礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

両言語は文法的構造上、著しい類似・一致を示す

2022-06-25 03:39:13 | コラムと名言

◎両言語は文法的構造上、著しい類似・一致を示す

 昨日の続きである。本日は、濱田敦『朝鮮資料による日本語研究』(岩波書店、一九七〇年三月)の本文を紹介してみたい。紹介するのは、第二編の六「主格助詞가(ka)成立の過程」である。

   六 主格助詞가(ka)成立の過程

 冒頭の論文でも述べたところであるが、朝鮮語学乃至朝鮮語の学習が、それ自身のためにではなく、私の専攻するところの、日本語の研究に、もし役立つとするならば、それは、大ざっぱには次の三通りくらいの意味においてであろう。即ち、その第一は、仮りに朝鮮語が日本語と同系の言語であると仮定して、或は、云い方を換えれば、その様なことを証明するために、両者を比較言語学的立場において比較研究することである。第二には、少くとも現在の段階では、両言語の同系に属することを正統的比較言語学の方法において証明するのは困難であるが、その様なことは一応度外視しても、この両言語は、既に同系たることが証明済の多くの他の諸言語間におけると同じくらい、或は、それ以上の度合いで、特に文法的構造上著しい類似、一致を示しているのである。その様な両言語を、新村出〈シンムラ・イズル〉博士の言を借りるならば、「比較」ではなくして「対照」することは、日本語と著しく構造の異る印欧諸言語などとの間におけるよりも、日本語反省の手がかりとして役立ち、より大きな効果を期待することが出来るのである。第三に、十六、七世紀の交、あたかもキリシタンやシナ人の手によって記録された外国資料が集束的に現れる、その同じ時期に、やはり朝鮮人の手によって記録された日本語の文献が少からず伝えられていて、それが他の外国資料と共に、当時の日本語の研究のために、特にその古代語から近代語への過渡のあり方をまざまざと反映していると考えられる点において、或る意味では国内のものよりも貴重な資料として役立つのである。その様な朝鮮資料を正しく読み解くためにも、朝鮮語の学習は必要であり、また有用でもある
 私は、主としてはその第三の目的、つまり日本語の史的研究のために、所謂朝鮮資料(それは、裏返せば、とりもなおさず朝鮮語の史的研究のための日本資料でもある)を過去十余年にも亘って、整理し、私どもの研究室より刊行し、一応その仕事を完了することが出来た。しかし、キリシタンやシナ資料は措くとして、特に朝鮮資料の場合、ただそれだけの利用に止めるには惜しい文献だと私は思う。上述の様に、著しく構造の類似した両言語の、対訳の形を採っているこれらの資料の、しかも相前後する幾つかの時期のものをつなぎ合わせ、比べ合わせることによって、上に指摘した第二の意味、つまり日本語(および朝鮮語)の、特に文法的性格・構造の反省の資料としても、大いに役立ち得ると考えられるのである。【以下、次回】

 最初に、「冒頭の論文」とあるが、これは、『朝鮮資料による日本語研究』第一編の一「日本語を記録した朝鮮文献」を指す。

*このブログの人気記事 2022・6・25(10位の伊藤・山県は久しぶり)

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崔漢倹・廉殷鉉両君に師事して朝鮮語の勉強をはじめた(濱田敦)

2022-06-24 00:06:33 | コラムと名言

◎崔漢倹・廉殷鉉両君に師事して朝鮮語の勉強をはじめた(濱田敦)

 日本語学者・濱田敦(はまだ・あつし、一九一三~一九九六)の話に戻る。
 濱田敦の代表作は、一九七〇年(昭和四五)三月に出た、『朝鮮資料による日本語研究』(岩波書店)であろう。本文三二四ページ、定価一四〇〇円。
私は、一九七〇年代後半に、この本を入手しようとしたが、すでに「品切れ」の状態で、古書店では、定価の数倍の値が付けられていた。一九八三年(昭和五八)二月に「第二刷」が出たが、定価は三〇〇〇円に値上がりしていた。同年八月に、同じ著者による『続朝鮮資料による日本語研究』(臨川書店)が出たが、こちらは、本文二五四ページで、定価は何と、四八〇〇円であった。
 こういうことを書きとめたのは、一九八三年当時、『朝鮮資料による日本語研究』の第二刷、『続朝鮮資料による日本語研究』を買おうか買うまいか、厳しいフトコロ事情ゆえ、だいぶ迷った思い出があるからである。
 さて本日は、『朝鮮資料による日本語研究』の「はしがき」を紹介してみよう。

