◎両言語は文法的構造上、著しい類似・一致を示す
昨日の続きである。本日は、濱田敦『朝鮮資料による日本語研究』(岩波書店、一九七〇年三月)の本文を紹介してみたい。紹介するのは、第二編の六「主格助詞가(ka)成立の過程」である。
六 主格助詞가(ka)成立の過程
冒頭の論文でも述べたところであるが、朝鮮語学乃至朝鮮語の学習が、それ自身のためにではなく、私の専攻するところの、日本語の研究に、もし役立つとするならば、それは、大ざっぱには次の三通りくらいの意味においてであろう。即ち、その第一は、仮りに朝鮮語が日本語と同系の言語であると仮定して、或は、云い方を換えれば、その様なことを証明するために、両者を比較言語学的立場において比較研究することである。第二には、少くとも現在の段階では、両言語の同系に属することを正統的比較言語学の方法において証明するのは困難であるが、その様なことは一応度外視しても、この両言語は、既に同系たることが証明済の多くの他の諸言語間におけると同じくらい、或は、それ以上の度合いで、特に文法的構造上著しい類似、一致を示しているのである。その様な両言語を、新村出〈シンムラ・イズル〉博士の言を借りるならば、「比較」ではなくして「対照」することは、日本語と著しく構造の異る印欧諸言語などとの間におけるよりも、日本語反省の手がかりとして役立ち、より大きな効果を期待することが出来るのである。第三に、十六、七世紀の交、あたかもキリシタンやシナ人の手によって記録された外国資料が集束的に現れる、その同じ時期に、やはり朝鮮人の手によって記録された日本語の文献が少からず伝えられていて、それが他の外国資料と共に、当時の日本語の研究のために、特にその古代語から近代語への過渡のあり方をまざまざと反映していると考えられる点において、或る意味では国内のものよりも貴重な資料として役立つのである。その様な朝鮮資料を正しく読み解くためにも、朝鮮語の学習は必要であり、また有用でもある
私は、主としてはその第三の目的、つまり日本語の史的研究のために、所謂朝鮮資料(それは、裏返せば、とりもなおさず朝鮮語の史的研究のための日本資料でもある)を過去十余年にも亘って、整理し、私どもの研究室より刊行し、一応その仕事を完了することが出来た。しかし、キリシタンやシナ資料は措くとして、特に朝鮮資料の場合、ただそれだけの利用に止めるには惜しい文献だと私は思う。上述の様に、著しく構造の類似した両言語の、対訳の形を採っているこれらの資料の、しかも相前後する幾つかの時期のものをつなぎ合わせ、比べ合わせることによって、上に指摘した第二の意味、つまり日本語(および朝鮮語)の、特に文法的性格・構造の反省の資料としても、大いに役立ち得ると考えられるのである。【以下、次回】
最初に、「冒頭の論文」とあるが、これは、『朝鮮資料による日本語研究』第一編の一「日本語を記録した朝鮮文献」を指す。