礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

崔漢倹・廉殷鉉両君に師事して朝鮮語の勉強をはじめた(濱田敦)

2022-06-24 00:06:33 | コラムと名言

◎崔漢倹・廉殷鉉両君に師事して朝鮮語の勉強をはじめた(濱田敦)

 日本語学者・濱田敦(はまだ・あつし、一九一三~一九九六)の話に戻る。
 濱田敦の代表作は、一九七〇年(昭和四五)三月に出た、『朝鮮資料による日本語研究』(岩波書店)であろう。本文三二四ページ、定価一四〇〇円。
私は、一九七〇年代後半に、この本を入手しようとしたが、すでに「品切れ」の状態で、古書店では、定価の数倍の値が付けられていた。一九八三年(昭和五八)二月に「第二刷」が出たが、定価は三〇〇〇円に値上がりしていた。同年八月に、同じ著者による『続朝鮮資料による日本語研究』(臨川書店)が出たが、こちらは、本文二五四ページで、定価は何と、四八〇〇円であった。
 こういうことを書きとめたのは、一九八三年当時、『朝鮮資料による日本語研究』の第二刷、『続朝鮮資料による日本語研究』を買おうか買うまいか、厳しいフトコロ事情ゆえ、だいぶ迷った思い出があるからである。
 さて本日は、『朝鮮資料による日本語研究』の「はしがき」を紹介してみよう。

    は し が き
 そのことを、もっぱらのしごとにするつもりで、当時の三高生崔漢倹、西洋史の学生廉殷鉉両君に師事して、朝鮮語の勉強をはじめたのは、京大を卒業して、大学院に箱を置いた、昭和十四年〔一九三九〕ごろのことだったと思う。しかし、その後、いろいろの事情で、素志を遂げることが出来ないでしまったが、一度かじりかけた朝鮮語のおもしろさは忘れかね、丁度、私の興味の中心であった日本語の歴史の、中世から近世へかけてのころに、集中して残されている、外国人の手に成った日本語の記録のうち、特に朝鮮関係のものに心をひかれて、それを整理出版し、また、それを利用して、つたない論をなすことが、おのずから私の日々の生活の中心を占めることになってしまったのである。それも、はじめのうちは、日本語の史的研究のための、ありきたりの資料としてしか考えていなかった。その様な見地から書きためたものが、本書の第一編として収めた、幾つかの論文である。
 しかし、その後、この朝鮮資料は、もう少し別の次元の研究のために利用出来るのではないかと云うことを考えだした。それは、朝鮮語が、特に文法構造において、日本語と殆んど一致すると云ってよいほど似ている言語であり、その様な言語の持主である朝鮮人によって受け取られ、記録されたものは、キリシタンやシナの資料とは、本質的に異るところがあるのではないかと云うことである。
 更に、もう一つ、朝鮮資料の特異な点は、その様な相似た両言語の、「対訳」の形式を採っているものが大部分を占めていることである。しかも、それに加うるに、記事の内容は、殆んどそのままで、ただ、それぞれの言語の変化に応じて、新しい形に改められて、ふたたび三たび版を重ね、また、書き改めて写し伝えられたものが、多く存在することである。このことは、それぞれの言語の、歴史的変化をたどるためにも、また、相似た構造の日本語と朝鮮語とを比較対照するためにも、まことに好都合な形式を持つものであると云ってよい。
 かつて、恩師新村出〈シンムラ・イズル〉先生は、系統関係の存在を前提として二つの言語を「比較」することに対して、必ずしもそのことが明らかでないものについては、これを「対照」的研究として、区別すべきことを提唱されたことがあったが、朝鮮語の場合も、それが日本語と、もと一つの祖語から分れたものであることが証明済とは、いまだ云えない段階にあると私は考える。しかし、その文法構造の類似と、しかも、一方において依然として存するズレとは、「対照」的研究のために、恰好な手がかりを与えてくれるはずである。本書の第二編に集めた論文は、その様な見地から、特に問題となりそうな文法的要素について、私なりに考えたものである。
 但し、それらは、この様な研究の手つづきが、日本語の文法構造の反省のために、一つの有効なアプローチのしかたであることを示すための、見本として提出したものと考えて頂きたく、その限りにおいては、決して無意味ではなかったと、みずから信じている。しかし、実は、その様な研究は、私の様に、朝鮮語について、かいなでの知識しか持たないものにとっては、本来無理なものであることは、私自身が最も痛感しているところである。従って、ここに提出した一つ一つの論には、恐らく、多くの誤りが犯されているに違いない。私の心から願うことは、これを踏み台にして、両言語を十分にマスターした、日本および朝鮮の、若い世代の研究者の方々が、この種のテーマについての、より完全な成果を、つぎつぎに出されることのみである。
 本書成るに当って、最小限の、表記の統一、内容の訂正をはじめ、校正から索引の作成に至るまで、すっかり友人安田章〈アキラ〉君のお世話になった。私は、元来、行きあたりばったり主義の人間で、同じ論文の中でさえ、表記の不統一があったり、また、内容においても、用例の引き誤りや、数え違いなどが少くないのであるが、本書において、もし、その様な点が少しでも救われているとすれば、それは一に〈イツニ〉安田君の御協力の賜物である。また、旧稿をこの様な形でまとめることの出来たのは、ひとえに、それを慫慂し、また、書肆に推輓の労をとられた、友人大野晋〈ススム〉、佐竹昭広両氏の御好意によるものである。更に、出版について、終始配慮を与えられた岩波書店編集部の、中島義勝氏の御厚意をも忘れることが出来ない。
 ここに、それらすべての方々に対して、心から感謝の意を表するものである。
  昭和四十四年十一月十六日          濱 田 敦

 文中に、「友人安田章君」とあるのは、国語学者で京都大学名誉教授の安田章(一九三三~二〇〇七)のことである。安田章は、「朝鮮資料と中世国語」によって、文学博士となった(一九八一年一一月、京都大学)。
 濱田敦は、「私の心から願うことは、これを踏み台にして、両言語を十分にマスターした、日本および朝鮮の、若い世代の研究者の方々が、この種のテーマについての、より完全な成果を、つぎつぎに出されることのみである。」と述べていたが、その願いの一部は、安田章によって叶えられたことになる。

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