    は し が き
 そのことを、もっぱらのしごとにするつもりで、当時の三高生崔漢倹、西洋史の学生廉殷鉉両君に師事して、朝鮮語の勉強をはじめたのは、京大を卒業して、大学院に箱を置いた、昭和十四年〔一九三九〕ごろのことだったと思う。しかし、その後、いろいろの事情で、素志を遂げることが出来ないでしまったが、一度かじりかけた朝鮮語のおもしろさは忘れかね、丁度、私の興味の中心であった日本語の歴史の、中世から近世へかけてのころに、集中して残されている、外国人の手に成った日本語の記録のうち、特に朝鮮関係のものに心をひかれて、それを整理出版し、また、それを利用して、つたない論をなすことが、おのずから私の日々の生活の中心を占めることになってしまったのである。それも、はじめのうちは、日本語の史的研究のための、ありきたりの資料としてしか考えていなかった。その様な見地から書きためたものが、本書の第一編として収めた、幾つかの論文である。
 しかし、その後、この朝鮮資料は、もう少し別の次元の研究のために利用出来るのではないかと云うことを考えだした。それは、朝鮮語が、特に文法構造において、日本語と殆んど一致すると云ってよいほど似ている言語であり、その様な言語の持主である朝鮮人によって受け取られ、記録されたものは、キリシタンやシナの資料とは、本質的に異るところがあるのではないかと云うことである。
 更に、もう一つ、朝鮮資料の特異な点は、その様な相似た両言語の、「対訳」の形式を採っているものが大部分を占めていることである。しかも、それに加うるに、記事の内容は、殆んどそのままで、ただ、それぞれの言語の変化に応じて、新しい形に改められて、ふたたび三たび版を重ね、また、書き改めて写し伝えられたものが、多く存在することである。このことは、それぞれの言語の、歴史的変化をたどるためにも、また、相似た構造の日本語と朝鮮語とを比較対照するためにも、まことに好都合な形式を持つものであると云ってよい。
 かつて、恩師新村出〈シンムラ・イズル〉先生は、系統関係の存在を前提として二つの言語を「比較」することに対して、必ずしもそのことが明らかでないものについては、これを「対照」的研究として、区別すべきことを提唱されたことがあったが、朝鮮語の場合も、それが日本語と、もと一つの祖語から分れたものであることが証明済とは、いまだ云えない段階にあると私は考える。しかし、その文法構造の類似と、しかも、一方において依然として存するズレとは、「対照」的研究のために、恰好な手がかりを与えてくれるはずである。本書の第二編に集めた論文は、その様な見地から、特に問題となりそうな文法的要素について、私なりに考えたものである。
 但し、それらは、この様な研究の手つづきが、日本語の文法構造の反省のために、一つの有効なアプローチのしかたであることを示すための、見本として提出したものと考えて頂きたく、その限りにおいては、決して無意味ではなかったと、みずから信じている。しかし、実は、その様な研究は、私の様に、朝鮮語について、かいなでの知識しか持たないものにとっては、本来無理なものであることは、私自身が最も痛感しているところである。従って、ここに提出した一つ一つの論には、恐らく、多くの誤りが犯されているに違いない。私の心から願うことは、これを踏み台にして、両言語を十分にマスターした、日本および朝鮮の、若い世代の研究者の方々が、この種のテーマについての、より完全な成果を、つぎつぎに出されることのみである。
 本書成るに当って、最小限の、表記の統一、内容の訂正をはじめ、校正から索引の作成に至るまで、すっかり友人安田章〈アキラ〉君のお世話になった。私は、元来、行きあたりばったり主義の人間で、同じ論文の中でさえ、表記の不統一があったり、また、内容においても、用例の引き誤りや、数え違いなどが少くないのであるが、本書において、もし、その様な点が少しでも救われているとすれば、それは一に〈イツニ〉安田君の御協力の賜物である。また、旧稿をこの様な形でまとめることの出来たのは、ひとえに、それを慫慂し、また、書肆に推輓の労をとられた、友人大野晋〈ススム〉、佐竹昭広両氏の御好意によるものである。更に、出版について、終始配慮を与えられた岩波書店編集部の、中島義勝氏の御厚意をも忘れることが出来ない。
 ここに、それらすべての方々に対して、心から感謝の意を表するものである。
  昭和四十四年十一月十六日          濱 田 敦

 文中に、「友人安田章君」とあるのは、国語学者で京都大学名誉教授の安田章(一九三三~二〇〇七)のことである。安田章は、「朝鮮資料と中世国語」によって、文学博士となった(一九八一年一一月、京都大学)。
 濱田敦は、「私の心から願うことは、これを踏み台にして、両言語を十分にマスターした、日本および朝鮮の、若い世代の研究者の方々が、この種のテーマについての、より完全な成果を、つぎつぎに出されることのみである。」と述べていたが、その願いの一部は、安田章によって叶えられたことになる。

