礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

太田道灌は、なぜ殺されたのか

2022-06-12 00:02:59 | コラムと名言

◎太田道灌は、なぜ殺されたのか

 本日も、雑誌『伝統と現代』、「叛逆」特集号(第二巻第一〇号=通巻第一六号、一九六九年一一月)の紹介である。
 この特集号では、葦津珍彦(あしづ・うずひこ)、八切止夫(やぎり・とめお)、松田修、秋山清、高橋正衛(まさえ)といった面々が、それぞれ健筆を揮っている。今日、読み直して、最も印象的だったのは、杉山博(一九一八~一九八八)の「戦国の叛逆者たち」という文章であった(目次には、「下剋上の精神」とある)。本日は、これを紹介してみよう。

特集=叛逆      ●叛逆者の系譜2

戦国の叛逆者たち    杉山 博

  1 太田道灌の叛逆
 文明十八年(一四八六)七月二十六日、扇谷〈オウギガヤツ〉上杉定正〈サダマサ〉の重臣であり、江戸城主であった太田道灌は、相模国糟屋〈カスヤ〉の定正の館〈ヤカタ〉で、こともあろう主君定正によって、一刀のもとにバッサリと殺されてしまった。
 なぜ道灌は、定正によって殺されなければならなかったのか。その理由を、誅伐の当人定正は、みずからつぎのようにのベている。
 「太田道灌は、堅固に壁塁をきずき、上杉顕定〈アキサダ〉に不儀のくわだてを計画していた。そこで私は、たびたび、使者を派遣して折檻〈セッカン〉したけれども、道灌はいっこうにあらためようとしない。左伝に『都城百雉を過ぐる時は、国の害なり』という言葉がある。つまり城があまりに堅固になりすぎると、国の害となるという意味である。江河の両城(江戸城と河越城)をあまりに堅固にしすぎると、かえって関東の害となることを指摘していたのに、道灌は案のじょう、叛逆を思いたった。そこで私(定正)は、即座に道灌を誅罰し、その旨を、当時鉢形城にいた山内顕定〈ヤマノウチ・アキサダ〉に報告したのである」(上杉定正状)と。
 しかるに山内顕定は、このようにしてまで山内家のことを思う定正の真意を解せず、道灌の死後、定正と争うことになり、扇谷家の運命は、日一日と衰退の一路をたどったのであるが、定正はそれでも、まだ道灌誅殺の理由を、つぎのようにくりかえしのべている。
 「私が道灌とその子の資康〈スケヤス〉の太田父子を誅戮〈チュウリク〉したのは、かれらが山内顕定の心をいだいていたからである。このことは三才の嬰児でもよく知っている。しかるに、顕定は、私の真意がわからず、定正を退治せよなどといっているが、まことになげかわしいことである」と。
 定正は、道灌がおなじ主君すじである顕定に対して、叛逆の心をいだいて、着々とその準備をしていたから、その叛逆がさらに大きいものとならないうちに、その芽をつみとってしまったのであると、くりかえしのべている。この道灌誅伐事件と、その当の誅伐者定正の、叛逆者は誅伐してもよいという論理は、このころの日本では、ごくありふれた事件であり、論理であった。
 それは、叛逆者は、その主君が誅殺を加えても間違ったことではない、つまり叛逆者は、その相手に殺されても、それは当然であるという考え方であった。扇谷定正が、衰亡の一途をたどる運命(責任)に対する諸人の批判にこたえて、強調した考え方も、道灌を叛逆者と見たててのことであった。
 道灌の死からおよそ九十年たった一五七七年、オルガンチーノという宣教師は、友人に送った書翰のなかで、つぎのようにのべている。
 「かれら(日本人)は、笞で人を罰することをせず、もしだれか召使いが、主人の耐えられないほどの悪事を働くときには、かれは、前もって自分の憎悪や激昂の徴を表すことなく、召使いを殺してしまう。なぜなら召使いは、嫌疑をかけられると、先に主人を殺すからである」と。
 まことに、今日の日本人からみると、危険きわまりのない物騒な世の中であるが、オルガンチーノが、みのがさなかったように、これが十五、六世紀の日本人の主従関係であったのであろう。このオルガンチーノの観察には、重要な点が二点ある。
 一点は、叛逆の確証がなくても、主人は叛逆者を問答無用と一刀のもとに切り棄てても、それが正当視された主人側の論理があり、もう一点は、「君、君たらざれば、臣、臣たらず」と、叛逆者である召使いが先に主人を殺しても、それが正当視された召使い側の論理がある。つまり主人が叛逆者を切り棄ててしまうのも道理であるが、叛逆者が先に主人を殺してしまうのも道理であるというのである。扇谷定正の道灌誅伐の論理は、もちろん前者の論理であった。
 しかし道灌誅伐事件に関しては、定正のいうように、道灌がはたして叛逆者であったかどうか、その点に問題がのこる。道灌を叛逆者と見たのは、主君定正の邪推ではなかったかという点である。
 道灌にしてみれば、御家〈オイエ〉大事と、江河の両城を堅固にして、上杉家のために日夜努力していたかもしれない。そうでなければ、殺されるのがわかっていながら、のこのこと出かけるほど道灌は馬鹿ではあるまい。しかし道灌には、先に主君を殺すことはできなかった。その意味で、道灌の叛逆は、まだ戦国の初期の叛逆であり、道灌は、真の叛逆者ではなかったといえるのではあるまいか。
 関東きっての名門の家に生れ、身につけることができたかぎりの教養を身につけた道灌、そして築城術の祖といわれ、足軽戦法の開祖とよばれる道灌は、応仁・文明の大乱後の関東でも、中・小武士の抬頭する力が、いかに世の中を変えていくものであるかを、充分に知っていた。しかし彼は、それらの中・小武士を自分の味方にひきこんで、自力をたくわえ、主家に謀叛をくわだてるという、「臣、臣たらず」の道を歩むことができなかった。
 今日のこされている道灌の史料を見るかぎり、彼は「君たらざる」主君に、臣として全知全能をかたむけて仕え、その姿は、ふるき時代の武士の姿にもにて、まことにあわれでもある。彼こそは、「君、君たらずとも、臣、臣たり」の道を歩んだ最後の中世武士であったのではあるまいか。

 このあと、「2 北条早雲の叛逆」に続くが、これは次回。
 文中、「江河の両城(江戸城と河越城)」とあるが、この「江河」は、「長江と黄河」をあらわす「江河」からの連想であろう。だとすれば、その読みは「こうが」か。
 また、「かれらが山内顕定の心をいだいていた」という部分がある。意味が取りにくいが、文脈からすると、「かれらが山内顕定に対し二心をいだいていた」の意味と思われる。

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