礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「国語」とすると、国家・国民なる観念が導入せられやすい

2022-06-17 03:03:10 | コラムと名言

◎「国語」とすると、国家・国民なる観念が導入せられやすい

 濱田敦『古代日本語』(大八洲出版、一九四六)の紹介を続ける。本日は、その「序説」を紹介したい。かなり長いので、何回かに分けて紹介する。

   序  説
 まづ「日本語」と云ふ言葉について一言述べて置きたいと思ふ。これは普通「国語」と我々が呼んでゐる世界の諸言語の中〈ウチ〉の或る特殊言語の一〈ヒトツ〉を指すものである事は云ふまでもない。之を我我は或は国語とよび、或は「日本語」と称する。そのいづれを択ぶ〈エラブ〉べきかについては、人により或は場合によつてそれぞれ理由の存する処があるであらう。山田孝雄〈ヨシオ〉博士は国語を以て、日本帝国の中堅たる大和民族の過去、現在、未来に於いて使用する言語であり、而も大日本帝国統治上公式の語として教育上の標準と立て用ゐられたる、「標準語」の謂〈イイ〉であるとして居られる。時枝誠記〈トキエダ・モトキ〉博士は斯くの如く考へられた国語が日本語の全体、例へば種々の地方に於いて話される方言、各種の社会層の有する職業語等を含み得ざるものであるの故を以つて、之をのみ国語研究の対象と為すことを不当であると説かれる。尤も山田博士も決して国語研究の対象を以て所謂標準語に限定しようとして居られるわけでないことは明らかであるが、唯博士はこれ等方言、職業語等種々の差別相の背後に其の基底として存する「標準語」なるものを考へ、之を以て国語研究の対象とし、方言、職業語等の研究も結局に於いて、其の基底たる標準語研究に帰すると考へられたわけである。此の山田博士の標準語の観念に対する時枝博士の論駁は、時枝博士が国語学原論に於いて為されたソシュールの「言語」、「言語活動」の考へ方に対する反駁と根本観念を同じくするものと云ふべく、個々の具体的な言語活動以外に言語研究の対象無しとする時枝博士の論旨より出でたるものである。此の時枝博士の所論の是非については此処で論ずべき遑〈イトマ〉を有しないのであるが、博士が国語を以て日本語と同義とし、之に国家、国民と云ふ観念を導入することの非を指摘せられた態度に対してば賛同せざるを得ないのである。即ち、我々が国語と云ひ国語学と称するのは単に日本人たる我々が便宜上さうよぶに過ぎないのであつて、その対象たる国語そのものは、世界凡百の言語の一たる日本語であり、たとひ日本民族によつて、日本の領土内で話されずとも凡て同等の権利を以て国語学の対象となり得るものである。又之を研究するものゝ側より見ても、たとひそれが日本人たらずとも、日本語を研究対象とする限り所謂国語学の一部と考へるべきである。従つて我々が学問の対象、名称として使用する際には、国家、国民なる観念の導入せられ易い国語、国語学と云ふ名前よりも、むしろより普遍的な日本語、日本語学の方が択ばるべきであると信ずるのである。唯此の名称の唯一の欠点としては、音節及びそれを表はす文字の数が国語、国語学と云ふ名前に比して多いと云ふことである。日本語の発音及びその表記上の習慣より、四音節の語よりも、三音節の語の方が発音上容易であり、三字の漢字熟語よりも二字の熟語の方が書く方からも又見る方からも遥に親しみ易いのである。従つて我々は、独逸語、英吉利語、露西亜語などと云ひ、又書く代りに独語、英語、露語などゝ云ひ、又書くのである。此の音節、文字数の多いと云ふ事の不便をさへ我慢すれば、日本語、日本語学の名称を択ぶに如く〈シク〉はなく、殊にそれが一般社会に於ける言語上の問題ではなくして、学問上の用語と云ふ特殊な場合のそれであるとすれば、これ位の不便さは忍ばるべきであらうと考へて、敢て本書に於いては、日本語と云ふ名称を択んだわけである。
 即ち本書で云ふ「日本語」とは、時枝博士の言を借りれば、凡そ日本語的性格を有する言語一切の謂であり、その話される時代、場処、それを話す人の如何を問はないものである。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2022・6・17(8位の平田篤胤が久しぶり)

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