*このブログの人気記事 2022・6・24(10位に極めて珍しいものが入っています)

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礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト55(22・6・23)

2022-06-23 00:57:00 | コラムと名言

◎礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト55(22・6・23)
 
 礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト「55」を紹介する。
 順位は、二〇二二年六月二三日現在。なおこれは、あくまでも、アクセスが多かった「日」の順位であって、アクセスが多かった「コラム」の順位ではない。

1位 16年2月24日 緒方国務相暗殺未遂事件、皇居に空襲
2位 15年10月30日 ディミトロフ、ゲッベルスを訊問する(1933)
3位 19年8月15日 すべての責任を東條にしょっかぶせるがよい(東久邇宮)
4位 16年2月25日 鈴木貫太郎を救った夫人の「霊気術止血法」
5位 18年9月29日 邪教とあらば邪教で差支へない(佐藤義亮)
6位 16年12月31日 読んでいただきたかったコラム(2016年後半)
7位 14年7月18日 古事記真福寺本の上巻は四十四丁  
8位 21年8月12日 国内ニ動乱等ノ起ル心配アリトモ……(木戸幸一)
9位 21年6月7日 山谷の木賃宿で杉森政之介を検挙
10位 18年8月19日 桃井銀平「西原鑑定意見書と最高裁判決西原論評」その5      

11位 17年4月15日 吉本隆明は独創的にして偉大な思想家なのか
12位 21年3月4日 堀真清さんの『二・二六事件を読み直す』を読んだ
13位 18年1月2日 坂口安吾、犬と闘って重傷を負う
14位 19年8月16日 礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト30(19・8・16)
15位 18年8月6日 桃井銀平「西原学説と教師の抗命義務」その5
16位 17年8月15日 大事をとり別に非常用スタヂオを準備する
17位 18年8月11日 田道間守、常世国に使いして橘を求む
18位 17年1月1日 陰極まれば陽を生ずという(徳富蘇峰)
19位 22年6月22日 大正期における大阪の田楽屋と「おでん」について
20位 17年8月6日 殻を失ったサザエは、その中味も死ぬ(東条英機)

21位 17年8月13日 国家を救うの道は、ただこれしかない
22位 19年8月18日 速やかに和平を講ずる以外に途はない(高松宮宣仁親王)
23位 21年8月14日 詔勅案は鈴木首相が奉呈して允裁を得た
24位 21年3月5日 ある予審判事が体験した二・二六事件
25位 19年4月24日 浅野総一郎と渋沢栄一、瓦斯局の払下げをめぐって激論
26位 15年10月31日 ゲッベルス宣伝相とディートリヒ新聞長官
27位 20年2月24日 悪い奴等を葬るのが改革の早道だ(栗原安秀中尉)
28位 18年10月4日 「国民古典全書」は第一巻しか出なかった
29位 20年2月26日 日本間にある総理の写真を持ってきてくれ(栗原安秀中尉)
30位 15年2月25日 映画『虎の尾を踏む男達』(1945)と東京裁判

31位 19年1月1日 もちごめ粥でも炊いて年を迎えようと思った(高田保馬)
32位 18年5月15日 鈴木治『白村江』新装版(1995)の解説を読む
33位 19年2月26日 方言分布上注意すべき知多半島
34位 19年8月17日 後継内閣は宮様以外に人なき事(木戸幸一)
35位 20年2月9日 失敗したときは、これをお使いください(小坂慶助)
36位 18年8月7日 桃井銀平「西原学説と教師の抗命義務」その6
37位 21年8月11日 鈴木首相も平沼枢相の意見に賛成したる様子(東郷茂徳)
38位 20年5月11日 靖国神社ハ戒厳司令部ニ対シ制高ノ位置ニアリ
39位 20年7月11日 8月15日以来、別な国家が生成しつゝあるといふ認識
40位 19年1月21日 京都で「金融緊急措置令」を知った村田守保

41位 20年4月24日 ソ連参戦前に戦争終結を策すべきである(瀬島龍三)
42位 22年6月21日 映画『ミニミニ大作戦』とウクライナ人
43位 19年12月9日 『氷の福音』を読んで懐かしい気持ちになった
44位 20年3月30日 澤柳政太郎君の無責任
45位 18年12月31日 アクセス・歴代ベスト108(2018年末)
46位 20年1月20日 私は逃げると思っていました(佐藤優)
47位 20年5月4日 「達磨に手足は不要なり!」と豪語
48位 22年4月12日 これは太古の河流の跡に違いない
49位 19年1月23日 神社神道も疑いなく一種の宗教(美濃部達吉)
50位 18年5月16日 非常識に聞える言辞文章に考え抜かれた説得力がある

