◎清子は伯父に当たる岡田首相の自邸にいた
瀬島龍三の『瀬島龍三回想録 幾山河』(産経新聞ニュースサービス、一九九五)を紹介している。本日は、その四回目。
本日から明日にかけて紹介するのは、第一章「幼少期から陸大卒業まで【明治四十四年~昭和十五年】」の第三節「結婚~満州出動~陸大受験」中の「母の重態と私の結婚」の項(四四~四九ページ)の前半にあたるところである。
母の重態と私の結婚
母〔つゑ〕は非常に苦労した人である。というのは、父が日清、日露の戦争に出征し、帰還後もほとんど公の仕事に就いていたため、家業の農作業は母が取り仕切らなければならなかったからだ。その上、八人の子供の養育も母の肩にかかっていた。しかし母は、朝から晩までガミガミ子供を叱りつけるタイプではなく、前にも買いたが、私が腕白して職員室前で立たされた際にもらい下げに来たときも、後で叱りつけたりはしなかった。
その母が昭和九年〔一九三四〕二月ごろから病気にかかり、入退院を繰り返すようになった。当時、母は不治の病だったので、自分の生命はそう長くないと覚悟していたのか、しきりに、直接に、あるいは姉を富山に使いによこして私に結婚を勧めた。知り合いの人や軍の上司などから、生家に結婚話が数多くきていたようで、それらの写真や書類を富山の私のところへ折々届けてきた。
しかし、私自身には当時、結婚する意志は全くなかった。少なくとも陸軍大学校へ入ってから……という気持ちと、連隊での勤務に追われていたせいでもあった。それで、母や姉から送られてきた写真や書類が入った封筒は、一切封を切らずに送り返していた。なまじっか中身を見てから送り返すのは、相手に対して失礼だと思っていた。
同年末ごろだったか、私は連隊から千葉の陸軍歩兵学校に通信学生として派遣された。翌十年〔一九三五〕一月二十一日、この日付ははっきり覚えているが、千葉の下宿先に生家から「母、重態」の電報が届いた。母は金沢の大学病院に入院していたが、余命いくばくもなしと覚り、ぜひ自分の家の仏壇を拝してこの世を去りたいと強く希望し、父、兄、姉らに見守られて病院から家に帰り、臥せっていた。
学校の許可を得て二十一日、上野発の夜行列車で発ち、二十二日朝、雪の石動〈イスルギ〉駅に着いた。約二㌔の雪道を駆け、母の枕元に座ったときには、母は全く昏睡状態だった。姉が「龍ちゃんが帰ってきましたよ」と大きな声で何回も呼びかけると、母はうっすらと瞳を開いた。そして、言った言葉が「龍ちゃん、あんたの嫁を見ないで去るのが心残り」だった。
この母の「今生最期」の言葉は、大変なショックだった。私は返す言葉もなく二階にかけ上がり、部屋に閉じこもって考え込んでしまった。どうすればよいのか、迷いに迷った。
私は兄(松男)に聞いた。「あと何日くらい、もつのですか」。
兄の答えは「せいぜい一週間くらいだろう」というものだった。私にとって母はこの世にもあの世にもただ一人だけだ。よし、母の意識があるうち、この一週間で結婚しよう、少なくとも相手を決めようと決心した。
とはいうものの、恋人とか、今日でいうガールフレンドでもいればいいが、これが全くいない。一方、タイムリミットは切迫している。決心はしたものの、考えあぐんだ末、父、兄、姉に「お母さんがああ言われたから、あしたでもあさってでも結婚する。しかし、自分には心当たりがない。ここ一年間、金沢の病院で母に付き添っていた看護婦さんでもいい」と言った。これなら一番早いと思った。
ところが兄は、私たち将校が結婚するときは陸軍大臣に申請、許可を得なければならないことを知っており、「慎重に考えよう」と答えた。そのとき、姉が半ば泣きながら「それじゃ、お母さんに何か心当たりがあるかもしれないから」と言った。そして、母の耳元に口を寄せ、「龍ちゃんが今すぐ結婚する、その相手はお母さんに任せると言っている」と大きな声で伝えた。すると母が「ありがとう。この人が一番いい」と答え、枕元にあったいくつかの書類のうちの一つを姉に手渡した。
「この人」とは松尾清子、つまり現在の妻のことだ。もちろん私は「この人」のことは全然知らず、写真を見たこともなかった。しかし、父や兄は以前から、候補者の一人として考えていたようだった。
これで内々の話は決まったが、それからの手続きが難しい。「この人」清子の話を私の生家に持ってきた人は、清子の父(松尾傳蔵大佐)が日露戦争に従軍したときの部下で富山市にいる伊賀という人だった。そんなわけで、兄が早速伊賀さんに連絡した。そして伊賀さんが松尾家に知らせた。当時、清子の父は、義兄に当たる総理大臣、岡田啓介の官邸で勤務していて、清子は母の実兄で伯父に当たる岡田首相の自邸(新宿角筈〈ツノハズ〉の古ぼけた家だった)にいた。
伊賀さんから連辂があったとき、清子はお茶の稽古に出掛けていたが、家にいた叔母から電話が入り、用件も告げられずにただ美容院に回ってすぐ戻りなさい」と命じられたという。ともかく、こうして話はとんとんと進み、清子は父に伴われて、二日前に私が乗った上野発の夜行列車で東京を発ち、一月二十四日朝に高岡に着いた。【以下、次回】