◎私も幾度か公衆の面前で侮辱された(荒木貞夫)
雑誌『別冊知性』第五号「秘められた昭和史」(河出書房、一九五六年一二月)から、荒木貞夫の「日華事変突入まで」という文章を紹介している。本日は、その二回目。
大戦の失敗はかくあらわれた
第一次大戦は、世界のどの国にとつても、またとない試煉の道場であつた。ところが日本のみは眼先の利益に汲々としていたので、世界状勢から完全にとり残された。眼は極東いや日本の狭い国土のなかだけにとどまつて、やがてくる新時代に正当な判断力をもつこともなく、人心はますます弛緩していつた。大戦のような試煉の道場は、得ようとしても、容易に得られるものではない。この絶好のチャンスを失つたことは、なんとも大きな損失であつた。
最も大きな損失は大戦中(大正四年〔一九一五〕一月)中国に対し対支二十一箇条を強要したことである。その主張には根拠があるとしても、国際的には、時機といい、主張といい、歓迎すべきものではないと、私は欧州でひどくろうばいした。このときの外相は加藤高明、陸相岡市之助〈オカ・イチノスケ〉、法相尾崎行雄、参謀本部作戦部長は宇垣一成〈ウガキ・カズシゲ〉であつた。
経済的にみても、平和産業輸出によつて得た金額は、二十数億円にのぼつたが、儲けたのは一部の関係者だけで、大衆は一向にうるおわなかつたばかりでなく、国民生活はかつてない不安と焦燥にさらされ、各地に米騒動まで起つた。
思想また共産、ファッショとめまぐるしい旋風が吹きまくるのも素知らぬ顔で、無秩序の明治以来の自由主義にどつかりとアグラをかくのならまだいいが、自然の推移に任せるあなた任せぶりである。だから大正十年〔一九二一〕には共産党の地下組織は結成され、燎原の火の如く、各層に滲透し、軍隊にまでその手がのびる始末だつた。関東大震災に甘粕〔正彦〕が大杉栄〈サカエ〉一家を殺す事件が起きたり、難波大介事件、原敬〈ハラ・タカシ〉暗殺と、人心は極度に荒廃の一路をたどるかにみえた。
そして軍事は、三年半の欧州戦場の死闘によつて立体戦の時代に入り、過去の兵器はその価値を半減し、戦車、飛行機、無線電信、機関銃、大火砲に戦術を一変した。海軍においても、潜水艦と飛行機の時代になつていた。ところが戦後世界を風靡した平和論は、いちはやく日本にも波及し、この大戦争を身をもつて体験しないわが当事者は、平和論の宣伝に迷つた。拡張に拡張して必要以上にふくれあがつた列国が、軍備の整理を目的にする軍縮はもつともな話である。ところがこれに操られ追随した。だから大衆までがもう軍人なんかいらないと、蔑視するに至つたのである。
私もその例にもれなかつた。
大正八年〔一九一九〕の夏、まだ世界大戦の終末すら告げていない頃である。シベリヤ事変のだらしなさに憤慨した私は、意見を具申したことが原因で、現地からよびもどされた。そして熊本の連隊長として転任した。三年間欧州の戦場でむこうの兵隊ばかりを見てきた私の眼には「これが祖国の兵隊か」とおもうと、泣きたいくらい。新兵器らしいものはなにもない。板を叩いて機関銃攻撃を模し、竹トンボをとばして飛行機が飛んできたと、その竹トンボ目標に小銃の射撃をやつている。戦車となると、大きな竹籠のようなものに新聞紙を貼り、これに迷彩を施して、二本の竹棒で兵隊が二人でかついできて「戦車来襲」と叫ぶ。
こんな調子だから連隊の志気はサッパリあがらない。そして軍人をみる世間の眼は非常に冷たかつた。私も幾度か公衆の面前で侮辱され、年甲斐もなくどなつてしまつたことがあつたが、陸軍ばかりでない、海軍の方も風当りが強かつたらしい。それはシーメンス事件の直後であつたせいもあつたろうが、気の毒なほどしよんばりして、外出には軍服を着るのを避けているようだつた。昭和に入つて、次々と事変が勃発したとき、在郷軍人までが競つて軍服で風を切つていたのとは、いい対照の軍服受難時代である。【以下、次回】