投げた。とても共に語れる人じやない、と、このときはひどく落胆して熊本へ帰つたのである。
 私が教育総監本部長として東京へ帰つてきたのはその年の八月だつた。世相はますます悪化していつた。そして九月十八日、満州事変が勃発した。
 満州事変の処理については国をあげて積極的であった。尾崎行雄翁のごときは、昭和十二年〔一九三七〕議会質問書の中に、「満洲国は極力庇護し、いかなる場合においても、支那に復帰せしめないこと」とあるほどで、大東亜戦争開始のときは、十数ヵ国が満州国を承認していた。日米交渉のときですら、満州を承認する方向をとつたほどであり、日華両国の関係も改善され、大使を交換していた。蒋総統も親善策に出たときがあつたのに、日本の冷たい態度にあつて冷却してしまつた。そして支那事変、ついには大東亜戦争にまで発展したのであるが、戦後一米軍人が私にもらした言葉には「日本があのまま十年間国力を養つたら、実に強大な雄邦になれたのに」と皮肉でなしに口惜しがつていた。
 私が満州問題で満足することのできなかつたことは、王道楽土、五族協和もかけ声ばかりで一向に進展せず、日本人間で抗争していたから、満州の人心が次第に日本から離れていつたことである。故に昭和十七年〔一九四二〕、建国十周年の祝賀会にも、満州国招待には大きな顔をして出席するわけにもいかなかつたので、遠慮して出かけなかつた。
 もう一つの痛恨事は満州建国のとき、総督府設置案があつた。これでは朝鮮と同じだと見られるし、第一満州建国の本旨にも反するというわけで、けつきよく大使を交換、独立の実をあげるべき方向にもつていつた。育成強化するつもりだつたが、その後になつて満州問題が起るたびに関係者の頭に浮びあがつてくるのは、総督府にしておけばよかつたということである。そして軍および政府は、満州国を日本の植民地のごとく扱つた。理想を提げながら、独立国としての体面をじゆうりんし、朝鮮問題のごとく一方的に処理していたことは、世界の批評をうけるのは当然のことというべきである。残念なことであつた。
 また忘れてならないことは、国際連盟との関係で、これは満州問題中の大問題であつた。にもかかわらず、世間の関心は案外に薄かつた。むしろ、四十二対一を叩きつけて、堂々と脱退したごとく、悲劇を大活劇のごとくみていたが、これこそ文字通りの国際孤立化宣言であつた。当初日本に好意的だつた国国もすべて硬化して、次々と「イエス」「イエス」の票決が、日本の番にきて「ノー」賛成四二、反対一、棄権一(シャム)で連盟にさようならをしたときから、もう次の戦争ははじまつていたのである。外交の硬直さを、日本の昂奮状態によつて完全に隠しおおせた松岡全権は、まるで凱旋将軍のごとく迎えられた。【以下、次回】

 文中に、「幣原首相代理」とある。一九三〇年(昭和五)一一月一四日に、浜口雄幸(はまぐち・おさち)首相銃撃事件が起きたため、幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう)外相が、同日以降、翌年三月一〇日まで、内閣総理大臣臨時代理を務めていた。
 ここで荒木貞夫は、浜口雄幸首相に対する右翼テロには一言も触れず、そのあとに生じた第五十九議会議会の「混乱」ばかりを強調している。荒木という軍人の感性を、よくあらわしている文章と言えよう。

*このブログの人気記事 2023・2・20(8位に極めて珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ごまかされないぞ」といきり立つ軍部

