◎大正期における大阪の田楽屋と「おでん」について
二〇一五年一〇月二四日のブログに、「大正期の大阪、夏の夕方におでん屋の売り声」という記事を載せた。その後、記事の一部に訂正の必要があることに気づいた。まず、その日の記事を、そのまま掲げる。
◎大正期の大阪、夏の夕方におでん屋の売り声 2015/10/24
十年ほど前、雑誌『土の鈴』を何冊か入手した。一昨日は、その第一八輯から、「女泣石と女形石」という文章を紹介した。本日は、その第一九輯(一九二三年六月)から、「大阪おでんやの売り声」という資料を紹介する。報告者は、郷土玩具画家として知られる川崎巨泉(一八七七~一九四二)である。
ここで、「おでん」というのは、いわゆる「関東だき」(煮込みおでん)のことで、その素材は、たぶん、こんにゃくであろう。「中山」が、どこを指すかは不明。
それにしても、大正期の大阪では、夏に「あつあつ」のおでんを食べていたことに驚いた。
大阪おでんやの売り声
コオレコオレ新玉【しんだも】おでんさんお前さん出処【でしよう】は
どこじやいな、わたしの出処は、こーれより東
常陸の国は水戸さんの領分、中山そだち、国の
中山出る時は、わらのべゝ着て縄の帯して、鳥
も通はぬ遠江灘を小舟に乗せられ辛難苦労をい
たしまして、落ちつく先は大阪江戸堀三丁目、
はりまやのテントサンのお内で、永らくお世話
になりまして、別嬪さんのおでんさんにならふ
とて、朝から晩まで湯にいつて、湯からあがつ
て化粧してやつして櫛さいて、堂島ヱラまち竹
屋の向ひのあまいおむしのべゝを着て、柚に生
が、ごまにとんがらし青のりさんしよをチヨイ
トかけてうまい事な、おでんあつあつ。
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夏向きになると夕方から屋台店を曳いて島の内〈シマノウチ〉辺から難波新地〈ナンバシンチ〉の色町の方へ廻る田楽屋の売声、是れが存外長たらしい、此爺さん歯が抜けてゐるので声が少々漏れる気味があるが却て面白く聞える。丁度私の宅の前へ車を下す事になつてゐるので或る夏に鉛筆と首つぴきで覚え込んだのを皆様に御披露いたします。友人の話では大阪全市を廻つて居るさうです。 ―川崎巨泉―
以上が、その日の記事である。訂正の必要があるのは、〝「おでん」というのは、いわゆる「関東だき」(煮込みおでん)のことで、〟という部分である。ここは、〝「おでん」というのは、いわゆる「田楽」のことで、〟と訂正しなければならない。
誤りに気づいたのは、たまたま、月刊誌『言語生活』の通巻二五九号(一九七三年四月)を手に取り、そこに載っていた「船場のことば。大阪のことば」というインタビュー記事を読んだからである。その記事では、郷土史家として知られる牧村史陽さん(一八九八~一九七九)が、次のように語っていた。
――物売りの文句で、大阪独特のおもしろいなつかしいものがありますか――
東京と大阪の「おでん」は違うんです。東京でオデンと言うたら大阪で言うカントーダキだけですね。ところが大阪でオデンというのは豆腐に白味噌をつけて焼いたものなんです。そのオデンの売り声があったんです。節をつけて言うんですがね。「おでんさんおでんさん、お前【まい】の出所【でしよう】はどこじゃいな。わたしの出所は、これより東、常陸の国は水戸さまの御領分中山そだち、国の中山出る時は、藁のべべ着て縄の帯して、鳥も通はぬ遠江灘を小船に乗せられ、辛難苦労を致しまして、落ちつく先は大阪江戸堀三丁目、はりまやのてん三【ぞう】はんのおうちで、いろいろお世話になりまして、別嬪さんのおでんさんになろうとて、朝から晩まで湯うに入って、湯うから上って、化粧してやつして櫛さいて、堂島色町竹屋の向い、甘いおむしのべべを着て、柚【ゆう】に生姜、胡麻にとんがらし、青海苔・山椒ちょいとかけて、おでんさん、あーつあつ。」まあこんなものは明治時代までですけれどね。
ここで、牧村さんは、「大阪でオデンというのは豆腐に白味噌をつけて焼いたものなんです」と言っている。いわゆる「田楽豆腐」である。しかし、当時の田楽屋が、この「売り声」で売っていた「田楽」の素材は、豆腐ではなくコンニャクだったと思えてならなかった。「新玉」、「常陸の国」、「湯」といった言葉が、コンニャクを連想させるからである。したがって、二〇一五年一〇月二四日のブログのうち、〝その素材は、たぶん、こんにゃくであろう。〟の部分は、訂正せず、そのままにしておくことにした。
参考までに、「株式会社丹野こんにゃく」のホームぺージ(https://tannokonnyaku.co.jp/basics.html )には、「こんにゃく基礎知識」という記事があり、そこに次のようにある。
昔は、こんにゃく芋を生のまま、あるいはゆでて皮をむいてすりおろしたものを使うのが主流でしたが、今ではこんにゃく芋を薄く切って乾燥させ(荒粉・あらこ)、さらに細かい粉(精粉・せいこ)にしてから作る方法が主流となっています。これはすでに1700年代に常陸の国(今の茨城県)の中島藤右衛門が発見した方法で、この加工法によって一年中こんにゃくを作ることが可能になりました。/こんにゃく芋はとても腐りやすかったため、この方法が発見されるまでは、こんにゃく芋が収穫できる秋限定の食べ物だったのです。
川崎巨泉によれば、大阪では、夏の夕方に「田楽屋」がやってきたという。コンニャクが、一年中、食べられるものになっていた以上、田楽の素材がコンニャクだったとしても矛盾はない。また、川崎巨泉が書きとめた田楽屋の売り声の文句を読むと(牧野史陽さんが覚えていた文句も、ほぼ同じ)、常陸の国でコンニャク製造上の技術革新があった史実を反映しているように思える。
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