礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

宣教師らを驚かせた将軍足利義輝の惨殺(1565)

2022-06-14 05:32:27 | コラムと名言

◎宣教師らを驚かせた将軍足利義輝の惨殺(1565)

 雑誌『伝統と現代』、「叛逆」特集号(第二巻第一〇号=通巻第一六号、一九六九年一一月)から、杉山博の「戦国の叛逆者たち」という文章を紹介している。本日は、その三回目で、「3 松永久秀の叛逆」の前半を紹介する。

  3 松永久秀の叛逆
 体制側の無力・無策と、反体制側の叛逆の成果をみてとった人々は、十六世紀に入ると、ますます叛逆の火の手を各地におこした。「君、君たらずとも、臣、臣たり」などという、かつての太田道灌のような武士は、影をひそめてしまった。いまや大半の武士が、「君、君たらざれば、臣、臣たらず」と、主家に叛逆し、給恩の不足を理由に、簡単に別の主家に仕官がえをしたりするようになった。
 そればかりか、主家をわがもの顔に牛耳ったり、あるいはもっと積極的に主人を殺害して主家をのっとりはじめた。こうして叛逆は、日常の茶飯事となっていった。
 バリニャーニ(一五三九——一六〇六)というイタリアの宣教師は、その様子を耶蘇会総会長宛に、つぎのように報告している。
 「この国民の悪い点は、その主君に対して、ほとんど忠誠心を欠いていることである。主君の敵方と結托して、つごうのよい機会に主君に対し叛逆し、みずからが主君となる。反転してふたたびその味方となるかと思うと、さらにまた新たな状況に応じて謀叛するという始末であるが、これらによって、かれらは、名誉を失いはしない」と。
 バリニャーニが、まさしく指摘すたように、叛逆があいついで成功すると、いつの間にか叛逆そのものが公民権をえて、いわば大っぴらとなり、叛逆するということが、かれらにとってけっして不名誉なことではなくなってきてしまった。清貧と禁欲と服従の誓いをたてて、軍隊的な組織によって、厳格に訓練されていた当時の耶蘇会士らにとっては、この日本の戦国武士の叛逆は、いかに破廉恥なものに見えたことであろうか。宣教師らは、服従という美徳にささえられていたのであるから、たちまちにして、戦国武士の欠点を見抜くことができた。
 斉藤道三〈ドウサン〉・陶晴賢〈スエ・ハルカタ〉そして松永久秀と、いまや戦国のわが国は、叛逆の常習犯が、続々と登場してきた。なかでも永禄八年(一五六五)五月十九日の将軍〔足利〕義輝の惨殺は、とくに宣教師らをおどろかせた。ルイス・フロイスは、その著、「日本史」のなかで、この事件を詳細に報告している。おそらく、フロイスの記述は、永禄の事件のもっとも正確な記録であろう。その一部をよんでみると、つぎのようにのべられている。
 「みやこには、内裏【たいり】(天皇)に次いで、日本最高の顕位である公方【くぼう】様(将軍義輝)が住んでいた。諸人が彼に服従していたわけではなかったが、諸人は最高の殿として彼の優位を認めていた。この殿は、三好殿(義継)という一人の執政をもっていた。みやこから十一レグワ離れた飯盛城に住んでいて、これまでの戦争によって数カ国を獲得して、当時それを支配していた。彼はその頃二十三、四歳と思われ、百五十乃至二百人ほどのキリシタン武士は彼の家臣であった。
 三好殿の下に、もう一人の執政があって、名を弾正殿(松永久秀)といった。この人は大和国の殿で、年長じ、勢力あり、富裕で、人びとから恐れられていて、たいそう恐ろしい暴君であった。彼は三好殺の家来であったが、彼の偉大な活動力と老獪さの結果、天下を支配し、彼が欲することだけが行なわれていた。無制限に勢力をふるい、公方様に対する服従によって妨げられないように、権力の道で最高顕位に登ろうと意を決した。彼は若い三好殿と、どういう方法で公方様を殺して、阿波にいる公方様の近親の者(のちの十四代将軍義栄〈ヨシヒデ〉)をその地位につけようかと議り〈ハカリ〉、その人にはただ公方という名称だけ与えることにすれば、その後、二人(三好義継と松永久秀)が協力して天下を支配することになるであろうと考えた。」と。【以下、次回】

 ルイス・フロイス(Luis Frois)は、ポルトガル出身のイエズス会士(一五三二~一五九七)。一五六三年(永禄六)に来日。著書に『日本史』。

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