礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

決然戦ふにおいては死中活を得べし(阿南惟幾)

2020-04-09 04:56:14 | コラムと名言

◎決然戦ふにおいては死中活を得べし(阿南惟幾)

 雑誌『自由国民』第一九巻二号(一九四六年二月)から、迫水久常の「降伏時の真相」を紹介している。本日は、その七回目。

 〔八月九日〕午後一時会議は一応休憩し、〔鈴木貫太郎〕総理大臣か出て来られたので、私〔迫水久常〕はその結果を伺ふと、意見は二つにわかれた。一つの意見はポツダム宣言を無条件受諾すべしといふにあり、他の一つは、
 一、占領軍は、我が本土に上陸せざるやうに、交渉すること
 二、在外皇軍は、所在において無条件降伏の形式をとらず、自発的に撤兵して復貞すること
 三、戦争犯罪人の処罰は、本邦側において、これを行ふこと
の三条件を付すべしとの意見とにわかれた。但し両説ともに『ポツダム共同宣言が、天皇の国法上の御地位を変更する要求を含まざること』を前提とするものであるとの事であつた。(此の会議の最中に第二回目の原子爆弾の攻撃が長崎に対して行はれた)
 そこで最高戦争指導会議は一応其の侭として、直に閣議を開くこととし、午後一時よりこれを開いたが、先づ陸、海軍大臣より今後の戦争見透しについて説明することとした。〔米内光政〕海軍大臣は極めて簡明に、到底見込立たざる旨を述べられ、〔阿南惟幾〕陸軍大臣は本土決戦の段階に入れば、少くとも一応ば敵を撃退し得べく、その後についでは必勝の見込は立たざるにせよ必敗といふわけでもない、決然戦ふにおいては死中活を得べき公算も生ずべき旨を力説せられた。
 これに続いて〔豊田貞次郎〕軍需、〔広瀬豊作〕大蔵、〔石黒忠篤〕農商、〔小日山直登〕運輸、〔阿部源基〕内務の各大臣から、経済国力より見た戦争遂行の見透しに就ての説明が詳細に行はれた。何れも極めて悲観的な見解である。たゞ内務大臣は、終戦となつた場合の人心の動揺は警戒すべきものがあり、治安上極めて不安ある旨を述べられた。各大臣の発言は平生の閣議よりも遥に真摯な、そして熱心なものであつた。この説明が一応終つた所で、〔東郷茂徳〕外務大臣より最高戦争指導会議における論議の状況を報告し、総理より、これに関して各閣僚の意見を求められた。
 閣僚の大部分は無条件受諾であり、若干の閣僚は三条件を付すべきことを主張し、中には三条件の中〈ウチ〉一乃至二条件にて満足すべき旨を述べるものもあつたが、大勢は、かくのごとき条件を付するにおいては到底話は成立せざるものとの見解が多かつた。一部の閣僚は政治の常道に従つて総辞職すべき旨を論じたものもあつたが、総理は決然として、これを却けられた。平生の閣議では、総理は各大臣の発言に全く干渉せられず、私などは実は総理がもつとてきぱきと閣議を進められる方がよいと思つた事もあるが、この日の閣議では、総理は全く別人の如く会議を指導されたことは特に印象に残る所である。閣議は午後八時に至つても、尚一致点に到達しない。そこで一応休憩することとした。
 総理は、斯くの如く論議を尽して尚決せず、而も時間的に遷延を許さざる事態に立到つた以上、甚だ恐懼〈キョウク〉に堪へざるところながら、御聖断によつてことを決すべきことを決意せられたのである。こゝに於て再び最高戦争指導会議を、今度は御前に於て開くこととし、其の為に必要な正規の手続が執られた。而して此の場合、特に枢密院議長平沼〔騏一郎〕男爵も会議に列席せしめらるゝ(最高戦争指導会議に関する規定に基き)手続がとられた。【以下、次回】

 文中、「此の会議の最中に第二回目の原子爆弾の攻撃が長崎に対して行はれた」とあるが、長崎への原爆投下は、一九四五年(昭和二〇)八月九日午前一一時〇二分である。最高戦争指導会議のメンバーが、この報に接したのは、同日午後一時に同会議が休憩に入ったときと考えられる。
 そのあとに、「そこで最高戦争指導会議は一応其の侭として、直に閣議を開くこととし」とあるが、この「そこで」の意味がハッキリしない。あるいは、この日の午後一時から閣議という日程が、すでに組まれていたので、といった含みか。
 いずれにしても、最高戦争指導会議が休憩にはいったのが午後一時、閣議の開始が午後一時ということで、総理、外務、陸軍、海軍の四大臣には、「休憩」はなかったということである。

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