礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

私は権兵衛は偉いと思つた(金子堅太郎)

2023-02-07 02:44:48 | コラムと名言

◎私は権兵衛は偉いと思つた(金子堅太郎)

 清水伸の『維新と革新』(千歳書房、一九四二年四月)から、「金子堅太郎伯に維新をきく」の章を紹介している。本日は、その六回目。

      維新史完成の感激と苦心
 ところが山本権兵衛〈ゴンベイ〉内閣の時に行政費削減の論が出た。その頃の文部大臣は奥田義人〈ヨシト〉だつた。一日〈イチジツ〉奥田が私の宅に来ていふのに――「あの維新史については今日すらすら進んでゐるが、大蔵省の経費削減方針により幾分か編纂を削減するといふ案が出てゐる。自分は極力大蔵大臣〔高橋是清〕に削減しては困ると交渉してゐるが、大蔵省の省議では各省按分比例で削減するのだから維新史の方も減らすといふので困つてゐる。前大臣〔斎藤實〕から引継いで 陛下の思召〈オボシメシ〉により行つてゐるのだから極力努力したが、自分の力では及ばない。大蔵省の案が明日の閣議で決まるのです。どうかあなたから山本総理に会つて何とか言つて貰ひたい。大蔵省の鼻息が荒くて私にはどうにも出来ぬ。」――といふ。よろしいそれなら話してやらうと、その翌日閣議があり予算会議が開かれたので、私は権兵衛を別室に呼んで奥田の話をした後――苟しくも 明治天皇の思召で出来た維新史料編纂局である、 明治天皇の思召で出来た予算を大蔵大臣が勝手に削減してよいのか、勅許も得ず削減するとはどういふわけか、君が総理大臣たる以上は否応〈イヤオウ〉の返事を聞きたい――と山本に詰め寄つた。――俺はそのことを知らなかつた。 明治天皇の思召で出来た局ならば大蔵大臣が何といはうが閣議で否決して元の通りにするから安心してゐ給へ――と山本が応諾した。私は権兵衛は偉いと思つた。各大臣の意見も聞かずにこの権兵衛が引受けたから安心し給へと言ったからである。そんな経緯を経て編纂事業は進んで参つた。それまでは徳川方なら会津・桑名・米沢・仙台、薩長方は土佐の方も公平に史料を集めたが、それから生きてゐる元老に話をして貰つたり、田舎の老人を呼んで維新の話を聞き、速記に取つたりしたのであります。それは尨大なものが残つてゐます。
 さうしてゐるうちに岡田〔啓介〕内閣の時に天皇機関説が上下両院に出て大変喧しくなつた。殊に貴族院では喧しかつた。そこで岡田内閣は國體明徴、教学刷新の声明書を出した。時の文部大臣は民政党の松田源治であつた。松田が私〔金子〕を呼んで言ふのに、「――かういふ声明書を出したから維新史を早く書いて貰ひたい。さうすれば國體明徴、教学刷新の根本が決まるからである。維新史の材料はあなたの御手許に大抵集つたと思ふから、早く書いて議員にも知らせ、一般国民にも知らせ、天皇機関説の如き國體を傷つけるやうなことが再び起らぬやうしたいのです。閣議で決まり声明書も出てゐるから是非やつて貰ひたい。――」といふので、それぢやすぐやらうといふことになつた。それから昭和十三年〔一九三八〕の六月でした。私は「推新史を進むるの議」を陛下に上奏した。その時は松田源治が死んで荒木貞夫が文部大臣であつたので、荒木文相侍立の下に私が捧呈したのであります。御裁可を得ましたのでいよいよ維新史を書くことになつた。どういふ風に書くか評議したが、早く文部省で出してくれといふから、まづ大まかなところを纏めて一冊の本とし一般国民のために出すことに致した。これが概観維新史であります。それから維新史の方はゆつくりかゝつて、学者とか知識階級の人のためにしようといふので五巻に纏めることになつた。そして昭和十六年〔一九四一〕の夏までに書上げるといふことで進行してゐた。ところが昨十五年〔一九四〇〕あの通りの大患であつた。幸に奇蹟にも起上り、病後は殆ど枢密院にも出ず、原稿を葉山へ取寄せて一々修正したり、文字の誤〈アヤマリ〉を直したり、一言一句と雖も逃さぬやうに私は眼を通したのであります。漸く今年〔一九四一〕八月の廿日に出来上つたのであります。一二三巻は既に印刷してあるが、四五巻は印刷を註文したが、第一に紙がなお、活字も困る、職工も足りないといふことで、今年一杯は印刷にかゝるといふのであります。四五巻の印刷がすぐ間に合はぬので、献上にはどうしようといふことになつたが、四五の二巻はタイプライターのまゝで捧呈することになつた。九月廿五日に参内して、拝謁仰付け〈オオセツケ〉られ完成の上奏を致し奉つたのであります。これが維新史の沿革の概略であります。
○清水 随分な紆余曲折だつたのですね、憲法発布五十年の今日はじめて憲法と維新史と両々相俟つ〈アイマツ〉やうな理想的状態が実現出来たわけですね。
○金子伯 出来たわけです。ダイシイ、アンソンも故人になり、スペンサーも故人になりました。あの人達が生きてゐるうちに見せたら喜んだだらうと思ひます。幸に明治天皇の思召が完結致し、元勲の依頼も果したのですから、私一個としては大任が果せました。最後の御奉公も済んだのであります。【以下、次回】

 金子は、「岡田内閣の時に天皇機関説が上下両院に出て大変喧しくなつた」と、他人事のように書いているが、天皇機関説問題に深く関与していた。このことは、飯田直輝氏の論文「金子堅太郎と国体明徴問題」によって明らかにされている。当ブログ先月二〇日のコラム「金子堅太郎と加藤寛治」では、飯田論文の一部を紹介しておいたので、できれば参照願いたい。

*このブログの人気記事 2023・2・7(8・9位の帝銀事件は久しぶり)

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