51位 18年5月4日 題して「種本一百両」、石川一夢のお物語
52位 18年5月23日 東条内閣、ついに総辞職(1944・7・18)
53位 18年9月30日 徴兵検査合格者に対する抽籤は廃止すべし
54位 22年6月1日 この漢字が読めますか、明治初期の難読漢字
55位 19年1月30日 鵜原禎子が見送る列車は金沢行きの急行「北陸」

*このブログの人気記事 2022・6・23(9位になぜか赤尾敏)

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大正期における大阪の田楽屋と「おでん」について

2022-06-22 02:19:24 | コラムと名言

◎大正期における大阪の田楽屋と「おでん」について

 二〇一五年一〇月二四日のブログに、「大正期の大阪、夏の夕方におでん屋の売り声」という記事を載せた。その後、記事の一部に訂正の必要があることに気づいた。まず、その日の記事を、そのまま掲げる。

◎大正期の大阪、夏の夕方におでん屋の売り声   2015/10/24

 十年ほど前、雑誌『土の鈴』を何冊か入手した。一昨日は、その第一八輯から、「女泣石と女形石」という文章を紹介した。本日は、その第一九輯(一九二三年六月)から、「大阪おでんやの売り声」という資料を紹介する。報告者は、郷土玩具画家として知られる川崎巨泉(一八七七~一九四二)である。
 ここで、「おでん」というのは、いわゆる「関東だき」(煮込みおでん)のことで、その素材は、たぶん、こんにゃくであろう。「中山」が、どこを指すかは不明。
 それにしても、大正期の大阪では、夏に「あつあつ」のおでんを食べていたことに驚いた。

大阪おでんやの売り声
 コオレコオレ新玉【しんだも】おでんさんお前さん出処【でしよう】は
どこじやいな、わたしの出処は、こーれより東
常陸の国は水戸さんの領分、中山そだち、国の
中山出る時は、わらのべゝ着て縄の帯して、鳥
も通はぬ遠江灘を小舟に乗せられ辛難苦労をい
たしまして、落ちつく先は大阪江戸堀三丁目、
はりまやのテントサンのお内で、永らくお世話
になりまして、別嬪さんのおでんさんにならふ
とて、朝から晩まで湯にいつて、湯からあがつ
て化粧してやつして櫛さいて、堂島ヱラまち竹
屋の向ひのあまいおむしのべゝを着て、柚に生
が、ごまにとんがらし青のりさんしよをチヨイ
トかけてうまい事な、おでんあつあつ。
―――――――――――――――――――――
 夏向きになると夕方から屋台店を曳いて島の内〈シマノウチ〉辺から難波新地〈ナンバシンチ〉の色町の方へ廻る田楽屋の売声、是れが存外長たらしい、此爺さん歯が抜けてゐるので声が少々漏れる気味があるが却て面白く聞える。丁度私の宅の前へ車を下す事になつてゐるので或る夏に鉛筆と首つぴきで覚え込んだのを皆様に御披露いたします。友人の話では大阪全市を廻つて居るさうです。 ―川崎巨泉―

 以上が、その日の記事である。訂正の必要があるのは、〝「おでん」というのは、いわゆる「関東だき」(煮込みおでん)のことで、〟という部分である。ここは、〝「おでん」というのは、いわゆる「田楽」のことで、〟と訂正しなければならない。
 誤りに気づいたのは、たまたま、月刊誌『言語生活』の通巻二五九号(一九七三年四月)を手に取り、そこに載っていた「船場のことば。大阪のことば」というインタビュー記事を読んだからである。その記事では、郷土史家として知られる牧村史陽さん(一八九八~一九七九)が、次のように語っていた。

 ――物売りの文句で、大阪独特のおもしろいなつかしいものがありますか――
 東京と大阪の「おでん」は違うんです。東京でオデンと言うたら大阪で言うカントーダキだけですね。ところが大阪でオデンというのは豆腐に白味噌をつけて焼いたものなんです。そのオデンの売り声があったんです。節をつけて言うんですがね。「おでんさんおでんさん、お前【まい】の出所【でしよう】はどこじゃいな。わたしの出所は、これより東、常陸の国は水戸さまの御領分中山そだち、国の中山出る時は、藁のべべ着て縄の帯して、鳥も通はぬ遠江灘を小船に乗せられ、辛難苦労を致しまして、落ちつく先は大阪江戸堀三丁目、はりまやのてん三【ぞう】はんのおうちで、いろいろお世話になりまして、別嬪さんのおでんさんになろうとて、朝から晩まで湯うに入って、湯うから上って、化粧してやつして櫛さいて、堂島色町竹屋の向い、甘いおむしのべべを着て、柚【ゆう】に生姜、胡麻にとんがらし、青海苔・山椒ちょいとかけて、おでんさん、あーつあつ。」まあこんなものは明治時代までですけれどね。

