礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

荒木貞夫と「昭和維新」

2023-02-25 01:53:24 | コラムと名言

◎荒木貞夫と「昭和維新」

 荒木貞夫の名前が頻繁に登場するのは、いわゆる「昭和維新」の時期である。
 ひとつ例を挙げよう。中島岳志さんの『血盟団事件』(文藝春秋、二〇一三)を読むと、荒木貞夫が、次のような形で登場する。

 血盟団メンバーが、徐々に権藤空き家に集結していたころ、政局は大きく動いていた。満州事変勃発当時〔一九三一年九月〕、首相は民政党の若槻礼次郎だった。若槻内閣は、戦況のなし崩し的拡大を止められず、国際社会からの非難が高まった。また、失敗に終わったとはいえ、国内では十月事件〔一九三一年一〇月〕が進行し、政党政治そのものが危機に陥った。
 民改党と政友会は、政治のイニシアティブを取り戻すために、密かに協力内閣構想の実現を協議した。二大政党による大連立は最終手段に近かったが、弱体化した若槻内閣が政党政治を立て直すためには、方法がなかった。
 当時の政友会総裁は犬養毅だった。犬養は未曾有の国難の中で、陸軍組織の変革を進めるためには大連立による挙国一致内閣実現を模索すべきと考えた。与野党の有力者が相互に連立を模索する中、反対派を含めた政治的駆け引きが激化した。
 結果的に協力内閣構想は実現せず、若槻内閣は〔一九三一年〕十二月十一日、総辞職に追い込まれた。二日後の十三日に誕生したのは政友会による犬養内閣だった。政友会は少数与党で、政権基盤は脆弱だったが、国民の民政党政権への反発を追い風に支持を拡大した。
 犬養内閣が真っ先に手を付けたのは、経済政策だった。若槻内閣は、銃弾に倒れた濱口〔雄幸〕内閣の経済政策を継承し、緊縮財政を進めていた。濱口内閣から大蔵大臣を務めていたのは井上準之助だった。彼は金解禁によるデフレ政策を実施し、経済の立て直しを図った。しかし、「暗黒の木曜日」に端を発する世界恐慌が日本にまで押し寄せ、急速な物価下落と円高が進行した。日本の国内市場は収縮し、輸出業も大きなダメージを受けた。
 若槻内閣になってもデフレ不況が続くと、世の中では金輸出の再停止と景気対策を望む声が強まり、井上財政への批判が高まった。そんな中、成立した犬養内閣は大蔵大臣に高橋是清を任命し、金輸出再禁止を断行した。高橋は、円安誘導による輸出拡大と積極財政による景気回復を推し進めた。
 結果、国内産業は刺激され、外国貿易も好転の気配を見せた。また、物価が上がり、景気も上向きになったことから、不況脱出の兆しが見えたとして評価が高まった。「犬養景気」は、内閣への支持を拡大させ、経済再生への期待が高まった。
 一方、陸軍青年将校にとって、犬養内閣の成立は歓喜をもって迎えられた。陸軍大臣に荒木貞夫が就任したからである。
 荒木に信頼をおく藤井〔斉〕は、歓喜した。十二月十三日の日記には、次のように記されている。
〈荒木中将陸相となれり。来春は大望成るの時来たらんか、歓喜歓喜。(中略)愉快なる日かな、天の春廻り来れるか、希くは人事を尽さむ〉[藤井一九九〇:七一三]。
 また、荒木を支持する陸軍青年将校も、沸き立った。
〈今に荒木陸相が陛下から錦旗【きんき】節刀を戴き革命を断行する、我々は其の時、命に従って動けばよい〉[池袋一九六八:三二六]
 藤井をはじめとする海軍青年将校は、引き続きクーデターを志向したのに対して、陸軍青年将校たちは、大きな方針転換を行った。同志と見なす荒木が陸軍トップに立った以上、テロ・クーデターを起こす必要はなくなった。彼らは、荒木が断行する「革命」に従い、国家改造を実現すればよいと考えた。〈三二八~三三〇ページ〉

 犬養内閣が成立した一九三一年(昭和六)一二月から、二・二六事件が起きた一九三六年(昭和一一)二月までの間が、荒木貞夫という軍人の絶頂期だったと思う。しかし、二・二六事件が鎮圧されたあとは、「皇道派の重鎮」荒木貞夫の存在感は、一挙に低下したのであった。
 文中、(中略) とあるのは、原文のまま。また、[藤井一九九〇:七一三] 、[池袋一九六八:三二六]とあるのは、典拠とした文献とそのページ数を示す。文献は、それぞれ、藤井斉「故藤井海軍少佐の日記写(抄)」(『検察秘録 五・一五事件Ⅲ―匂坂資料3』角川書店、一九九〇)、池袋正釟郎「公判記録」(『血盟団事件公判速記録(中巻)』血盟団事件公判速記録刊行会、一九六八)。

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