2023-02-19 02:00:11 | コラムと名言

◎「ごまかされないぞ」といきり立つ軍部

 雑誌『別冊知性』第五号「秘められた昭和史」(河出書房、一九五六年一二月)から、荒木貞夫の「日華事変突入まで」という文章を紹介している。本日は、その三回目。

  戦雲を呼んだ張作霖爆死
 こうして内外ともに軍の威信を失墜したときにワシントン軍縮会議(一九二一年、大正十年)があつた。このときが五・五・三の比率で主力艦が制限された、ということだけが有名になつてしまつたが、それよりも、日本に対する支那発展の阻止が問題だつた。日本を中国全土から駆逐しようとしたものであり、アメリカの野望を実行に移す第一歩でもあつた。日英同盟はこれ幸いと一方的に廃棄され、今次大戦〔第二次大戦〕の原因はこのときはやくもほの見えた。
 主力艦だけでなく、補助艦も問題になつて次のロンドン会議(一九三〇年、昭和五年)となつたわけだが、五・五・三の劣勢にあるだけ、日本には一歩も退けない大事な会議だつた。そのギリギリ線が次の三原則である。
 一、一万トン八インチ(二十サンチ)砲巡洋艦においては、米英いずれを問わず、彼らの大なる方の七割
 二、潜水艦は現勢力、七万七千九百トン 
 三、その他の補助艦は、協定総トン数より一万トン級巡洋艦および潜水艦をのぞいた範 囲において、補助艦総括約七割
 結果はアメリカに対し、大型巡洋艦六割二分、軽巡七割、駆逐艦十割、潜水艦十割、これは平均すると六割九分七厘にあたる。幣原〔喜重郎〕外相が「七割主張のわが要求は、これをもつて一応成功したと考える」と答えた通り、なるほど比率の上からみればそうである。しかし、ごま化されないぞと軍部はいきり立つた。つまり、こうなのだ。
 一、八インチ(二十サンチ)砲巡洋艦は七割が六割二分
 二、七万八千トンの潜水艦保有も一擲されて、アメリカと同じトン数これは五万二千六百トン減らされたことになる
 三、アメリカの巡洋艦建造に十分の整備機能を与える
 けつきよく浜口〔雄幸〕首相は窮地に追いつめられた。
 原敬はじめ、山県〔有朋〕、大隈〔重信〕、加藤(友三郎)、松方〔正義〕、加藤(高明)らなき政界は、指導力薄く、全くドングリの背くらべの感であつた。 動乱の起る気運は、こんな中に少しずつ醸成されていつた。
 前述した通り、大戦の代償として得た二十五億は、戦後のインフレのあふりを受け、金解禁などを伴い、アレヨアレヨという間に正貨は底をつきだした。緊縮政策の凸凹のため、一般官公吏は減俸〈ゲンポウ〉となり、下級俸給者は生活苦から赤化思想を慕いだす。工場労働者は続々とストライキを敢行したのである。
 そしてアメリカは排日により移民を圧迫し、二十一箇条をつきつけられた中国また排日から抗日と旗幟〈キシ〉をハッキリさせてくる。日本の国際孤立化は、次第に表面化してきたのである。満州でも張作霖〈チョウ・サクリン〉の横暴により、満鉄の経営は危機に陥つた。「この分では線路をはずして、日本へ引揚けるほかなし」と本気になつて考えざるを得なくなつた。そんなとき、それは昭和三年〔一九二八〕六月四日、午前五時三十分だつた。張作霖の爆死事件が起きたのである。
 場所は瀋陽線と奉天線の中間、クロッス地点で、爆発と同時に前部六輌は、そのまま二百メートル走つて顚覆、七、八、九輌は爆発と同時にはねとばされ、とくに八輌目から火をふいた。張作霖はこの特別列車の八輌目にのつていたのだから、ひとたまりもなかつた。
 誰か下手人であるか判明しなかつたが、中国紙はもちろん、ノース・チャイナ・デリー・ニュースは、背後に日本ありと書き立てた。日本側もこれを否定し去る証拠がなく、議会で中野正剛〈セイゴウ〉に喰いさがられた田中〔義一〕首相は「知らぬ存ぜぬ」「目下調査中」の連発だつた。世間で下手人と噂されたのが関東軍参謀河本大作〈コウモト・ダイサク〉大佐だが、私には当時から今日まで動かざる持論がある。しかしこの稿では語りたくない。
 あとで満州へきたリットンも「当時既に張作霖殺害の責任は、日本が共謀したという嫌疑がかかつているだけに、日華関係に一層緊張を加える原因になつた」と云つた通り、いつまでも尾をひいたことはたしかである。【以下、次回】

 文中、「ノース・チャイナ・デリー・ニュース」とあるのは、中国で発行されていた英字新聞「The North China Daily News」(字林西報)を指す。同紙は、一九六四年に上海で創刊され、一九五一年に終刊したという。

*このブログの人気記事 2023・2・19(10位に珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする