礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

伊藤さんが君に会ひたいといふ(井上毅)

2023-02-09 04:43:58 | コラムと名言

◎伊藤さんが君に会ひたいといふ(井上毅)

 清水伸の『維新と革新』(千歳書房、一九四二年四月)から、「金子堅太郎伯に維新をきく」の章を紹介している。本日は、その八回目。

      伊藤博文の人物試験と私
○清水 伊藤公は迫力があり裁断流るゝが如きものがあつたといはれ、伊藤さんの政治的指導力は卓抜してゐたさうですね。
○金子伯 私は伊藤さんの訓陶を受けたのですが何度叱られたか分らない。伊藤さんは淡白な気のよい人でしたからね。そこがまた人に誤解されもした。伊藤公に私淑した人なら殆どあの人の指導に基いてやつて行くやうになるのですからね。昔釣鐘鋳りの話を聞いたことがあるが、三井寺〈ミイデラ〉の鐘、知恩院の釣鐘は有名ですが、あゝいふ釣鐘になると大抵三つか四つ鋳る〈イル〉。そして釣鐘鋳りは鉄の金槌で以てガーンと叩く、ゴーンゴンゴンと余声がずつと響いて行くのを聞いてゐる。そしてほかの鐘を今度は叩く、次々に叩いて一番音の冴えた鐘を納めるのです。残つたのは溶鉱炉へ入れて溶かしてしまふ。伊藤公の人物試験はその釣鐘鋳りと同じで、若い者に初めて会ふ時はガーンと鉄槌をくれる。それにどぎまぎして逃げて帰る奴は駄目だ。ガーンとくれるとそれに反抗してくる奴は使へる人物だと伊藤公はいはれた。私もそれをやられた。
 明治十七年〔一八八四〕の四月突然井上毅〈コワシ〉が来て「伊藤さんが君に会ひたい今日連れて来いといふのだ行かう」といふのです。何の用で私に伊藤さんが会ひたいといふのかと聞くと、井上は俺は知らぬといふ。唯君と俺が懇意だといふたら連れて来いと言はれるのだ、ともかく行かうといふわけで一緖に行つた。井上がこれがあなたの会ひたいといふ金子ですと紹介すると、伊藤さんはいきなり俺の秘書官になつてくれと言はれる。私は――今日はじめてあなたにお目に掛つたのに秘書官になれと仰しやるが、御承知の如く秘書官は親戚か最も自分の信頼する者を以てするのが例である。然るに今日はじめて会ひ、私の性行も御承知なく、どういふ政治意見を私が持つてゐるかもぬ承知ない、秘書官になつてあなたの徳を下しても恐入るから御免蒙る。――申上げた。すると公は、――君は御免蒙るといふのか、その理由は性行と政治意見の二つだな、君の性行や政治上の意見位ちやんと知つてゐる。知つてゐるから秘書官に頼むのだ。憲法を起草する大命を拝したから、君と伊東巳代治〈ミヨジ〉と井上〔毅〕の三人に憲法起草委員を頼む心算だ。性行だの政治意見などそんなことは心配はいらぬ。――と申される。それならお引受しますといふことになつた。

      伊藤博文と國體・政体を論争す 
 三ケ月位して私は太政官の伊藤さんの直轄になつた。伊藤さんが長官で井上〔毅〕・伊東〔巳代治〕と私がその下にゐたわけです。ある日伊藤公は、「――金子、君は憲法政治になれば國體は変転せぬ、政体は変ることがあると言つてゐるさうだがそれは間違つてゐる。――」といふ。私の議論は、政体は変革するが國體は不変であるといふのであつた。伊藤公はそれに反対されたのであります。そこで私は王政の昔は天皇親政であつたが、〔源〕頼朝が幕府を開いて政治が武門に移り、織豊〈ショクホウ〉、徳川と続き、徳川幕府が倒れ王政維新となり、王政復古して天皇御親政となつた如く、政体は変転すると説明した。
 政体の変転、國體の尊厳は弘道館記述義にもある「万世一系の天皇はこの国に君臨す、國體こゝを以て尊厳」とあるやうに、天皇がこの国に君臨し、國體は尊厳である。憲法政治により國體が変換するといふ伊藤さんの説は間違ひであると私は言つた。そこで一時間ばかりすつたもんだと議論したが、伊藤さんは君よく考へて置けといふ。いやあなたこそもう一度御再考願ひますと私は申上げた。その議論はそれきりになつたところ、廿年の後でありましたが、伊藤さんは一日内閣諸公、枢密顧問官、上下両院議員、学者等七八百人を招いて園遊会を催した。その時伊藤さんは芝生のテーブルに起上つて一場の挨拶をした。――今日は丁度憲法発布になつて廿年目である。憲法政治も順調に進んでゐるので私の責任も済み祝杯を共にしたい。時に憲法制定当時には、憲法を実施すれば國體が変換するといふ議論が大分喧しかつたが、私は政体は変換する占も國體は変換せぬといふ一点張りであつた。――といふのであります。伊藤さんは私と議論を戦はした時の御自分の説は捨てゝ私の議論をそのまゝ演説したのですから私は驚いた。私は伊藤さんの演説するテーブルの下にゐたところ、伊藤さんが飛びおりて来て「おい金子、今日の演説はどうだつたか」と私の肩を叩くのです。そこで私は「あなたの御演説はこれで数百回聞いたが、今日のが第一等です」と笑つたやうなわけです。「それはそのはずだよ、今日は君の代言をしたんだからね」と伊藤さんは大笑された。そのやうに伊藤公には淡白なところがあり、そこが人をなづける長所であつた。【以下、次回】

 金子は、「釣鐘鋳りの話」をしている。この「釣鐘鋳り」とは、文脈上からして、釣鐘を造る鋳物師のことだろう。「釣鐘鋳り」の読みだが、「つりがねいり」と読むのか。
 憲法発布二十年を記念する園遊会が開かれた年月日は、まだ調べていないが、一九〇九年(明治四二)の二月前後か。なお、伊藤博文がハルビンで暗殺されたのは、同年の一〇月二六日である。
 金子はここで、伊藤博文との「國體」論争を紹介し、帝国憲法の発布によって國體が変換することはない、という自分の主張は、伊藤も認めるところだったと語る。ここで金子は、自分が憲法起草者の唯一の生き残りであること、帝国憲法の解釈については、伊藤も一目おいていた自分の見解に正統性があることを強調したかったのであろう。こうした金子のアピールは、一九三五年(昭和一〇)の國體明徴問題の中で浮上してきたものである。

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