礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

赤尾敏、二・二六事件を語る(1975)

2018-02-18 02:43:59 | コラムと名言

◎赤尾敏、二・二六事件を語る(1975)

 島津書房編『証言・昭和維新運動』(島津書房、一九七七)は、第一部「証言 私の昭和維新」と、第二部「対談 座談 維新運動」からなっている。第二部の冒頭にある鼎談記録「『維新運動』を語る――赤尾敏・津久井龍雄・猪野健治」(初出、一九七五)は、昨年一一月一五日のコラムで、その一部を紹介したことがあった。
 本日は、この鼎談記録のうち、右翼活動家の赤尾敏〈アカオ・ビン〉が、二・二六事件との関わりを語っている部分を紹介したい。発言者名に「司会」とあるのは、猪野健治氏を指す。なお、本日、紹介する部分は、昨年一一月一五日に紹介した部分の直前にあたる。

  昭和維新挫折の真因
 赤尾 ぼくのところから出ていった人は、なぜかぼくを目の仇にした(笑)。
 建国会では、いくつか雑誌を出したんだが「行動維新」という雑誌をやってたときに、編集者がメーデーについてアンケートをとった。西田税〈ニシダ・ミツギ〉(二・二六事件指導者)が解答を寄せてきて、「メーデーは労働者の祭典だから、やらせといたっていいじゃないか」という趣旨のことを書いてきた。よせばいいのに編集奢が「右翼を自認しながら、こういうつまらんことをいう者がいる」なんて同じ誌面に書いちゃった。さあ、西田は怒って、ぼくのところに決闘状をよこした。上野のどこそこへ出てこいというんだ。西田にしてみれば建国会で派手にやっていたぼくをやっかむようなところがあったんだ。それがよけいなことを書いたもんだから、爆発しちゃった。
 ぼくは、つまらんいいがかりだと思ったんでそのままにしてした。西田の方は、引っ込みがつかなくなって、ぼくのところへ電話をかけてきて、建国会の本部へ行くという。
 ぼくは、くるならきてみろと、事務所にスパナやその他の道具類をころがしておいて待ちかまえていた。西田が現われて日本刀でもピストルでも脅しにちらつかせたら、ぼくはただちにスパナで西田の頭を叩き割ってくれようと思っとった。西田の自筆の決闘状がぼくの手元にあるんだから、ほくが責められることはなにもない。そしたら、西田はついに来なかった。ぼくの捨て身の決意が西田の方につたわったのかも知れんね。そのときの決闘状は、まだぼくの手元にあるよ。
 それから数年後に西田税から、久方ぶりに電話がかかってきた。こんどは決闘の話じゃない。会いたいというんだ。僕は、前のイキサツもあったんで、西田君をあんまり信用してなかった。だから「来てくれ」といってもいかなかった。その直後に二・二六事件が発生した。あのとき、ぼくが西田君をたずねていたら、いまごろぼくは墓の下だよ。多分、西田君とともに死刑になっていた。
 司会 そんなことがあったとは知りませんでした、二・二六事件が不成功に終わったことについては、どうお考えですか。
 赤尾 事件のあと、ぼくは考えた。参加者がいのちを投げだして昭和維新を断行しようとした意志は尊いと思う。だが、その戦術たるや根本的に間違っていた。首相官邸や斎藤〔実〕内大臣、鈴木〔貫太郎〕侍従長官邸などを襲ったのがそもそも失敗の原因だ。大臣や警視庁を襲ったってどうにもならない。まず「陛下をお護りする」という大義名分のもとに、宮城にこもり、天皇の御名によって政権交替を断行すべきであった。戦後は、象徴天皇ということになって、天皇大権はなくなったが、当時は、あらゆる施政が、天皇の御名で、行なわれていた。天皇大権の発動をいいながら、天皇を擁して行動しなかったことが二・二六事件の最大の敗因だった。
 津久井 二・二六事件の問題点は、昭和維新の断行を主張しながら、自らは、政権をとる意思をもたなかったことだ。政権をとる意思がないから、したがって具体的な政策ももっていなかった。
 君側の奸〈クンソクノカン〉を倒したあとは、だれかに政権をとってもらう――というのでは、あとがどうなっていくかわからない。君側の奸を倒したあとは、自分たちで政権をとって、こういう政策をやっていくんだという展望をもっていなかった。
 赤尾 日本の右翼にはそういう他力本願的な弱さがあるね。戦後だって、この傾向は残ている。自民党に、ああしろ、こうしろと建策だけをやっている。自分で政権をとって自分で政策をつくっていこうという意欲がなくっちゃ。だから、日本の右翼には政策がない、なんていわれる。他力依存ではダメだ。
 ヒットラーにせよ、ムッソリーニにせよ、ホーチミン、ゲバラ、毛沢東にせよ、自分たちの信念のもとにたたかい、行動し、その手で政権をにぎり、彼らなりの政策を堂々と実現に移している。
 津久井 昭和維新の失敗は、つまるところは、その不徹底性にあった。多くな人たちによる多様な直接行動が行なわれたが、はっきりと政権奪取を表面に出して行動したのは、大川周明さんだけだった。そして、大川さんは、政権を奪取しようなどというのは、天皇大権を犯すことになる――などと、かえって非難された。

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