 ここで、牧村さんは、「大阪でオデンというのは豆腐に白味噌をつけて焼いたものなんです」と言っている。いわゆる「田楽豆腐」である。しかし、当時の田楽屋が、この「売り声」で売っていた「田楽」の素材は、豆腐ではなくコンニャクだったと思えてならなかった。「新玉」、「常陸の国」、「湯」といった言葉が、コンニャクを連想させるからである。したがって、二〇一五年一〇月二四日のブログのうち、〝その素材は、たぶん、こんにゃくであろう。〟の部分は、訂正せず、そのままにしておくことにした。
 参考までに、「株式会社丹野こんにゃく」のホームぺージ(https://tannokonnyaku.co.jp/basics.html )には、「こんにゃく基礎知識」という記事があり、そこに次のようにある。

 昔は、こんにゃく芋を生のまま、あるいはゆでて皮をむいてすりおろしたものを使うのが主流でしたが、今ではこんにゃく芋を薄く切って乾燥させ(荒粉・あらこ)、さらに細かい粉(精粉・せいこ)にしてから作る方法が主流となっています。これはすでに1700年代に常陸の国(今の茨城県)の中島藤右衛門が発見した方法で、この加工法によって一年中こんにゃくを作ることが可能になりました。/こんにゃく芋はとても腐りやすかったため、この方法が発見されるまでは、こんにゃく芋が収穫できる秋限定の食べ物だったのです。

 川崎巨泉によれば、大阪では、夏の夕方に「田楽屋」がやってきたという。コンニャクが、一年中、食べられるものになっていた以上、田楽の素材がコンニャクだったとしても矛盾はない。また、川崎巨泉が書きとめた田楽屋の売り声の文句を読むと(牧野史陽さんが覚えていた文句も、ほぼ同じ)、常陸の国でコンニャク製造上の技術革新があった史実を反映しているように思える。

*このブログの人気記事 2022・6・22(10位の「ミヨイ国」は久しぶり)

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映画『ミニミニ大作戦』とウクライナ人

2022-06-21 04:59:57 | コラムと名言

◎映画『ミニミニ大作戦』とウクライナ人

 先日、DVDで映画『ミニミニ大作戦』(パラマウント、二〇〇三)を鑑賞した。この映画は、以前、ビデオで鑑賞したことがあるが、そのときは、あまり感心しなかった。ピーター・コリンソン監督の『ミニミニ大作戦』(パラマウント、一九六九)から受けた印象が、あまりに強かったからである。ちなみに、原題は、どちらも、‛The Italian Job’である。
 今回、改めて観たが、けっこう楽しめた。何と言っても、キャストが豪華である。ストーリーの展開が早く、随所に見せ場がある。なお、一九六九版と二〇〇三年版で共通しているのは、金塊を盗む話であること、プロフェッショナルによるチームが作られること、金塊をミニクーパーで運ぶこと、この三点ぐらいである。
 最初に観たときは気づかなかったが、ウクライナ人の犯罪組織(Ukrainian crime family)が、ストーリーの上で重要な位置を占めている。
 スキニー・ピート(Gwatti)と呼ばれる、一八〇キロはあろうかという巨漢が登場する。彼はウラ社会の人間で、チームに頼まれて、爆薬などを調達する。いつも、韓国人が経営するゴルフ練習場で時間をつぶしているが、近寄りがたい迫力がある。そのピートが、ウクライナ人のマシュコフ(Aleksander Krupa)に脅かされ、アッサリ、盗まれた金塊に関する情報をしゃべってしまう。あとでピートは、「この世で逆らえないのは、自然の力とお袋とウクライナ人だ」という名言を吐いて、自己を正当化する。
 映画の冒頭、金庫破りのプロであるジョン・ブリジャーが登場する。演ずるのは、ドナルド・サザーランド(Donald Sutherland)。彼は、オリバー・ストーン監督の映画『JFK』(ワーナーブラザース、一九九一)で、「X氏」という重要な役どころを演じていた。サザーランドの顔を見たら、『JFK』を、もう一度鑑賞したくなった。

*このブログの人気記事 2022・6・21(8位に極めて珍しいものが入っています)

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