礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

学者的良心を麻痺せしめてでも……

2022-06-16 01:42:31 | コラムと名言

◎学者的良心を麻痺せしめてでも……

 濱田敦(はまだ・あつし)は、京都大学文学部で国語学主任教授を務めた日本語学者で、同大学名誉教授(一九一三~一九九六)。『朝鮮資料による日本語研究』(岩波書店、一九七〇)、『続朝鮮資料による日本語研究』(臨川書店、一九八三)などの著書がある。
 その濱田敦が、終戦直後に出した『古代日本語』(大八洲出版、一九四六年一一月)という本がある。本文二〇〇ページ、定価二〇円。
 数日前、久しぶりに、この本を手に取ってみた。改めて、コンパクトにまとめられた良書だと思った。本日は、その「あとがき」を紹介してみたい。

   あ と が き

 未だ黄吻乳臭の身を以て「日本古代語」などといふ題下に一冊の書を執筆せんとする事が如何におほけなき〔身の程をわきまえない〕わざであるかを知らなかつたわけではない。それにも拘らず四囲の状勢は私をして遂にその筆を執るの止むなきに至らしめたのである。一昔前ならば私如きものがたとひこんな原稿を書いて持つて行つても、それを出版してくれる様な篤志な本屋も恐らくなかつたであらうし、しかたなしに自費出版にしたとしても、せいぜい二三百部も売れゝば好成績の方だつたであらう。而るに戦争による通貨膨張に加ふるに、戦災の為の書籍飢饉は、たとひどんなにつまらない本でも出せば出しただけ必ず売れると云ふ変則的な好景気を出版界にも出現せしめたのである。斯の如き状態が日本の出版界、ひいては文化一般の為に果して慶賀すべきことか否かは知らぬ。然しとにかく、インフレの為に最も悩まされることの大きい世の学者達にとつては、まことに天の助けとも云ふべき有離い現象であつたことだけは確かである。
 唯利潤を追求するにのみ汲々たる出版業者の請に任せて、手当り次第書きなぐり、殆ん売文業者たるり譏り〈ソシリ〉りをも受くべき底〈テイ〉の学者の多く存在したことも争はれぬ事実である。而もそれは、人々がとかく無反省に堕り勝ちな戦争中のみに止らず、敗戦後既に一ケ年を過ぎた今日に於いても未だに蕩々として止むべくもない趨勢であることを悲しむ。然し乍ら、一般の物価が戦前の数十百倍にも騰貴したに拘らず、正規の収入が依然として殆んど停止状態にある学者達を、その無節操の故に責めることはむしろ酷に過ぎるものと云はねばならないであらう。闇商人になるよりはましだと云ふ弁解のことばは、世の凡ゆる批難をして殆んど沈黙せしめるに足る力を有してゐる。学者とて生きねばならぬ、妻子をも養はねばならぬ、そしてその道は、殆んど売文以外に存在しない以上、或る程度学者的良心を麻痺せしめてでも筆のつゞく限り書きなぐることは生きる為に正常の権利だつたのである。
 私が本書を執筆するの止むなきに至つた機縁も要するに以上述べた如き一般的な経済事情によるものであることは今更云ふまでもないのであるが、さりとて又、斯う云つた題目の下に一巻の書を成すことに対して私が全く学者的良心を捨ててかゝつたと云ふわけでも決してない。少くとも現在の私にとつて能ふ限りの努力を傾注して事にあたつたことだけは誰憚らず公言し得る所である。唯然し、斯くの如き概括的な内容の書を成すに、私の様な知識浅く、経験乏しき若輩の不適当であることは私自身最も痛感してゐる所であつて、その点一般読者並びに書肆の御期待に添ひ得るかどうかをひそかに惧るゝものである。

 昭和二十一年九月上浣    京都帝国大学国語国文学研究室に於て  濱 田 敦

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