◎近時いわゆる怪文書等の横行が甚しく……
『国家学会雑誌』第五〇巻第八号(一九三六年八月)から、田中二郎の論文「不穏文書臨時取締法に就て」を紹介している。本日は、その二回目。
最初の一行以外は、すべて、「政府による法律案の説明」の引用である。原文では、その「説明」は、カタカナ文だが、ここでは、ひらがな文に直した。
本法案提出の理由として、政府は左の如く説明して居る。
「近時所謂怪文書等の横行が甚しく、其内容も亦益々悪化するの傾向がございまして、之が為に或は人心を惑乱し、或は軍の秩序を紊乱し或は財界を攪乱する等、治安維持上に支障を生ぜしむる事例が尠くないのでございます。斯〈カク〉の如き事象は治安確保の為には到底之を放置し得ざることは言〈イウ〉を俟たない所でありますが、特に今回の如き大事変の後に於きましては、其徹底的防遏を講じますことの必要が切なるものありと痛感せられるのでございます。それ故茲に取締法を制定して著しく社会人心ノ不安を惹起し〈ヒキオコシ〉治安維持上に重大ナル支障を生ぜしむるが如き不穏なる出版物等を厳に取締らんとするものでございます。本法案の内容の主要なる点を申上げますと次の通りでございます。
第一に近時所謂怪文書の実情に徴しまするに、或は人心を惑乱し或は軍秩を紊乱し、或は財界を攪乱する目的を以て、治安維持上重大なる支障を生ぜしむるが如き事項を掲載したる文書を出版するの事例が多いのであります。それ故、斯くの如き悪性なる目的を以て不穏なる事項を掲載しました文書図画を出版したる者及び之を頒布したる者を処罰する為に第一条第一項の規定を設けたのであります
第二には右の如き悪性の目的を達成せんが為め、不穏文書を発行せんとする場合に於きまして、或は文書図画に何等発行の責任者の氏名及び住所の記載を為さず、又は仮令〈タトイ〉之を記載するも虚偽の記載を為し、或は出版法若くは新聞紙法に依つて定められた成規の納本を為さずして出版するが如き、秘密の手段を弄する者に至りましては、其罪質最も憎むべく、治安維持確保の為にも最も取締を厳にしなければならないと考へられますので、此種出版行為に対しましては特に厳罰を課することと致したのであります、第一条第一項の規定を其為めに設けたのでございます。
第三に不穏文書なることを知りて之を秘密の手段に依つて出版し、又は之を頒布するが如き所為〈ショイ〉も、亦治安維持上に支障を生ぜしむること勿論でありまして、近時の怪文書横行の弊風を防遏せんとする所期の目的を達するが為めには、此種の秘密出版を厳に取締るの要又切なるものがあると考へられるのであります。それ故此種の行為を処罰する為め、第二条の規定を設けた次第でございます。
第四に所謂怪文書に依る弊害は、出版物に依り醸成せらるる場合が最も多いのでありますが、例へば通信等出版以外の方法に依り謡言が流布せられまして、之に依つて治安確保に重大なる支障を生ぜしめられる場合も亦尠くないのであります。治安確保の為には是等の所為も亦之を処罰する必要があると考へ、第三条の規定を設けまして、治安を妨害するが如き不穏なる流言浮説、人心惑乱、軍秩紊乱又は財界攪乱の目的を以て流布した者をも処罰することと致したのでございます。
第五に所謂怪文書等の取締は其徹底的勦滅〈ソウメツ〉を期せざれば、所期の目的を達し難しと考へられますので、第四条の規定を設けて、前述の各罪に付き其未遂罪をも亦之を罰することに致したのでございます。併し出版物に依り犯さるる罪に付ては、図画文書等の印刷を依頼せられました印刷者が、印本を依頼者に引渡す前に自首した時は、其の刑ヲ免除することと致したのであります。是れ畢竟印刷者より自首する場合を多からしめ、以て文書の流布を未然に防止し易からしめんとしたるに外ならないのであります。
第六に秘密の手段に依り出版せらるるものと認められる出版物に付ては地方長官、東京都に在りては警視総監に於おきまして、直ちに当該出版物の発売頒布を差止める必要がありますと認めたならば、其印本及刻版を差押ふることを得ることとしたのであります。尤も此差押は発行の責任者に付き真実記載又は成規納本ある迄の一時的の仮処分に止まるものでありますが、之に依り不穏文書と認められるものを早期に発見して其流布を未然に防止するを得るの効果大なるものがあると信ずるのでございます。
以上申上げました所が本法案の内容の大体であります。要するに本法案の眼目とします所は、悪性の目的を以て又は秘密の手段を以てするが如き、罪質最も悪む〈ニクム〉べき不穏文書等の取締をせんとするものでありまして、此趣旨を明白にする為に、一般言論の取締法とは独立しまして、特別法を制定することと致したのであります。」【以下、次回】
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